1.日常(アストラス×アルレイシア)
コン、と静寂を破る音が耳を付いて、アルレイシアは目の前の紙にだけ集中していた意識をふっと惹かれる。集中し過ぎて直ぐには焦点の合わない目を軽く瞬いて顔を上げれば、それを待ち構えていたように背後から伸びた腕に柔らかく抱き込まれた。
「お疲れ様」
微かに笑いを含んだ低い声が耳朶を撫でて、アルレイシアは意識するより早く口元に笑みが浮かぶのを感じた。首元に回された文官にしては逞しい腕にそっと触れる。
「それは貴方の方でしょう、アスト。お仕事お疲れ様」
長時間動かさなかった為に抗議するように動き難い首を回して見上げれば、穏やかな微笑を湛えた翡翠のような瞳と目が合った。アルレイシアの視線が自分を捉えたことに気づいたその目が少し眇められると、大きな手が彼女の頤を壊れ物のようにそっと持ち上げる。
「………」
慣れた仕種で緩く睫毛を伏せれば、彼女の化粧気のない素の唇をついばむように柔らかなぬくもりが落とされた。一度、二度と軽やかに触れ合わせて、三度目はしっかりと重ねあわせる。まるで肌に馴染んだ毛布のように優しく包み込むようなそれに、知らず疲れていた体から力が抜けていくのを感じる。
唇が離れるタイミングでゆっくりと伏せていた目を開くと、同じように開かれた瞳と視線が合い。ふっと吐息のように笑みが零れた。
コツリ。
どちらからともなく寄せ合った額が小さな音を立てた。
「今日も一日お疲れ様」
切りの良いところまで仕事を終わらせるべく、先刻までよりも集中して紙面にペンを走らせる。ペンが紙を滑る音の合間に、時折ゆっくりと紙を捲る音が聞こえるだけの、静かな室内。
頭の中で組み立てていた文章を一通り紙に記し終えると、アルレイシアは知らず詰めていた息を吐いてペンを置いた。ピンっと弦のように張り詰めていた意識が弛むと、吸い込んだ空気に混じる芳香に気がついて目を瞬く。
「どうぞ」
コトリと小さな音を立てて机の上に茶器が置かれた。疲れを慰撫するような柔らかい香りがその香草茶から漂っている。
アルレイシアが仕事をしている間に長椅子で本を読んでいたはずのアストラスだが、いつの間にやらお茶の準備をしていたらしい。
「ありがとう」
元騎士ということを除いてもとても気配に敏い夫の気遣いに、アルレイシアはふにゃりと力の抜けた笑みを浮かべて、温かい茶器を手にした。
「終わったのか?」
「ええ、一通りは。後はまた後日にするわ」
爽やかな香草茶で喉を潤すと、集中していた間は気にならなかった空腹を覚えてアルレイシアは目を瞬く。
いつの間にかすっかり遅くなってしまっていたらしい。屋敷ではとっくに夕食の準備が整っているだろう。
「待たせてしまってごめんなさい。お腹が空いたでしょう? 早く帰りましょう」
茶器を置くと少し慌ただしく机の上を片付け始めるアルレイシアに、アストラスは苦笑して首を振った。
「いや、大丈夫だ。そんなに慌てると茶器をひっくり返すぞ。急がなくて良い」
そんな夫の声を背中に聞きながら手早く片付けを終える。抽斗に鍵を掛けたことを確認し、きちんと戸締まりの点検を終えると、既にすっかりと帰り支度を整えたアストラスを振り返った。
「大丈夫か?」
彼女の外套を差し出してくれながら確認してきた夫に笑顔で頷いて、アルレイシアは受け取ったそれを手早く纏う。そしてすっかりと馴染んだ仕種で差し出された大きな手に自分の手を重ねた。
「それじゃ、帰ろうか」
「ええ」
日が暮れて既に月が空を照らす雪の残る夜道を、二人手を繋いで寄り添って歩く。歩きにくい道に、アストラスが常にアルレイシアの歩みに気を配っているのも、いつものことだった。転びかければ、あっと思うよりも早く隣を歩く人物に支えられる。二人で歩くことが当たり前になる前は戸惑ったそれにも、今ではアルレイシアもすっかりと慣れてしまった。
馬車止まりまでのそれほど長くはない距離。ジール王国の春には遠い晩冬の寒さも、二人ならば感じることはない。
それは全て、二人にとっての日常なのだから――。




