46、最愛の人へ
駆け足、早足、ごめんなさい。
リシュエールの兄のエディクト王太子は、まだ二十二歳だと聞いていた。だが実際に会ってみると、確かにまだ若輩であることは否めなかったあったが、流石は歴史あるロスフェルティ王国の継承者であるからか、漂う風格はそこら辺の若者とは違っていた。
「許してもらえたのも奇跡かな。」
十代で起業して現在、ロスフェルティがエスティグノアに対してしている借金を、私設商会から得るポケットマネーと彼発案の大規模勃興事業によって恐ろしい勢いで返している。その商才を見る限り、侮れない人物であると言わざるを得ない。
エディクトに早々に話を終えられ急かされて夫婦の寝室へ帰ってくると、早すぎたのかリシュエールはまだ湯浴み中でいなかった。
「今のうちに……」
テレリア公国のあの大公が、あの情報誤伝達事件のお詫びになんでもするとか馬鹿なことを言っていたので遠慮なく使わせてもらって用意したものがある。
よし、とフェルディアドは侍従たちを呼んで準備を始めた。
妊娠がわかってから殊更ゆっくりとするようになった湯浴みを終えて、リシュエールは夫婦の私室に戻った。
フェルディアドはまだいない。パーティーは終わったが、賓客たちと積もる話があるのだろう。本来ならリシュエールもまだ話足りない方々がと今後の約束をするなど、やらなければいけないことがある。だが、懐妊の発表で皆が気を遣ったのか、王妃さまは早くお休みになってくださいとさっさと部屋に帰された。大変不服である。まだそんなに疲れていないと言ったが、お身体第一ですと起こられたので仕方なく戻ってきたのだ。
リシュエールはソファに腰をおろして、自分の腹に手を当てた。まだ五ヶ月に入ったばかりだ。膨らみは少しあるかないかだが、確かにそこに命が育っているということを、母親であるリシュエールは感じていた。
「お母さまですよ。」
まだ聞こえないだろう。それは分かっているが、なんとなくこそばゆい感じが込み上げてきて、リシュエールは微笑む。
「とっても楽しみに、待っていますからね。」
どんな子だろうか、男の子かそれとも女の子か。フェルディアドのプラチナブロンドを受け継いでくれないだろうか。リシュエールは、あのきらきらと輝く髪が好きなのだ。それに、リシュエールに似てミルクティーブラウンの髪の男の子だと、なんだか弱そうな王様な気がする。と言ったら兄に怒られそうだが。
「あぁ、戻っていたのかい?リシュエール。」
「フェル……」
フェルディアドが私室の扉を開けて入ってきた。少し恥ずかしいながらも愛称で呼んでみる。すると、夫にとっても予想外であったからか、すっと頬を赤く染めた。
「……少し、恥ずかしいね。」
「はい……」
「あ、のね。ちょっと見せたいものがあるんだ。…寝室のほうへ行こうか?」
「はい、わかりました。」
見せたいものとはなんだろう。リシュエールがフェルディアドに駆け寄ろうとすると、彼は「もっとゆっくり」と言って、リシュエールの腰に手を回した。
「転んだりしたら大変だろう?」
「ご、ごめんなさい!」
ゆっくり、ゆっくりと呟きながら歩いた。最近の夫は過保護なのだ。
フェルディアドが寝室の扉を開ける。その中を見たリシュエールは、「まぁ…」と言った口のまま固まってしまった。
「どうしたんですの、これ……」
ようやく足を動かして、それ───部屋の中央のテーブルに置かれた、大きな花瓶に飾られた花たちに手を伸ばす。部屋は花の香でいっぱいだった。少し前ならつわりで気分の悪くなる香りだったが、近頃はそれも落ち着いている。
「イザリエで最近流行っているらしいんだ。ほら、今日ローランが来ていただろう?彼から聞いたんだ。」
ローラン自身はテレリア公国という小国の君主である。だが、テレリア公国という国に中継ぎ貿易が盛んなために、近隣諸国はもちろん数ヵ国離れた国の流行も入ってくる。かの国には、大規模な温室があるというので、おそらくそこで育てた花たちだろう。
「イザリエで流行って……」
「そう。恋人や妻に男性から贈る……ディアレストの花束って言うんだって。」
リシュエールもイザリエ語は分かる。「Dearest」は“最愛の人”という意味だ。
「まずは、ディモルフォセカのD。花言葉は誠実、変わらぬ愛、それから明るい希望。」
フェルディアドが、明るいオレンジ色の花弁の指先でつつく。
「次のEはエピデンドルム。花言葉は可憐な恋。」
それはきっと、リシュエールの初恋。
「それからAのアネモネは…」
「君を愛す。」
リシュエールが続きを言うと、フェルディアドはにっこりと笑い頷いた。
Rはもちろん薔薇で、意味は“あなたを愛しています”。
Eのエリカは“幸せな愛”。
Sはスターチス、それもピンク色の花で、永久不変の意味を持つ。
最後のTはタイム、花言葉は“勇気”と“強さ”。何があっても離れない約束。
「イザリエの人はキザですね…」
でも嬉しいと思ってしまうのは、愛する人からの贈り物だからだろうか?
「私の最愛の人、リシュエールに贈ります。…受け取ってくれますか?」
プロポーズのやり直しかのように、フェルディアドは膝をついてリシュエールの手を取った。既に結婚指輪は嵌めてある。そこに恭しく口づけをした。
「…リシュエール?」
「…言葉が、でなくて。あんまり嬉しいとこうなるのですね。わたくし、いま目一杯あなたを抱き締めたい気分ですわ。」
悲しいわけではないのに、涙が溢れて止まらない。嬉し泣きとはまた違う感じで……ただ、愛されていると感じることで胸が一杯なのだ。
「どうぞ」
「はい…」
両手を広げたフェルディアドの胸の中に飛び込む。ぎゅうっと強く抱き締めた。
「……愛してるよ。リシュエール、君だけだ。」
「わたくしも、愛しています。信じてもよろしいのですよね?」
「今度こそ、ね。」
くすり、とリシュエールは笑った。信じるしかないのだ。信じ愛すること、リシュエールができるのはそれだけだ。でもそれでいい。
宝物のようにリシュエールはそっと抱き上げられて、ベッドに連れていかれる。
「さて、初夜もやり直しだよ」
「しょっ……」
にやりと意地悪く笑ったフェルディアドが憎たらしい。
今さら乙女のような反応をするのもおかしいかもしれないが、フェルディアドの明け透けな物言いにリシュエールは頬を染めた。
恭しくネグリジェの紐を引く夫の手をつかんでリシュエールは言う。
「お腹に子どもがいるのですから……その、優しくしてくださいね?」
「っ……もちろんだよ!」
かぁぁっと頬を染めたフェルディアドが目を潤ませて、我慢できないとばかりにリシュエールの首もとに噛み付いた。
跡が残る、初めてされるその行為に少しばかり恐怖を感じる。彼の独占欲の片端。それすらも愛しく思う。
始まりは政略だった。リシュエールたちの間に愛という言葉はむしろ禁句だった。王と王妃の役割が果たせるのなら、リシュエールがこの国のためになるのならそれでいいとも思っていた。
でも愛してしまった。それに気づいたころにはもう引き返せなくて……。どれだけ泣いたことだろう。それでもなくならない想いに、いっそ消えてしまいたいと何度思ったかわからない。その度に、無責任なことを考える自分を嫌悪して。
だからこそ今、こうして幸せであることが奇跡のように素晴らしいことなのだと分かる。何万、何億という人々のいるこの世界で、唯一人と思える人に出会えたリシュエールは幸運だ。
大切に、大切にしなければならない。誰かが幸せになれば、その片隅で泣く者がいるのだと思う。できればその人も、違うかたちであれ幸せになって欲しい。なんて身勝手かもしれないが。
「おはよう、リシュエール」
「おはようございます、フェル…」
暖かな朝、馴れない愛称。
優しく重なる唇。
あぁ、こんな朝が……こんな幸せが永遠に続けばいい。どうか、傍にいてください、
───私の最愛の人。
ただ、このシーンが書きたくて。
本来ならDearestは宝石で贈りますね。
ダイヤモンド、エメラルド、アメジストなど…




