25、フェルディアドの激情の片鱗
あぁ……まとまっていない……
ごめんなさい。おかしなところがあったら、言ってくださいね。
まだ日も登っていない、薄暗い国王夫妻の部屋。
ぼんやりとまどろむ優しい夢の中。
フェルディアドは、額にひんやりとしたものを感じた。────柔らかい、人の手だ。
「……陛下?まだ、お眠りになっていてよろしいのですよ。」
高くもなく、低くもない。耳に心地よい声が、優しくフェルディアドを眠りに誘った。
───綺麗な声だ……
その綺麗な声の持ち主は、リシュエール。彼の愛する妻だ。
目を閉じたままなので、姿は見えない。けれど、優しい匂いがすぐそばでする。
リシュエールは香水を付けない。その代わりに、彼女自身が作った匂い袋をいつも身につけていた。
「リシュエール……」
「はい、陛下。」
彼女がフェルディアドを呼んだ。否、フェルディアドの敬称を呼んだ。
気にくわない。なぜリシュエールはフェルディアドのことを名前で呼ばないのだろう?
拒絶しているのだろうか?いや、それはないだろう。では、遠慮?
どうも後者のほうがあり得そうである。
フェルディアドは両腕を伸ばして、そこにある暖かい彼女を抱きしめた。
リシュエールの長い髪が、フェルディアドの首もとをくすぐる。
ぴったりと体を密着させると、彼女の豊かな柔らかさが伝わってきて、フェルディアドの理性を危うくした。無意識に、その胸元に吸い付く。
「……ねぇ」
呼びかけてから、フェルディアドは急に怖じ気づいた。
遠慮?本当にそうか?
もちろんそれもあるだろう。リシュエールはつつしみ深い女性だ。
だが、拒絶がないと言い切れるだろうか?
結婚してからも、妻以外の女性を恋人と呼んで憚らなかったフェルディアドとの距離を詰めたいと、彼女は思っているだろうか?
そうして気付いた。
フェルディアドはリシュエールを愛している。
けれど……
リシュエールがフェルディアドを愛しているかどうか、まったく知らないのだ。
「……どうしましたの?」
はっと目を開けると、目の前には訝しんだ様子のリシュエールがいた。
「あ、いや……」
────なんでもないんだ。
そう応えたら、逃げているだけのような気がする。
だかフェルディアドは、己がリシュエールに愛されているという自信がなかった。
「リシュエール、君は……」
君は私を愛しているのだろうか……
恐怖に飲み込んでしまった問いは、フェルディアドの心の中にしまわれてしまう。
「……君は、優しいね。」
「えっ……?」
リシュエールがきょとんとフェルディアドを見ている。その顔も可愛らしくて、フェルディアドはリシュエールをぎゅっと抱きしめた。
────答えなんて、すぐじゃなくていいじゃないか。
フェルディアドとリシュエールはもう結婚しているのだから。
彼女がフェルディアドのもとからいなくなってしまうことはないはずだ。
この結婚が国と国同士の約束であることに、これほど感謝するときがくるとは思わなかったが。
「もう一眠り、しようか……」
「はい……」
彼女の優しい香りを胸いっぱいに吸い込んで、フェルディアドはゆっくり目を閉じた。
すぐに眠りに落ちた彼は知らない。
切なくなるほどの愛しさを込めた目で、リシュエールがフェルディアドを見つめていたことを。
朝、体調は回復した。だがどうせだったら休養をとれ、と馴染みのおじいちゃん宮廷医に言われ、フェルディアドは仕事を休まされた。
そうなるとむしろ暇である。なんせ体調は万全だ。だが部屋から出ると連れ戻される。
さてどうしたものか、とフェルディアドは首をひねった。
「……私の部屋に行くとトリストにバレそうだ。だがリシュエールの部屋に行くのは紳士としてどうなのか。」
国王夫妻の寝室は、それぞれの私室と繫がっている。
本でも読もうかと思いたったのだが、ちょっと冒険心が疼いた。
「……ごめんよ、リシュエール。」
少しわくわくしながらリシュエールの私室の扉を回す。
リシュエールがいないことはわかっている。彼女は今、フェルディアドの代わりに朝議に出ているはずなのだ。
リシュエールの私室は、造り自体はフェルディアドの私室と同じだ。だが壁紙やカーテン、飾ってあるインテリアによってリシュエールらしい柔らかさが出ていた。
壁紙は上品で暖かみのある落ち着いた赤茶色に花柄のあるもので、カーテンはそれよりピンク味の強い花柄でベージュ。この国より南にあるイザリエ王国で、ロココ調と呼ばれるものに影響されているようだ。
窓辺に飾られたピンクの薔薇も、部屋の雰囲気とよくあっていた。
王妃の仕事をする執務机、本がぎっしり詰まった本棚が異様に存在を主張する。
テーブルやソファが部屋に合わせた可愛らしいものなのに対して、この本棚は実用性のほうが重視されているようだ。そういえば、リシュエールは本好きなのである。
整然と並べられている本たちのなかに一冊、雑に押し込まれたようにずれている本があった。
青色の背表紙の本。タイトルは今ロスフェルティで流行っているものだ。
何気なく、手にとってみた。
流行っている、さらにはリシュエールが好んでいる小説がどんなものか読んでみたくなったのだ。
ぱらぱらとページをめくる。その途中に、なにか挟まっているのに気付いた。
「……これは、手紙?」
上質な白の紙で、破られた蝋にはロスフェルティ王家の紋章。
明らかにリシュエール宛てで、ロスフェルティの家族から来た手紙だった。
「どうしてこんなところに……」
見るつもりはなかった。しかし、透けて見えた、その力強い筆跡で「ロスフェルティ国王」という文字がフェルディアドの手を無意識に動かしたのである。
丁寧に折ってある紙を、ゆっくりと開く。その間中、嫌な予感がしていた。
────見てはいけない。見たら、なにかが変わってしまう……
「……どういうことだ?」
送り主はロスフェルティ国王ガイナルド。リシュエールの父だ。
ガイナルドは、国王としてリシュエールを政略結婚の駒に使いながらも、娘のことを案じる父親だった。末娘は殊更可愛いのだろう。
時折親ばかを交えながら、手紙は優しく気遣う内容が書いてあった。前半には。
後半は、フェルディアドのことだ。とても、耳が痛い───別に直接耳で聞いてはいないが───内容の。
いや、問題はそこではない。フェルディアドが多少けなされることぐらい、なんでもないのだ。問題なのは……
「離婚……させられる、ということか……?」
フェルディアドの態度が、リシュエールを傷つけている。ガイナルドは、リシュエールに幸せになって欲しい。
幸いリシュエールの二人の姉は良い夫と巡り会った。それも、バーティアとアルセニアの王太子という身分の。
彼女らが無事王子を生み、各国との同盟がさらに強まればエスティグノアを敵にまわすことくらい怖くない。
さらには、フェルディアドとリシュエールの政略結婚の決めてとなったロスフェルティの金策もどうにかなりそうだという。
────リシュエールを失ってしまうのか?
フェルディアドはそっと便箋を封筒にしまって、それを本に挟んだ。
本も元通りにしまう。
廊下で歩いているかもしれない者に気付かれぬように扉を開けて、寝室に戻った。
ベッドの上に腰をおろす。
手をついた先は、掛布。フェルディアドは激情に任せて、それを握りしめた。
掛布がくしゃくしゃと皺を寄せる。
自分の体の中で暴れる熱く、恐ろしい感情が、そしてリシュエールへの深い愛情が、どす黒く染まっていくのを感じた。
「まずいな……」
今リシュエールに会ったら、冷静でいられる気がしない。
きっとその溢れ出る感情に任せて、彼女を傷つけてしまいそうだ。
フェルディアドは大きく深呼吸をした。危うく修羅に飲み込まれるところだった。
────父上のようには、なりたくない。
愚かな恋情で、皆の人生を狂わせるような。
「まさかこんなに、リシュエールがいなくなることを恐怖に思うときがくるなんてね……」
そう独りごちて、いや、と否定した。
きっと初めからわかっていた。己が、この八歳年下の優しい少女に捕らわれてしまうことを。
けれども、リシュエールはあの手紙をとって置いていた。隠してまで。
きっとその可能性もあると、彼女自身思ったからに違いない。
それでも、
「帰さないよ、リシュエール……」
────お願いだから、傍にいてよ
フェルディアドが言える、我が儘ではないとわかっているが。




