第六章 『明日香の宝物』
少し緩めのボールが、明日香のグローブに収まる。明日香はまたか、と察したように不満そうな顔をした。
「今、手を抜いたでしょ!女子だからって。そういうのいらないから!」
「まだ肩が出来上がってないだけだよ」
もちろん優太は図星だった。対する明日香は少なくとも初心者のレベルではなかった。綺麗なフォームから少し怒ったような、感情の乗った球威のある球が返ってきた。これで小学生の頃にしか野球をしていなかったのであれば、かなりの才能の持ち主なのかもしれない。
バシッと優太のグローブから音が鳴る。手が痛いくらいだ。改めて公式試合に出られないことが悔やまれた。爽快な笑顔の明日香を見つめる。白くしなやかな体躯は黒土とのコントラストを際立たせ、とても美しい。
優太はなんとかして明日香をグラウンドに立たせてあげたいと思った。そのためには明日からのクラブ勧誘を頑張るしかない。
「明日香、明日からのクラブ勧誘期間で何としてもあと7人見つけるぞ」
優太はボールを投げながら、言葉をかける。珍しく明日香はボールをこぼし少し驚いた表情でこちらを見つめ、嬉しそうに笑った。
「うん、優太くん!頑張る!」
いつしかお互い名前で呼びあっていた。明日香は地面に落ちた白球を拾い上げると、先程にも増して速いストレートを投げ込んだ。真新しい制服のスカートは砂埃を吹き飛ばした。
気づくと日は沈みかけていた。周りの民家はチラホラと灯りが灯り始めている。
「そろそろ帰るか」
優太は明日香の放ったボールをバシッという音とともに捕球すると、明日香の方へ近づいていく。そうだね、と彼女は答える。
明日香が左手にしているグローブに刺繍が施されているのに優太は気づいた。
「そのグローブってもしかして硬式用?少年野球しかしてなかった割には、使い古されてる気がするけど」
「うん、硬式用だよっ」
明日香はそう答えながら、あくまで自然を装ってグローブを背中の方へ隠したように優太には見えた。
「刺繍してたよね、見せてよ」
優太は何の気なしに興味を示す。
「うーん、まぁ、刺繍なんてどうでもいいじゃん。意気込みみたいなのを知られるってなんか恥ずかしいし」
明日香は明らかにおどおどし始めた。さすがの優太も異変を察知した。
明日香の背後からは新部室棟をかすめるように逆光が射している。
「なんか隠してるだろ」
煮え切らない態度の明日香に少し苛立った優太は明日香にさらに近づいた。明日香は一歩下がって距離を取ろうとしたが、優太が明日香の左腕を掴んだ。観念した明日香はグローブを優太へ差し出した。目線は優太の足元を向いている。
使い込まれて柔らかくなった朱色のグローブ。その親指付け根の部分には赤い刺繍でこう刻まれていた。
『甲子園』