42、テレリア大公ローラン
状況が一変したのは、テレリア襲撃の報告を受けた三日後のことだった。
いつものように執務室で書類を片付け、襲撃に関する情報収集をしていたリシュエールのもとに、近衛兵が駆け込んできたのだ。
「えっ?帰ってきた?」
王都の入り口の門番を勤める者が、視察団が帰ってきたと報告してきたのだと言う。
突然のことに、リシュエールは耳を疑った。敵兵を素早く片付けたのか、はたまた襲撃の情報がガセだったのか……
ともかく一刻も早く確認しなければならないと思った。
「どういう……!?っ、とりあえず、城門を開けてっ、国王陛下の還御です!」
そう命令をすると、執務室を飛び出した。
すれ違う高級官僚たちが、目を丸くして声をかけてくるのを無視する。箝口令が敷かれているので、彼らは襲撃事件のことを知らない者のほうが多いだろうから。
「開門!!」
リシュエールが到着したそのとき、重い城門が、門兵の声とともに開かれる。その先には城への坂を登る視察団一行の姿があった。
「国王陛下のご帰還だ!」
艶々とした美しい毛並みの黒毛の馬。彼の黒い外套がはためき、金の肩章が眩しく煌めく。その男は紛れもなく、リシュエールの夫フェルディアド一世だ。
馬の蹄がリシュエールの前で止まる。高い馬上を見上げると、フェルディアドと目があった。
「…ただいま、王妃。」
そう優しく微笑み、彼は馬からひらりと降り立つ。
「へ、いか……」
フェルディアドに怪我などはないようだった。彼の側にいるのも見慣れた者たちだ。
彼らの姿を見て、皆を不安にさせてはならないと強がっていたリシュエールの、緊張の糸が切れた。
「陛下!!」
埃臭い旅装束に顔を埋めて、リシュエールは力いっぱいフェルディアドを抱き締める。
「ご無事で、ご無事でよかった……!」
「王妃……リシュエール。」
ぎゅっと、体が軋みそうなほど抱き締め返された。少し苦しい。けれど、そんなもの、彼を失うかもしれないと思ったときの胸の痛みに比べれば、甘く幸せな苦しさだと思った。
「おかえりなさい。待っていましたの。……お会いしたかった!」
そう言うと、フェルディアドの顔が泣きそうな笑顔にくしゃりと歪む。
「私もだよ……私の、愛しい王妃。」
ちゅっ、と音を立てて唇を触れあわせた。
「続きは後で、ね…」
「は、はい……」
甘い雰囲気を漂わせる国王夫妻を、臣下たちが暖かい目で見守る。しかし、その空気をぶち破る声が間抜けに響いた。
「あー、こほん。いちゃついているところ申し訳ないけど、俺のこと忘れないでね?城に着いたら、これほどいてくれるんでしょ?」
「えっ……!?」
周りの存在を忘れて口づけをしてしまったことが急に恥ずかしくなって、リシュエールはフェルディアドに隠れてしまう。そこからそっと、聞き覚えの無い声のしたほうをみると、縄でぐるぐる巻きになって兵士に捕らえられている若い男がいた。
赤い髪にブラウンの瞳で、生意気な少年のような気配の漂わせている。着ている衣装はテレリアのもので、初めは敵方の兵士かと思ったが、それにしては小綺麗な身なりだった。
「……どちら様ですの?」
と、フェルディアドに問うと、彼はとても渋い顔で男を見た。
「すべての元凶、といったところかな。」
そう言って、心底面倒くさそうに髪をかき混ぜる。
「はぁ…いいよ、こいつのことは後で話すから。とりあえず休みたい……リシュエール、一緒に……」
「だめですわよ。」
「えっ……」
「報告と、この方の紹介が先です。」
有無を言わせぬ口調で迫ると、フェルディアドに笑顔をひきつらせて焦ったように頷いた。
「わ、わかったよ…」
しばらく会わないうちにリシュエールが怖くなった、と呟く声は聞かなかったことにしよう。
子どもが出来たことはいつ打ち明けようか、と考えながらリシュエールはフェルディアドの隣を歩ける幸せを噛み締めた。
フェルディアドの執務室に行くと、謎の男とトリスト、その向かいにフェルディアドとリシュエールが座った。
「えっ、あなた、テレリアの大公なんですの!?」
「……えぇ、まぁ、はい一応。」
失礼は承知ながら、リシュエールは本気で驚いてしまった。
確かに、テレリアは代替りをしたばかりで、新しい大公は亡くなった前大公が年を経てから若い妃との間にもうけた公子だと聞いている。年齢は二十歳。
年齢だけならまぁ頷けるのだが、しかし、町の悪ガキのようなこの少年が大公……
「あのー、リシュエール王妃。思ってることが全部顔に出てるよ──っと、出ていらっしゃいますよ。」
親しい人にするような口調で話しかけたテレリアの大公は、フェルディアドの鋭い視線を受けて、丁寧に言い直した。
「…リシュエール。こちらは間違いなく、テレリアの大公ローラン・スフェル・ノーヴェリエ。私も、子どもの頃は親しくしていた方だ。」
「そうでしたか。はじめまして、ローラン大公。わたくしはエスティグノア王妃リシュエールです。」
「よろしく、リシュエール妃。今回は本当に……迷惑をかけました。」
そう言うと、ローランは項垂れて事の顛末を話し出した。
初めは、テレリア国内での軍事演習だったと言う。
ローランが新大公になって初めての軍事演習だ。テレリア軍には祖父の代からの重鎮がいて、彼はローランのことを孫のように可愛がってくれたが、どうにもローランを頼りにしていない節があった。
それでも、今回の演習を成功させようと力を貸してくれ、途中まではうまくいっていたのだ。
しかし、やはり初めてのこと。普通、後継者たる公子は、跡を継ぐ前に何度か実践を積ませられるものだが、あいにくと勉強やら訓練やらが大嫌いなローランはそれらから逃げまくっていたせいで勝手がわからなかった。
指示が伝わらない。伝達ルートがきちんと確保されていなかった。それに気づいたローランは、急いで各隊への伝令兵を整備する。しかし、それが慌てていたせいか、命令が婉曲して伝わったのか。
「エスティグノアの方へは入らないように。しかし国境際の戦闘を想定しての演習のため、行けるギリギリまで進んで引き返すように。」という言葉が、なぜだか「この演習に乗じて、油断しきっているエスティグノアに侵攻せよ。」という言葉に変わっていた。
「それ、本当の戦場だったら大変なことですわよね……」
唖然としてリシュエールが呟くと、ローランはさらに身を小さくする。
「はい……伝令ミスに気づいた部下がいて、彼が俺のとこに来たときにはもううちの兵がエスティグノアに侵入していました……」
「なにか変だと思ったんだ。まぁ、侵入してきた兵士たちは下っ端も下っ端だったから連絡が伝わるのが遅かったのかもしれないけど、弱かったからね。人質も解放してもらったしね。すぐに捕らえて、大体のことは分かったよ。」
やれやれ、とフェルディアドは苦笑した。
「でも結果的に良かったよ。こっちも緊急時の対応の練習になったし……リシュエールも成長したみたいだし?」
フェルディアドがこう言えるのは誰も犠牲がなかったからだ。何かあったのなら、フェルディアドは君主としてそれ相応の対応をしなければならなかっただろう。たとえ古い知り合いでも、国同士のいざこざなら仕方がない、と。
「自分が未熟すぎた、ということを自覚した今の気分はどうだい?」
「さいっっっあくだよ……!!」
フェルディアドが嫌みな言い方をすると、ローランは悔しそうに唇を噛む。それ以上は何も言わなかったが、ローランは国境でフェルディアドに捕まり、見たのだろう。フェルディアドの王らしい王の姿を。こうあるべきと憧れる勇姿を。
「ふっ、悔しかったら勉強しなよ。いい加減、逃げられないって分かっただろう。お前も、国の頂点に立つ人間なんだ。」
「う……分かってるよ。」
「そうか。」
ふっと優しい顔を見せたフェルディアドは、ぽんぽんとローランの方を叩いた。
「さぁ、客人だよ。晩餐会の準備を。」




