42話
夏の国からそう離れては居ないはずなのだが、夜だからか、水はとても冷たく感じられた。
服が水を吸って肌に張り付いて、重い。
暗い水の底に向かっていくエピを追って、俺も無謀に素潜りしていく。
潜る時にはフライパンが役に立つ。
……吸引力の変わらないただ1つのフライパン。川登りだけじゃなくて潜水にだって役立つのである。
フライパンの速度は大したもので、なんとか、エピに追いついた。
必死に手を伸ばしてエピの腕を掴む。
エピは気を失ってしまっているらしく、ぐったりとして反応が無かった。……もう死んでる、なんてことは、無いよ、な?
エピを引きずり込もうとしていた水については既にフライパンを通して雨となって降り注いでいる頃であろう。つまり、俺達を拘束しているものはもう無い。
片手にフライパン、もう片手にエピを抱えて、水上目指して進む。このままじゃエピだけじゃなくて俺も危ない。そろそろ息が詰まる。
……が、現実は非情である。
突如、俺諸共エピを海底へと引きずり込もうとする力に襲われた。
『にがさない』
エピの脚を掴んでいたのは、幽霊めいた女であった。
その女と目が合う。
暗い海の底より更に深く黒い瞳と目が合った時、ゲームのリセットボタンを押すが如く、俺の意識はぶつっと途絶えた。
……ぼんやりと、目を開く。
遥か遠くに光り揺らめく水面が見えた。
ここは一体、どこだろうか。
薄暗い中、辺りを見回す。
「……海底だった」
海底であった。ここは海底であった。
ただし、空気があるっぽい。呼吸はできるし、普通に起き上がって歩けるし。
海底なのに、水は無い。不思議なもんだが、そういうもんだからしょうがない。このファンタジー世界だ、このぐらいのファンタジーはあって然るべきだろ、と、自分で自分を納得させる。オーライ。
だが、ざっと、見渡してみてもエピが居ない。
……記憶の最後には、真っ暗な女の瞳が残っている。エピの脚を掴んでいたあいつである。
状況証拠からして、エピが聞いた歌声ってのはあいつのものだろうし、エピがイカに狙われたのも、あの女のせいっぽいよな。そして、エピは多分、あの女にとっ捕まってるんだろう。
幸いなことに、辺りを見渡せば岩礁の中に洞窟のようなものが見えた。多分、あそこだろうなあ。
落ちていたフライパンも無事に回収し、俺は洞窟に向かって歩き始めた。
荷物を持たずに海に飛び込んじまったので、ランプとか持ってない。
唯一、ポケットに入れてあった火の魔法札があったので、それに火を点けながらなんとか洞窟の中を進む。
洞窟はただ暗くて湿っぽいだけなので、小さい灯りと手探りだけで進んでもそんなに問題は無かった。
……そうして進み続けること、数分。
洞窟を抜けた先には、背の高い岩礁に囲まれた、少し開けた空間があった。
「エピっ!」
そしてその中央には、ぐったりと横たわるエピと、暗い瞳の女が居た。
ゆらり、と女が振り向く。
『もう来たの……』
女の声は、水中で聞いているかのようにぼんやりと揺れる。奇妙なもんだ。いや、それを言うと、海底にこうやって空気があるってことも既に奇妙だが。
「てめえ、エピに何をした」
女の背後、エピはぐったりとしたまま、起きる気配が無い。呼吸もあるのかないのか、ここからだと判別できない。
『簡単な事よ……私に掛けられた呪いの対象を、この子に移しているだけ』
「呪い、だと」
問い返せば女は、その美しい顔にぞっとするような笑みを浮かべた。
『ええ。私を海の底に縛り付けている、この呪いを』
……あの船員のホラーな話は本物だった、ってことか?
確か、『海の精霊に一目惚れされて海底に引きずり込まれた挙句、満月の夜にしか覚めない眠りに就かされた』んだったか。
「おいちょっと待て、エピを眠らせられちゃ困る」
一応、言ってみるも、女の反応は芳しくない。
『そう、悪いけれど、私もこの子は譲れないわ』
「他の人間じゃ駄目なのか。例えば俺とか」
『ふざけているの?あなたに私の代わりが務まる?この子は美しいわ。この子の美しさならば、私の代わりになるはず』
いや、確かにエピは……こう、海底に揺れる薄明りの中で、死んだように眠っている様子を見ると、なんか……可愛いっつうよりは美しい、っていう雰囲気ではある。
……しかし、俺は遠回しに不細工って言われたのか?いや、その前に男女の垣根があるのかもしれんが。
『私の代わりにこの子を差し出せば……』
だが、何としてもこの女の野望は阻止せねばならない。エピが眠っちまうと俺も困るが、それ以上に、エピが困る。
「お前がどうしてもエピを諦めてくれないってんなら、俺はお前を殺すしかないぞ」
『へえ』
言うと、女は面白そうにせせら笑った。
『できるものなら、やってみなさ』
許可は得た。なので、女の足下の岩礁をパンに変えた。
パンに埋もれた女が何か言っていたが、それには構わずエピに近寄る。
エピは相変わらず、死んだように眠っている状態である。呪い、とか言ってたな。となると、普通に起こしても起きないのか、これは。
「エピ、おい、起きろ」
念のため揺すってみるが、反応なし。しってた。
『無駄よ……』
そして、女はパンから這い出てきたらしい。長い髪を振り乱し、どこぞのテレビから出てくる女幽霊の如く、パン穴から這い上がった状態でこちらを見てきた。怖い。
『海の精霊は、確かにこの子を気に入ったみたいね』
女が言った途端、エピに触れていた俺の手に、バチリ、と、電気のようなものが走った。
もう一度触れようとすると、また同様に、バチリ、と。
これがその、海の精霊とやらの仕業なのか?
どうしたらいいんだ、こんなもの……。
軽く絶望していたら、女が呟いた。
『ああ、やっと私に飽きてくれたわ……これで、やっと……』
死ねる、と。
俺がその言葉にぎょっとして振り向くと、女は既に、尖った石の欠片を握りしめていた。
そして、女は自らの喉に向けて、石の欠片を……。
「ちょっと待て、お前はまだ死ぬんじゃねえ」
『……えっ何これ』
石の欠片はパンの欠片になって、女の喉で、もふ、と潰れた。
自殺防止したところで、俺は声を張る。
「おい、聞こえているか、海の精霊!返事をしろ!」
駄目元で言ってみたのだが、突如として、海が唸る。
ごぼり、と泡を立てながら、海底近くの水がうねった。あれが返事、なのだろうか。
「お前はこの子を気に入ったのか!」
是、とでも言うように、海水がうねった。
……よし、意思の疎通はできる!ならば、いける!
俺には、人心を掌握する能力も、民を導く能力も無いらしい。
だが!嘘とハッタリ程度なら、幾らでも積み重ねてやる!
「そうか。だが一応言っておくが、この子は男だぞ」
「その子は今、超高度な幻術を使ってその姿に化けているが、実際の姿は身長185cmで体重95kgの巨漢だ」
明らかに、海がざわめいた。
『な、う、嘘でしょ?こんなに綺麗なのに……』
「おっと、確認しても無駄だぞ、今は幻術が掛かってるんだからな……それに、もしかしたら、『そこ』だけ幻術を掛けていないかもしれない。汚いものを見る羽目になるかもな」
エピのスカートの裾を捲ろうとする女を留めると、女はぎょっとしたようにその手を止めた。
そして、一方の海は荒れまくっている。
「それから一応言っておくが、その子の魔法は寝ている間に暴発することがある」
『えっ』
「危険物だぞ。いいのか?」
『ええ……』
「更に言うと、その子はドSだ。俺は毎日その子に鞭でしばかれて踏みつけられている」
『嘘でしょ?』
「嘘だと思うならその子のベルトを見るんだな、使い込まれた鞭がその証拠だ……」
『アンタホモなの?』
「ちがう。その子がノンケでも構わず食っちまう男ってだけさ……」
海が、そろそろやばくなってきた。
「……ということで、その子……いや、その男は諦めてくれた方がお前の身の為だと思うぞ、海の精霊よ」
……多分、海の精霊(仮)は、考えた。
多分、滅茶苦茶考えたんだと思う。
しかし、出した結論は。
「……ん?ええと、何々……」
水を文字のようにして、メッセージを送ってきたのだが。
『呪いで深く寝ていれば関係ない』
こいつ、筋金入りだ……!
くそ、エピが男で爆発物でサドだっつう嘘を重ねても駄目だったか!確かにな!寝てれば性格も中身も関係ないもんな!
「頼むよ、この子は諦めてくれ」
海はしーん、としている。
「そんなに気に入ったのか」
海がごぼり、と音を立てる。
「そっちの女は?」
水が『あきた』とだけ文字を作った。この野郎。
「……じゃあ、こうしよう」
だがな、そろそろ、俺も我慢の限界なんだよ。
手近な水を、一部分だけ、ほんの一部分だけだが……ワインに変えた。
「てめえがワインの精霊になりたくなけりゃ、エピは諦めろ」
この脅しは流石に効くだろ、と思ったら。
バシャ、と、ワインが降ってきた。『ワインだけ』降ってきた。
ごぽごぽごぽ、と、海がうねって波打つ。
……いや、違う、か……うん、違う!
海が、じゃない。
これは、『海と空気の境目』がうねっているだけだ!
『な、これ、は……?』
そもそも、海底に空気がある時点で、おかしいと思うべきだった。ファンタジーやメルヘンだけど海底の世界なんてありえない……というか、もっと、『分かりやすい』解答がある。
この海底に、何故空気があるのか。
答えは、透明な、超巨大スライムによって作られているドームの内側だから、だ!
巨大スライムは体の一部をワインにされた。これは多分、スライムっつう生き物が、『水を身体の一部として使う』みたいな生き物だからじゃねえかな。詳しくは分からんが……要は、石でできたゴーレムをパンにできたのと同じように、水でできたスライムはワインにできる、っつうことだろう。
そして、ワインはドームの天井から降ってきた。
……これがどういうことか、といえば、こういうことだ。
『スライムはワインを身体として使う事はできない』!
ならば話は早い。
俺は、スライムをワインへと変えた。