94話
もし右の手があなたをつまずかせるなら、切り落として捨てよ。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。
旧い方の魔王とは、言わば、パンの付き合いである。
俺は旧い方の魔王の部下を殺したり埋めたりしつつ、部下からのダイイングメッセージをパンに変えて送り付けるというそれこそ悪魔の所業じみた事をやらかしているのだ。
なんとなく部下思いらしい魔王の事だ、それをやっていたのが俺だと知ったら激怒するかもしれない。いや、する。
そして、今まで食っていたパンが部下からのダイイングメッセージであったと知ったら、魔王は絶望するかもしれない。
送りつけられたカニパ○が邪神でもなんでもなく、元々只の美味しいパンであることを知ったら、やっぱりがっかりするかもしれない。
……つまり、だ。
俺は、これから冥府に行って、多分、どこかで魔王とエンカウントするんじゃないかと思われるが。
その時、俺は俺の正体を、魔王に知られない方がいい!
間接的かつ一方的にお知り合いである仲だなんて、絶対に!知られない方が!いい!
嫌な冷や汗かきつつも布団から這い出て支度をし、カラン兵士長を起こし……朝早い内からさっさとエラブルの町を出て、ルカの山……そして、冥府の門へと、俺達は出発したのであった。
以前とは違い、火山の中はあまり暑くなかった。
「火山、というから、もっと熱いのかと思ったが」
「残念ながら熱い成分は大体全部パンになって飛んでいったので」
その暑さ熱さの代わりなのか、奥へ進めば進むほど、底冷えするような冷気が満たされている。
こんなの火山じゃない。死火山にしてももうちょっと火山らしさを前面に押し出してほしい。ちょっとこれは寒い。
「……この冷気は、嫌な感じがするな」
「これ多分あれですよ。地下にある地獄の門という名の冷却材が原因ですよ」
「なんだそれは」
確か前回、『一切の希望を棄てよ』の門の前から逃げ帰った時、あの門周辺が滅茶苦茶寒かった覚えがある。
火山の熱さが抜けた分、より一層あの門の冷気が増してるんだとしても全く不思議は無い。
何と言っても、相手は地獄の門である。地獄の門。俺は地獄がどうなってるのか生憎未だに見た事は無いが、何が起きてもおかしくなさそうな場所だよな、ぐらいの感覚はある。そして実際、火山の下にあったにもかかわらずあの冷気であったのだ。多分そういう場所なのだ。地獄ってのは。ああ、地獄ってのは!
……地獄、っての、は……。
あ。
「……ところで、タスク」
「はい」
「エピは……『地獄』に居る、のか……?」
……。
「地獄がどっかで天国と繋がってる可能性に期待しましょう」
「ま、まあ、この世よりはあの世ということで、まだ地獄の方が天国に近い、のか……?」
多分。
多分、エピは、地獄行きにはならない、と思う。なんてったって、エピだから。
なので……。
「地獄めぐりの先が思いやられる」
「全くだな……」
地獄めぐりは、相当に長いものになりそう、である。
「着いちゃったよ」
「これが地獄の門か……」
そうしてルカの山の奥底へと到達した俺達の目の前には、おどろおどろしい雰囲気と、骨も魂も凍れとばかりの冷気に満ち溢れた、門があった。
『汝らここに入るもの一切の希望を棄てよ』。
門の文句もお変わりない様子で何よりだ。
……さて。
「じゃ、行きますか」
「ああ」
俺は地獄の門の大扉に手をかけた。
『汝らここに入るもの一切の希望を棄てよ』、か。
生憎こんな性格だもんで、希望を棄てる気はさらさら無い。
或いは、希望の一切を失ったとしても、絶望を燃料に這い進んでやる所存である。
今、俺の足を前へと進めるこれが希望なのか野望なのかはたまた別のものなのかは分からない。
が、エピを連れて帰るためなら、地獄の門に喧嘩を売るのもやぶさかではない。
ギギ、と重い音がして、扉が開く。
ぶわり、と広がる冷気に今更竦むような足でもない。
俺は地獄へと踏み入った。
「……地獄か!」
「いや地獄だが」
さて。
地獄だった。
踏み入った先は、確かに地獄であった。
「めっちゃ蚊が居る!」
なんと、夏のキャンプ場かと思われる程度に、蚊が居た。
そして、俺達の他に居る人達が、割としょっちゅう蚊に刺されていた。
地獄だ。ここは確かに地獄だ。しかもこれ、刺されてもキン○ンも○ヒも無いんだろ?地獄だわ。
「俺が想像していた地獄と違うんだが……」
「でもこれは間違いなく地獄ですよカラン兵士長」
名づけるならばカユイ地獄、とかだろうか。或いは、例の嫌な「ぷーん」なる羽音によるプーン地獄とかであろうか。
これは滅茶苦茶に地味だが、確かに効く。うん、かなりこれは計算されつくした地獄だな!
が、一応、蚊対策はできる。焼け石に水のような気もするが。
「タスク、何やってるんだ」
「いや、ここの泥水、スパークリングワインにしておこうと思って」
「わ、訳が分からないぞ」
まず、そこらへんにあった泥水の淀んだ池を丸ごとスパークリングワインにする。
すると、しゅわしゅわ、と、泡が出てくるわけだ。
続いて、池の底や池の近くの石を適当に塩バターパンにして、火を点ける。
「どうだあかるくなっただろう」
「まあ、明るくなった上に暑くなってきたな……」
蚊は二酸化炭素や熱に反応して寄ってくるらしい。
そしてそもそも、虫ってのはある程度、光に寄ってくるようだ。
この薄暗い中、パンバーニングファイアによって煌々と照らし出されたスパークリングワインの池。溢れ出る二酸化炭素とアルコール臭。
……蚊がそちらにおびき寄せられていった。
そして!
「み、見ろ!酒の池があるぞ!」
「酒だ!灯りだ!」
「パンもある!」
……蚊よりも、人が、そっちに集まった。
するとまあ、人が多い所は当然、二酸化炭素も熱も増える訳で、そっちにますます蚊が寄っていく。
「結果オーライ」
「いいのかこれは」
結局、飲めもしないような泥水の池を幾つかワインの池にして、どうでもいいかんじの岩山をパン山に変えてきた。
地獄の人達喜んでたから、まあいいってことにしよう。その分、多少、蚊に刺されると思うが、まあ、ここ、娯楽があるとは言えないからな。酒とパンで楽しんでもらう代金ってことで許してもらおう。エイメン。
その後、進んで行ったら蜂だの虻だのも出てきたが、パンガードで防御した。
最初からこうすればよかった気もする。
さて。
進んでいくと、俺達の目の前には川が現れた。
「これがかの有名なサンズリバーか」
「なんだサンズリバーって」
つまり、ここを渡ったらあの世……え?じゃあ何?さっきの蚊はまだ現世だったのか?それともこの川は別に三途の川って訳じゃないのか?地獄の中にいくつ川があってもそりゃおかしくは無いが……。
なんとなく釈然としないまま、とりあえず、川を渡る方法を探す。
すると、それはかなり簡単に見つかった。
「成程、あの船頭によって川の向こうへと渡らされる訳か」
「そうですね」
見れば、川岸のある一か所で、騒ぎが起きている。
それは人々が櫂を持った人にベシベシやられつつ舟に乗せられ、川の向こう側へ強制連行されているための騒ぎであった。
「あの人達は……川を渡りたくないんですかね」
「そりゃ、地獄には行きたくないだろうな……」
あ、そうだった。俺達は事情が別だが、普通の人はここに死んで来ている訳だ。そしてこれから地獄行き、と。成程、
舟に乗りたがらない訳である。
ということは、舟に乗りたい俺達はさぞかし良いお客だろう、と思いつつ、日本人の習性を生かして船着き場の行列に並び、そして、遂に!俺達の番がやって来た!
「はい、さっさと乗ってね」
「ああ分かった」
「よっしゃーやっと順番来たぜ!」
櫂を構えた船頭に促されるまでも無く、俺達は進んで舟に乗った。
「えっ」
何やら、周りの人からも船頭からも驚かれたが仕方あるまい。俺はさっさと地獄に行きたいのである。
「……もしかして」
すると、何やら訝しんだ様子の船頭が俺達の方に来て、まじまじ、と俺達を見つめた。
……そして。
「せ、生者っ!?」
俺達にそう言って、慄いたのであった。
「駄目だったか……」
「やっぱ六文銭ぐらい用意してくるべきでしたね」
「何だ、ロクモンセンって……」
結局、俺達は舟に乗せてもらえなかった。
曰く、『生きてる人を舟には乗せられないよ!』と。
俺達も相当粘ったのだが、相手は相手でこの仕事に誇りを持っているらしく、毅然とした態度で断られてしまった。
俺達としても真面目に仕事をしている人の邪魔をこれ以上するのは気が引けるので仕方ない、舟を諦めて退却してきた次第である。
だが、この川を渡らなければ地獄に渡れないのは自明の理。何としてもこの川を越えなければならないのだが。
「どうしたものか」
じっと川を見つめて考えるカラン兵士長。その横に並んで俺も川を眺める。
川幅は50mよりはありそうなかんじだ。流れはかなり早い。水の中の様子は暗くてよく分からない。
「泳いで渡る、とかどうですか?」
が、まあ、50mぐらいならなんとかならんでもない気がする。提案してみるも、カラン兵士長の反応は芳しくなかった。
「駄目だな。見ろ、タスク」
カラン兵士長は川の水面のある一点を示した。
……そこに居たのは、舟から飛び降りたらしい人だ。余程、地獄に行きたくなかったと見える。
が。
その人は、何事か叫びながら、必死にその場でもがいている。
『その場で』だ。流れの速い、この川で。流されず。『その場で』。
……やがて、その人は川の底へと沈んでいった。
まるで、何かに足を掴まれて引きずり込まれたかのように。
「ひええ……地獄かよ……」
「地獄だぞ」
正に地獄絵図であった。怖い。うっかり泳ごうとかしなくてよかった。カラン兵士長、止めてくれてありがとう!
さて。
泳いで渡るのは駄目、舟には乗せてもらえない。
となると、後は自力で舟を作ってなんとかするとか、そういう程度の対策しか思いつかない。
が、それはかれこれ数度失敗の実績があるのでやりたくない。カラン兵士長も一回難破してるからな。フライパンで助かってるが。
まさか、地獄のこんな速い段階で詰むとは思ってなかったぞ。さて、どうしたものか……。
悩んでいる俺達の視界の端に、ちらり、と、何かが光った気がして、そちらを向く。
すると、それはちらちら、と光りながら、俺達の方へやって来た。
「……人魂?」
人魂、と称するにふさわしい見た目のそれは、ゆらゆらちらちらと光を放ちながら、俺達……いや、俺に向かってやってきた。
そして、懐っこい生き物のように、俺の手元まで寄ってくると、ふるふる、と揺れた。
続いて、ぐるぐる、と俺の手の周りを回り始める。なんだこいつは。
しばらく俺達が観察していると、その人魂は、そっ、と俺の指……いや、指に嵌めた指輪に触り、それから、ふっ、と浮き上がり、俺の目の前へやって来た。
そこでくるり、と一回転すると、ふわふわ、と飛んでいき……船頭たちの居る方とは反対方向へと飛んでいく。
ぽかん、としていると、人魂は少し飛んでいった所で止まった。まるで、俺達を待っているかのように。
「……行きましょう」
「案内人、なのかもな」
あの人魂が何なのかは分からないが、俺達は人魂についていくことにした。
俺達が歩を進めると、まるで、それでいい、とでも言うように人魂は一度上下に揺れ、それからまた、飛び始めるのだった。