戦国姫無常
題名 戦国姫無常
目次
隠れ竹の里
常山城
梟の正体
留守の隙間
裏切り
落城前夜
落城の朝
残影
隠れ竹の里
天文十九年(一五五〇年)白露の候
鶴姫は暁光が備中松山城の背中にある臥牛山から、顔を出して間もない刻に、五歳馬の百段に跨って飛び出した。朝方の冷たくひんやりとした風が躰を包んでいるが、昨夜までの暑さが土に残っている。乾いた土埃が虚空を舞っていた。
備中松山城は臥牛山の中腹にある。中腹の小高い丘の高台に本丸屋敷があり、すぐ下のすこしばかり平らになっている地に、二の丸が本丸を背にして造られていた。二の丸から山裾までは臥牛山から流れだしている小川に沿って、幅一間(一・八メートル)ほどの道が臥牛山の麓まで続く。裾野には馬場が造られていた。馬場から更に下ると大手門に辿りつく。その先は武家地となっている。更に武家地を下ると高梁川沿いの街道に出る。街道には商人たちの商い小屋が軒を並べていた。
鶴姫の腰には鶴姫付きの下女ミツの作った握り飯が入っている竹で編んだ小行李が、大小の刀を差している腰紐に括ってある。
紺の袴に脚絆を巻いて、紅の小袖を着て、花柄の打掛を腰に巻いていた。その姿はまるで侍である。艶やかで頬の線が柔らかい顔と、細身の緩やかな躰が姫であるのを感じさせていた。
鶴姫はいつも寝起きしている本丸から、飛び出して、百段がいる馬場に急いだ。本丸に続く二の丸、表門を門番侍が寝ずの番をしているのを横目に、坂道を転げるように走って馬場に着いた。
馬場は百人敷きと呼ばれる広さがある。板屋根に小石を乗せただけの馬小屋に着くと、百段が首を上げて嘶いた。鶴姫が来たのを、百段には気配でわかるのだろう‥
鶴姫が近づくと、百段は嘶いて、前脚を上げて嬉しさを表している。
鶴姫を乗せた百段は黒栗毛の前髪を靡かせながら、一気に大手門から、家臣が住む武家地を通って、高梁川の河原まで駆けた。
その後、黄昏が迫る刻まで高梁川を駆け上り、鶴姫と百段の二つの躰が一体となって、野山を駆け巡っていた。鶴姫の耳の奥には風を切る音と、百段の蹄の音しか聞こえない。
百段の名は城の傍に有る御前神社の凡そ百段もある階段を、一気に登りつめたことから、鶴姫の父である備中松山城の城主の三村家親が名付けていた。百段との出会いは、今から三年前の鶴姫が十歳の時であった。
百段が二歳馬の時に、鶴姫は初めて百段の背中に乗った。
手綱を馬廻り衆の侍が握って、馬場を一回りしただけであったが、その時になぜか百段は、静かに鶴姫を乗せていた。
百段が初めて城の馬場に連れて来られた時には、気性の激しい暴れ馬だった。馬廻り衆の侍だけでなく、家親が前髪をなぞりながら宥めたが、項を上げて嘶いて暴れていた。
その百段が鶴姫を乗せた途端に静かになったのを見て、白髪頭に手を置いて、家親は溜息を付きながら呟いた。
「馬も人との相性を大事にするのか‥」
家親が見ていると鶴君は百段の轡を手のひらで押しながら、言葉をかけた。百段は鶴君の言葉に頷いているように鬣を揺らして首を垂れた。
その姿に驚いて家親が鶴姫に向かって、口を開いた。
「鶴は百段と話ができるのか?」
思いがけない問いかけに、鶴君は家親の瞳を見ながら笑みを浮かべて頷いた。
家親は驚いた顔を見せた。そして不思議そうな顔をして腕組みをしながら、鶴姫を乗せて馬場を廻り出した百段を感心した眼で見ていた。
鶴姫の一族である備中三村家は清和源氏小笠原家の流を組む家柄である。鎌倉幕府のご家人の家柄であったが、常陸の国三村郷に領地を授かったことから、三村姓を名乗ることになった。三村一族の一派が備中星田郷に地頭として住みだしたことから、備中三村家が誕生していた。しばらくの間は星田郷と成羽郷を支配していた豪族であった。
元々備中の国は守護家である細川氏が君臨していたが、戦国の世も長きにわたると、細川家の威光も衰えてきていた。細川家の衰退に伴って出雲を支配していた月山富田城の尼子晴久は勢いを増してきて、西国八ヶ国の出雲はもとより壱岐の国伯耆の国、因幡の国、美作の国、備前の国、備中の国、備後の国を支配してきたが、盤石なものではなかった。
この備中に於いては、国人衆の争いが絶えなかった。家親は備中の守護代であった庄家と争っていたが、その庄家を駆逐して、今では鶴姫の兄である元祐が、庄家に養子として入り、組下に組み込んでいた。
安芸吉田城の毛利元就が台頭するに至って、家親はいち早く毛利元就とよしみを通じて、尼子家に属する国人衆の駆逐の戦を、この備中の国で仕掛けて、勝利していた。
毛利元就は安芸の国吉田郡山城の小さな国人領主であったが、次第に力をつけて、尼子家の勢力から脱して、長門の大内義興との合力を得て,安芸の国すべてを支配するまでなっていた。毛利元就には嫡男毛利隆元を始め、毛利元春(後の吉川元春)、毛利隆景(後の小早川隆景)などの力をつけている子がいた。
深山渓谷の備中の国神代の里から、細々と流れ出していた高梁川も、幾つかの支流を従えて備中松山城の畔まで来ると、勢いを増した水量を、滔々(とうとう)と湛えている。川石が所狭しとあるにもかかわらず、水は荒々しいほどに流れていた。高梁川は松山城の辺りから間口を広げて総社の城の麓を流れて、瀬戸の海に大河となって注ぐ。
鶴姫は高梁川の河辺の大きめな川石に腰を掛けて水の流れを、きりりとした瞳で、何気なく見ていた。鶴姫が座っている川石の傍の松の木には、愛馬百段が、駆けてきた躰の疲れを、癒すかのように頭を垂れている。
しばらくすると少しばかり川の水を含んでいるのか、冷やりとした川風が、鶴姫のすっきりとした頬を撫ぜて、通り越した。
高梁川の向こうに、聳える高倉山の影が細長くなりだしていた。黄昏の刻が近づいてきている。幾分かの寒さを伴って川面の波も、ざわざわとした音を出して騒いでいた。
鶴姫は腰に巻いていた打掛を解いて、思わず肩にバサッと羽織った。
―肌寒くなってきたから、そろそろ帰るとしましょうか‥
ぶるっと、肩を震わせて、独り言を呟いて腰を上げた。
脚に力を入れて百段の傍に行くと、百段は前髪を鶴姫に向けた。鶴姫は笑みを浮かべて項をやさしく触って跨った。次の瞬間、思いっきり両足で百段の腹を蹴った。
鶴姫を乗せた百段は、備中松山城に向けて駆けた。
鶴姫と百段は漆黒の闇が忍んできていた城の大手門を潜った。馬場では、馬廻り衆の侍が首を長くして、鶴姫の帰りを待っていた。
大手門を潜る鶴姫の姿を見て、安堵した顔を見せていた。
鶴姫は侍の安堵した顔をみて、笑みを浮かべて百段から降りた。手綱を渡して、二の丸への階段を駆けた。二の丸の表門を潜ると、そこからの眺望は高梁川を望むことができる。
漆黒の闇が城下を含めて高梁川を支配していた。わずかに燈る城下の灯が、人のいる気配を感じさせていた。
鶴姫は袴の裾を手で持ちながら、二の丸表門から見える二の丸屋敷を横目に、本丸への階段を駆けた。
本丸の表門でも、門番侍が鶴姫の帰りを、首を長くして待っていたようだ。
篝火に写し出された鶴姫の顔を見た途端に、口を尖らせて溜息を吐いた様子が伝わった。
内心では帰りを待ってくれていたのかと、少しばかり申し訳ない気持ちを抱いて、本丸屋敷の式台に腰を落ち着かせた。
すると式台に続く長廊下から、バタバタと鶴姫付きの侍女のミツとイトが慌てた顔で、駆け寄ってきた。
ミツは鶴姫の疲れた様子に、胸を軽く押さえて、溜息を吐いて声を出した。
「姫‥まあ今日は遅くまで‥暗くなるまでには帰られるお約束ですよ」
鶴姫の顔を見ながら安堵した顔つきから、怒っている顔に変えて言った。
心配をかけた二人の侍女に、鶴姫はしおらしく頭を下げて謝った。
「すまなかった‥いつもより遠くに出掛けていたので‥」
式台に腰を据えて、イトが用意してくれていた盥の水で、足を洗いながら言った。
言ったと途端に、鶴姫は、ぬくっと、立ち上がり、二人の侍女を尻目に長廊下を駆けだした。
本丸屋敷の枯山水の中庭に沿って。長廊下が続いていた。その長廊下を鶴姫は、速歩で奥の間に向かった。奥の間は白砂が綺麗に整って、庭全体に敷き絞められた枯山水の庭に面していた。
しかし鶴姫の目には漆黒の闇の中の枯山水は見えない。微かに庭を照らしている篝火の灯が白砂を輝かせていた。
鶴姫は奥の間の障子を開けた。奥の間は黒光りがする板張りの間で、侍が百人は入ることのできる大きさの間になっている。
間のほぼ真ん中に囲炉裏がある。囲炉裏の上には天井の柱から魚の形をした自在鉤が吊るされていた。
何人かの者の姿が、囲炉裏を挟んでいるのが見えた。囲炉裏は煌々と薪火が燃えている。自在鉤に吊るされた鍋の中では、ぐつぐつと、音を出して食い物が煮込んでいた。
鶴姫が急ぎ足で囲炉裏の端に駆け寄って、茣蓙の上に座った。
すると鶴姫の座っている前で、酒を呑んでいた者が声をかけた。
「鶴‥遅くまで百段と遠乗りしてきたな‥女子は城で静かに過ごすものだ」
眉を顰めて尖った口から発した声と口調は、鶴姫が女の分際で男の真似事をしているのを、毛嫌いしているようなもの言いだ。
鶴姫に鋭い口調を発したのは兄の元親である。元親は度々の合戦に家親と出陣して、武名を上げている強者である。しかし鶴姫とは兄妹といえども肌が合わない。鶴姫から見ると小うるさい兄だ。元親は父親譲りの猪突猛進の性格をしているが.思慮に欠けることも大いにある。又家臣たちに向かって、人を小馬鹿にしたような言動が多いと、鶴君は思っていた。
特に元親の物言いが嫌味たらしい。鶴君は兄の世の中になるといやだと思っていた。
元親の嫌味な言い方に鶴姫は、口をヘの字に曲げて、無言で頭を下げた。
その時に元親の隣に座っていた家親が、笑みを浮かべて口を開いた。
いつもの家親は擦り減った頬に鷹のような鋭い眼をしている。特に戦に向けて当世具足を着て馬上で出陣するときの表情は、凄味があった。鶴姫は幼心に不動明王の姿と重なって見えた。これほど逞しい父親がほかにいるのかと‥
しかし笑みを浮かべると鷹の眼がハの字になって、愛嬌のある顔になる。
家親は垂れ目になった瞳のままに声を出した。
「鶴は勇ましい女子だ。この乱世では鶴のような女子が必要だ」
その口調の節々には鶴姫に対して可愛さを、滲ませていたのが感じられた。
鶴姫は、家親に頭を下げて、ミツが用意していた囲炉裏の淵に、置いていた箸を手に取った。
鍋から食い物を取り出して、口に入れようとした時に、ふいに庭に面した長廊下の障子が開いた。
暗がりの中を小柄な男が、静かに入ってきた。家親の近くまで寄って来て、腰を落とした。
板の間に置かれた行燈と囲炉裏の火に写し出された顔は、皺が深く切り込まれて、目は異常なまでに落ち着いて、鋭い眼光を放っていた。躰からは身軽い者が併せ持つ、油断のならない雰囲気を放っている。
「竹蔵‥」
鶴姫は驚いて素っ頓狂な声を出して、男の名を呼んだ。
すると竹蔵と呼ばれた男は、鶴姫に向かって笑みを浮かべて言った。
「これは鶴姫様」
竹蔵が懐かしそうに鶴姫の名を口に出した後、家親が声を出した。
「竹蔵‥ご苦労であった」
家親は竹蔵に労いの言葉をかけた。声をかけられた竹蔵は、無言で頭を下げた。
「どうであった‥変わりはないか?」
家親の言葉は、竹蔵が店を構えている室津の様子である。播磨の国の室津にある室山城の浦上正宗の動きである。浦上正宗はもともと播磨の赤松晴政の家臣団であったが、徐々に力をつけて西播磨を支配するほどになっていた。その上尼子晴久と組んで、今にも備前の国を脅かすようになっていた。備前が浦上正宗の支配になれば、備中にも攻めてくるだろうと考えて、家親は竹蔵に調べ方を命じていた。
「ここ半年は何の動きもござりません‥至って室山の城は静かでございます」
竹蔵は室山城の城下町の端に竹細工の店を出している。
竹蔵の言葉に家親は腕組みをして考えている。
「竹蔵‥半年の間ごくろうであった。代わりの者は?」
家親の問いかけに竹蔵は、にこりとして言った。
「里の者たちが、儂の代わりに店を開いております。なにか動きがあれば、すぐに殿の耳に入るように手配をしております」
家親は竹蔵の言葉に頭を縦に振った。その後に竹蔵が家親に再び頭を下げて口を開いた。
「殿、お願いがございます。この竹蔵しばらく里に帰っておりませぬ。一時ほど里に帰ることをお許し願いませんでしょうか?」
竹蔵は家親に改まって願を申し出た。
家親は竹蔵の願いに耳を傾けた。
「そうであったな。しばらく浦上正宗の調べに精を出してくれていたからな。よかろう。しばらく里でゆっくりすることも大事だ」
竹蔵は家親の言葉に安堵したように頭を下げた。そして言葉を継いだ。
「それから殿、娘の草も十歳となり申したので、そろそろ技を教えとうございますゆえ」
「そうか。もう草もその年になったか。会いたいであろう。竹蔵は一人しか子がおらぬからな」
家親はしばらくの間、手で白髭を擦りながら、口を開いた。頭も白髪になって、髭まで白くなっている。それだけ今までの戦働きに気を入れて生きた者が、辿りついた証みたいなものだ。
家親が膝を打った。
「そうだ。竹蔵。儂からも頼みがある。どうだろうか、鶴姫を竹蔵の里で、しばらく預かってはくれぬか」
竹蔵は、一瞬驚いた顔を見せて言葉を発した。
「鶴姫様を?」
鶴姫も家親の言葉に耳を疑った。
―何を父は言い出すのか?父からは何も聞いていない‥
家親はちらりと鶴姫の顔を、横目で見ながら言葉を発した。
「そうだ。鶴姫を普通の姫として育てるのはどうも無理がある。鶴姫の関心は、野山を駆けること、馬を走らすこと、弓を射ること、刀で勝負することしか興味を持たぬ。このままでは、まるで源平の時代の木曽義仲公の巴御前の様になる。それと、城に居ったら退屈きわめている」
家親の言葉に竹蔵はあたかも同意であるというように、首を縦に振った。
「そのようでございますなぁ」
竹蔵は、家親の話に妙に納得している。
鶴姫の立ち振る舞いは、男勝りの姫として城内でも有名であった。
「わかり申した。しかし殿。竹の里みたいな見苦しいところで、良しいのですか?」
「良い、良い。民の暮らしを習得することは良いことだ。そのために配慮する必要は無いぞ。そなたの娘として暮らさせてほしい。何でも用事をさせてくれ。飯炊き、水運び、田植え、等も良い。特に女人に必要な作業を、少しでも女らしく育てたい」
家親の鶴姫に対する思いが、竹蔵に伝わったのか、竹蔵は力強く答えた。
「わかり申しました。では殿、早速‥それから以前に頼まれました伊部焼の器を手に入れましたので、お持ちいたしました」
鶴君はその時に竹蔵が座っている手元に、風呂敷に気がついた。
竹蔵は家親に向かって言った途端に、手元の風呂敷を手繰り寄せて解いた。すると囲炉裏の火に照らされた桐の木箱が見えた。
何やら大事そうに木箱を竹蔵が開ける。中からは茶褐が滲んだ器が出て来た。
家親はその器に眼を奪われたのか、身を乗り出して見ていた。竹蔵が恭しく器の底に手のひらを置いて、家親に差し出した。
家親は器を手にして、愛嬌のある顔になった。眉がハの字になっている。
以前から竹蔵に播磨との国境にある備前で窯出しされた陶器を、ほしいと頼んでいた。
欲しかった伊部焼の器を手に、嬉しさを滲ませていた。
「殿‥この伊部焼の焼き物は、今では備前焼と言われて、上方では大そうな人気が出ているとのことです。特に茶器として‥この器は備前長船の福岡の湊から、上方に船で運ばれているよし‥」
家親は竹蔵の言葉にうんうんと頷いている。よほど欲しかったのだろう‥
「ではよろしく頼む。なにか浦上正宗の動きがあったらすぐ知らせよ。それまでは頼む」
二人の会話を鶴姫は目が点になって聞いていた。
―竹の里に行けば、まだ会ったこともないが、竹蔵の娘の草とも遊べる‥それに嫌味な兄の顔を見ないで済む。‥
鶴姫は心の中で笑みを浮かべた。
竹蔵の里は、隠れ竹の里と呼ばれている。隠れ竹の里の者は、昔から山の民であった。土地に縛られず、山々を自由に駆け廻って生きていた民であった。
家親が、毛利元就と組んで尼子攻めを行うため、伯耆に出向いた時、竹蔵たち山の民を探索方として使ったのが縁になって、備中の山奥に山の民たちを住まわせたのが、竹の里となった。
次の日の朝、陽が臥牛山から顔を出した刻に、家親に見送られて鶴姫は城を出た。いつものように薄い紅色の小袖に紺の袴を穿いて、脚は蝮除けになる草木染の脚絆を巻いて、草履を穿いた。腰には刀を大小二本差して、鶴姫は百段に跨った。竹蔵と共に竹の里を目指す。
鶴姫を乗せて百段が駆ける。百段の背中に乗って風を切る。百段の蹄の土を蹴る音が、心地よい。乾いた土埃が舞う。鶴君は手綱を緩めて百段の思うままに駆けた。
竹蔵の跨っている馬も、百段に負けないように駆ける。
竹の里は備中松山城から高梁川に沿って、北に十里にある隠れ里である。
通りすがりの山々は一面を緑に包まれていたが、山の頂には少しばかり色づき始めていた。
暑かった夏の終わりを告げるように、時たま吹く風は心良いほどに冷たい。
竹蔵と鶴姫が行く道は、当分の間は、川の流れと同様、緩やかな道を歩んだ。そして川を挟んでいる左右の山も緩やかな傾斜の山である。しかし五里を過ぎた頃から、山が近くになり、雑草が道を塞ぐような山道となり、道幅も半間ぐらいしかなくなっている。更に道は急に狭くなり険しさを増してきていた。百段に乗った鶴姫は、百段が脚を滑らさないように、前かがみになって背中を抱くようにして、ゆっくりと前に進む。
山道に入って少し入っていくと、山道のはずれの山裾に自生している竹林の中に、一軒の樵小屋が見えてきた。小屋は雑木林の脇に建っている。樵小屋から薪を焚いている煙が上がっている。誰かいるようだ。
小屋の前に進むと、
「五郎、いるか」
大声で、竹蔵が馬上から小屋に向かって声をかけた。
すると竹蔵の声に反応するかのように、ガラっと板戸が開いて家の中から、平べったい面の髪の毛と、髭が顔一面を覆っている男が出て来た。野良着を着ているが、薄汚れている。
むさ苦しい身なりの男が、竹蔵に声をかけた。
髭だらけの顔からわずかに目玉が飛び出したような眼をして、口を開いた。
「竹蔵か、久しぶりだな‥これから里に帰るのか?」
と言うと、竹蔵は五郎に向かって口を開いた。
「そうだ、馬を預ける」
男はチラッと馬に乗った二人を見て、鶴姫に近づいて百段の手綱を握った。
「そうか。うーん誰じゃ。この女子は?」
五郎が馬に乗っている鶴姫を見て、問うた。
五郎の問いかけに竹蔵は顔色を変えて、大声で怒鳴った。
「ば‥か‥も‥ん。言葉に気を付けろ。三村家親様の姫、鶴姫様だ」
すると竹蔵の剣幕に驚いた五郎は、肩を萎めて頭を下げた。
「そそーそれは失礼した」
五郎は、声にならない声で言って、馬を降りた二人に、申し訳なさそうに首を垂れた。
「姫、これからは山道を歩くことになります。そしてこの者は里の者で五郎と申して、里の番をしている者でござる」
鶴姫は百段と別れるのに少しばかり不安になって竹蔵に聞いた。
「竹蔵‥竹の里に行くのには、百段とは離れるのか?」
すると竹蔵は、首を横に振った。
「鶴姫様‥少しの間だけです。これから向かう道は古くからの道で、里の者しか知りません。しかし竹藪の中を歩くので馬は通れないのです。しかし後から五郎が回り道ですが、小川沿いの道を通って百段を連れて帰ります。百段と別れるのは、ほんの何日かのご辛抱です」
話を聞いて、鶴姫は胸を撫で下ろした。
竹蔵は、百段と自分が乗ってきた馬を五郎に預けた後、鶴姫と樵小屋の裏手に廻り、竹林の中を歩きだした。全く青空が見えない。そして陽が降り注いだことがないうっすらとした暗闇の鬱蒼と茂っている竹林を、竹蔵はスタスタと歩いた。鶴姫は迷子にならないように、竹蔵の背中を見失わないように付いて行く。
しばらく歩いて行くと獣道の間道に出た。道の畔の雑草が人によって踏みにじられたのか踏まれて縮んでいる。鶴姫はその間道を見ながら歩いた。わずかに人が通った後が見えた道と思った。その細道を進んで行くと、突然に視界を広がった。青々とした大空が目の前に広がっている。
青空の下をさらに歩いて行くと、竹の里が一望できる小高い丘に辿りついた。
鶴姫は一息を付いた。すると竹蔵が鶴姫の疲れた様子を案じながら声をかけた。
「姫、もう少しで竹の里でござる」
鶴姫と竹蔵は丘を少し下る時に里が見えた、そこは三方が山に囲まれた盆地になっていて百姓家が、数十軒、軒を並べて建っている。
又、百姓家の後ろにから聳えている三方の山裾には、棚田があり、この時期、田圃には陽を浴びて黄金が光っている。風に揺れる稲穂が頭を垂れている。静かな田圃が、里を見ていた鶴姫の瞳の奥に焼き付いた。
「ここが、儂たちの里でござる」
竹蔵の言葉に鶴姫が、更に改めて里を見てみると、里の真中に高梁川からの支流になる小川が流れ、暖かく豊かで明るい雰囲気のある里に見えた。
そして里の所々に竹林が見えた。
「姫、行きましょう。あの竹林が儂の家でござる」
竹蔵が鶴姫に里の中のひと際大きい竹林を指差した時、その竹林から幾人かの者たちが走ってきているのが見えた。
「姫、家の者が迎えに来ております」
「おとうー」
遠くから走りながら竹蔵を呼ぶ女の子がいた。まだあどけない顔をして赤い柄の野良着を着た草が、竹蔵の元に走り寄ってきた。
「おおー草。元気でいたか」
嬉しさを滲ませて、抱きついてきた草を、竹蔵は持ち上げた。そして鶴姫に声をかけた。
「姫、娘の草でござる」
「草、鶴姫様だ」
草は鶴姫に向かって笑顔を見せた。竹蔵が草を地面に下ろした。すると草は鶴姫よりは少し背が足りないが、躰すべてで精一杯の挨拶をしているように、鶴姫を見上げて言った。
「草です」
草がたどたどしい口調で言うと、鶴姫は笑みを浮かべて草の目線まで腰を落として言った。そして草の顔をまじまじと見ると靨が愛らしい。おもわず鶴姫も微笑んだ。
「鶴と申す。よろしく」
鶴姫と竹蔵と草は並んで竹の里の小道を行く。その後を里の者たちが付いて行く。
黄昏が迫ってきていた。紅い日輪の陽がたっぷりと水を溜めこんだ田圃に注ぎ、茜雲と田圃が一つの景色になっている。
竹蔵の百姓家に着いた。鬱蒼とした竹林に周りを囲まれた百姓家である。
竹蔵の家は玄関を真ん中に四方が縁側になっている。玄関近くまで行くと、玄関の板扉を開けて、竹蔵の妻の清が飛び出してきた。
清と竹蔵は無言で向き合った途端に清が、両手を前に揃えて頭を下げた。清は竹蔵の半年ぶりの帰郷に安堵した顔を見せた。そして鶴姫を見て悟った。鶴姫を清は何も言わず玄関の土間に導いた。
鶴姫が竹の里に来てから二日が過ぎた。馬のいななきに目が覚めた。まだ竹の里に暁光は訪れていない、漆黒の闇が竹の里を覆っていた刻の事である。
鶴姫はあの嘶きは‥驚いて布団から腰を上げた。そして駆けるように障子から縁側に進むと、黒い影が庭に見えた。
鶴姫は思わず声を上げた。
「百段‥」
縁側から庭に飛び降りた。裸足のまま百段に駆け寄った。百段も項を上げて鶴姫を迎えた。
傍には五郎が佇んでいる。鶴姫に五郎は百段の手綱を手渡した。首筋を撫ぜながら二日ほど離れていたばかりなのにと思いながら、百段の姿を見て心が落ち着く思いでいた。
しばらく竹蔵の百姓家で過ごしているうちに、鶴姫は竹の里の人々、里の風景を見てから、ここは良いところかも知れないと少し安堵した。鶴姫には草の隣の部屋が寝起きする場所が宛がわれた。
ある日の事である。
清が庭で遊んでいる鶴姫と草を微笑ましく見ながら静かに呟いた。
「鶴姫様と草は、まるで本当の姉妹みたいでございますなぁ。何をするにも一緒で」
竹蔵に言った。竹蔵も清の言葉に頷いて答えた。
「そうだな。そろそろ草と鶴姫に技を教えるのに、丁度良い時かもしれぬ。鶴姫様と一緒だと草も嫌がることはあるまい。明日、里の若い衆を集めてくれ。伝えたいことがある」
翌日の夜に、里の若者たちが竹蔵の家に集まった。
屈強な若者たちと幾人かの若い女が、二十名余り竹蔵の家の囲炉裏を囲んだ。草と鶴姫も竹蔵の隣に腰を下ろした。
清は若者たちに濁酒を注いで廻っている。
皆が揃ったのを竹蔵は見渡して口を開いた。
「皆の衆、良く分かっておるだろうが、この里の者は山の民だ。本来ならば里には縁のない民であったが、三村家親殿のおかげでこの里ができた。それも年貢のいらぬように手配してくださった。ありがたいことだ」
若者たちは、一斉に首を縦に振り、竹蔵の言葉に納得していた。
皆の表情を見てから、竹蔵は眼の瞼を細めて声を出した。
「その代り、調べ方としてお役目を果たすようにと。そこでお主たちにもこれからは密偵としての役目をしてもらう。よいな」
「おう、その話を今か今かと待っておりました」
若者の一人が叫ぶと、全員そうだと叫んだ。その顔は喜びに溢れていた。
「それに、殿からは儂に大事な鶴姫様の守り役まで仰せつかった。そしてこの里の者を信じて鶴姫様を託していただいた。ありがたいことだ。鶴姫様はここにおられる。よってお主たちには鶴姫様に、これから伝えるそれぞれの役目を教えてあげてほしい。よいか」
「わかり申した」
若者たちが大声で一斉に叫んだ。
竹蔵は役目を記した和紙を広げ読み上げて言った。皆が必死な顔で竹蔵の言葉を逃すまいとして耳を立てている。
「では、役目を言い渡す。半蔵は鶴姫様に太刀と薙刀の武道の一切。霧蔵は鶴姫様に忍びの術一切。輝蔵は種子島の技一切。菊蔵は弓の一切。菊蔵の妹の菊は織物一切。糸は篠笛一切。特に糸は篠笛の作り方も含めて、我らの民に昔から伝わっている平家物語を教えてくれ。作蔵は竹の作事一切。以上その他の者は探索に出てもらう」
「おう、承知した」
若者たちは、全員が顔を上気させて頷いた。
そして、竹蔵は鶴姫と草に向かって
「姫、良しいですか。これから鍛錬をしますぞ。草も一緒だ」
鶴姫と草も、これから始まる鍛錬に胸が躍って、顔を見合わせてほほ笑んだ。
鶴姫が竹の里に来てから、半年が過ぎていた。
竹蔵は、時々家親に呼ばれて若者たちを連れて里を離れることはあったが、里にいる時は鶴姫、草に対して直じかに鍛錬を行っていた。
鶴姫が特に関心を持ったのが、糸の教える篠笛である。鶴姫と草は糸から篠笛を作る手解きを受けていた。幸い漆の木もこの竹の里には自生している。竹の割れ目に藤を巻いて漆を塗りこんだ篠笛を作るのを、二人は競うようにして作っていた。そして竹で作られる篠笛は、雌竹の割れ止めに藤を巻いて漆を塗った横笛である。篠笛の音色は、もの悲しく哀愁を誘うのが、北風が吹きすさぶ真冬の北の海の岸辺で聞こえる虎落笛の音色に似ていた。
できた篠笛を鶴姫と草も糸の吹く平家物語の音色を競うように覚えていった。
それと、作蔵の教える竹の道具作りも楽しそうに二人で行っていた。作蔵の作る漆を塗りこんだ竹籠は、どこに売りに行っても評判が良かった。その竹籠を売る店を播磨の国や備前の国の城下の商い小屋で構えていた。
竹の里は、竹が豊富に生えていた。そして竹林の傍には、どこも決まって椿が植えてあった。
竹は小さいときは,筍として食用に用いられる。また塩漬けや乾燥して保存食として食することができる。
それに竹は大きくなると,土壁の中の骨材、簾、垣根の材料や竹の塀、畑仕事の籠、また笊、川にいる魚取りの筌、梅干を干すときの台、養蚕の台、つる植物の支え棒等に使われた。そして、旅に必要な水入れとなる。
武具は弓と矢になるし、竹槍として、槍の代わりもすることができる。
竹は六十年から百二十年に一度、花を咲かして実を付ける。
実を付けると次の年に全ての竹が枯れてしまうが、このとき地下茎は,まだ生きているので,地力が回復すると数年後、又、竹が生えてくる。最初の竹は直ぐ枯れてしまい、再び出てくる次の竹からは次々と生えてきて元の竹に育つ。
そのために、竹の里では、枯れた竹を炭として使用する。
炭は地力の回復剤として有効であることを、長年の山の民の生活で習得していたのである。
又、竹の炭は里を流れる小川では、水を清める役目をもっている。竹の里では清んだ水が里を豊かにしていた。
里を流れる小川はいずれ高梁川に注ぐ。竹の里を流れる小川と高梁川の注ぐところから高瀬舟が、行き来する。高瀬舟で竹の里の竹細工や農産物を運んでいる。
鶴姫と草は竹蔵の広くもない庭で、莚の上に胡坐を掻いて屈みこんでいる菊蔵を、縁側から見ていると、鶴姫と草が見つめているのを感じたりか、菊蔵が手招きした。鶴姫が応じるように菊蔵の傍まで行くと、菊蔵の周りには黒漆が塗られた真竹が散乱している。
莚の上に二人が座ると、菊蔵は真竹と細く刀で削った木片をニベで繋いでいた。その繋目を麻糸で力いっぱい括っている。菊蔵が力を入れているのが、額に浮いた青筋でわかる。腕にも青筋が浮いていた。
しばらくすると、菊蔵は息を吐きかけて口を開いた。
「後は麻糸をこの弓矢に張るだけだ」
キク蔵は鶴姫と草を見ながら、安堵した顔を見せた。
弓矢の両端に麻糸が結ばれて、張られた。麻糸は漆が揺られているのか、不気味なほどの艶やかさだ。
「よし‥これで出来た」
菊蔵が誇らしげに、出来立ての和弓を高々と持ち上げた。その和弓は陽の光りで照らされて鈍く光っている。菊蔵が和弓づくりを得意とした重藤の弓の出来上がりである。
菊蔵が拵えた重藤の弓とは、裏重藤と呼ばれる手で持つところが、弓の下側に荒い麻糸を何重にも巻いた弓である。
すると菊蔵は、鶴姫の目の前に長弓を見せた。
「鶴姫様の弓です」
鶴姫は飛び上るほど嬉しくなった。
―菊蔵は私の弓を作ってくれていたのか‥
鶴姫の手に菊蔵の重藤の弓が握られた。
「草の弓はこれから作るからな」
菊蔵は草の顔を見ながら、次の弓を作り出していた。
それから菊蔵の手ほどきで、鶴姫と草の弓矢の稽古が続けられていた。
何日かした時に、清から草と鶴姫に家の裏手にある椿の実から、油を取る手伝いをさせられた。
椿は油がとれる。そのために竹の里では、必ず竹林か家の付近には椿を植えている。竹の里では、ほとんど自給自足の生活が可能となっていた。そのために、隠れの里となることができた。
鶴姫が隠れ竹の里で過ごしていた頃、備中の国を取り巻く大名たちの動きは、凄まじいほどに激変していた。
天文二十年(一五五一年)再び、月山富田城の尼子晴久が、備前に攻め込んできた。
すると浦上正宗の弟の浦上宗景が、兄正宗に反旗を翻して、備前の天神山城で旗揚げをした。
そして、三村家親に援軍を頼み、尼子晴久に従う浦上正宗と対峙する。家親は毛利元就と手を組んで宗景の合力に動いていた。
その結果、浦上正宗は播磨の国に逃亡して、ほぼ備前の国は浦上宗景の支配下に置かれることになった。
家親は竹蔵に命じて、今度は竹細工の店を天神山城の城下に開かせていた。
当面は合力する者であるが、いつ何時敵になるかもしれぬ相手である。そのためにたとえ味方でも用心することに越したことはないと踏んでいた。
鶴姫は世間の出来事には関係なく、隠れ竹の里で過ごしていたが、時折に竹の里に帰る竹蔵の顔が、険しくなってきていたのが、気になっていた。
浦上宗景の家臣である宇喜多直家の台頭を耳にしていたからである。宇喜多直家は表裏一体の者として、用心が必要との風の噂があった。
宇喜多直家は享禄二年(一五二九年)に備前国豊原にあった砥石城で生まれたが、祖父宇喜多能家が、同じ浦上家の家臣であった者に殺されて、砥石城は陥落した時に、父興家と命からがら逃げて、しばらく放浪の時代を過ごしていたが、浦上宗景に仕えたことで、頭角を現してきていた。今ではいずれ浦上宗景を超える才覚を発揮するだろうとのもっぱらの噂が広がっていた。
鶴姫は三年間ほど竹の里で暮らしていた。
鍛錬と里の者たちと田植え、稲刈り、川での魚取り、竹の炭作り等をして過ごしていた。
そして夕闇が迫るころには、毎日のように決まって、鶴姫と草の奏でる篠笛が聞こえてきていた。
常山城
天文二十二年(一五五三年)穀雨の候
鶴姫は三年ほど過ごした隠れ竹の里に別れを告げて、松山城に帰ってきていた。
竹蔵の娘の草も鶴姫と一緒に城に上がっていた。もちろん百段も‥
鶴姫は目の前の若者に牙を向けた。備中松山城の本丸屋敷の裏庭で、樫の木の木刀を正眼に構えた。さほど広くない裏庭では二人の息が凍っている。鶴姫は正眼の構えから、いきなり八相の構えに木刀を変えた。じわじわと裸足を滑らせた。相手の若者の額に冷や汗がじわりと噴き出ているのが分かった。相当に相手は焦っているのか、それとも私に叶わぬとでも思っているのか、鶴姫は相手の若者の隙を伺った。若者は正眼の構えを崩していない。
春先の風はまだ冷たい。二人の息と同様に二人を包む空気も冷たい。
その冷たさの中で、今度は鶴姫の額に汗が滲み出た。木刀を握る手にも汗が溜まってきていた。
突然、鶴姫が声を上げた。
「エイ」
声と同時に八相の構えから相手の脇腹をめがけて斬りこんだ。すると若者はするりと身をかわして、鶴姫の木刀を上段から斜めに叩きつけた。
思わず木刀を叩きつけられた鶴姫は、腕が痺れる衝撃を受けたが、ひるまず返す木刀で、斬りつけた。若者の木刀と擦り合わせた。しかしじりじりと力で押される。鶴姫はいきなり身を引いた。
その時、本丸屋敷の長廊下に腰を下ろして、二人の試合を見ていた家親が声を上げた。
「それまで」
家親の声に鶴姫は躰の力がすべて抜けたように、大きく息を吐いた。そして家親に向かって声を上げた。
「父上‥勝負はこれからです」
突然の家親の試合の終わりを告げたことに文句を言った。
鶴姫の顔は憤懣やるかたない、の表情をしている。眼はきりりとした瞳を若者に向けていた。
家親は鶴姫の悔しそうな顔を見て、笑みを浮かべて言った。
「鶴‥残念ながら勝負は付いている‥鶴の息が継いでいない。対して上野隆徳殿は、少しも息が乱れていない」
鶴姫は息が乱れていた。勝負から身を引いたのも、いったん引き下がって再度挑むつもりであったが、息が続かなかったのも確かだ。
鶴姫の相手をしていた若者は、平然とした顔を見せていた。
鶴姫は木刀を手にもって、家親の座っている長廊下の横に腰をかけた。隆徳は鶴姫の前の庭に佇んでいる。大柄の隆々とした筋の通った躰に、鼻筋が際立って通った顔は、平然として、少しも息も乱れていない。涼しい顔を見せていた。又すっきりとして眼には力強い瞳を供えていた。
「隆徳殿‥この通り、鶴は向こう気が強い女子であるが、細かいことも良く気がつく女子だ」
隆徳は家親の意味をなさない言葉に、笑みを浮かべていた。
「拙者としては、このたびの縁談は大変気に入っております。鶴姫様も美しい方でございますゆえ」
隆徳は家親に向かって言った後、鶴姫を見た。
鶴姫は隆徳の言葉に少しばかり頬を赤く染めた。そして恥ずかしそうに俯いた。先ほどの威勢の良い態度とは、かけ離れた恥じらいに近い姿になっている。
上野隆徳の家系は清和源氏からの流れを組む。五十六代清和天皇の六子である貞純親王の子である経基が臣籍降下により、源姓を名乗ったことから清和源氏として始まっている。上野家は横二線である家紋の足利二っ引が、示すとおりに足利家の庶流である。京において足利幕府の重臣として重きを成した地位にいたが、足利幕府十第将軍足利義種の命によって、先先代の上野信孝が備前に居城したことから、備前上野家が始まっている。
又上野家と三村家とも清和源氏を祖として続いている家系のために、話はとんとん拍子に進んでいた。
このたびの鶴姫との縁談には、上野隆徳から強い申し込みがあった。
また、備前松山城の隆徳の祖父である上野頼氏が、庄家に滅ぼされていたことから、少しばかりの流浪を余儀なくされたが、上野家の仇である庄家を駆逐した三村家親とは、よしみを通じていた。
そのことがあって、今では備前の国の常山城の城主として勢いをつけていた。
鶴姫はそばに控えていたミツから手渡された手拭いで、首筋から額を拭いた。
拭き終わった時に、家親が鶴姫に向かって声をかけた。
「鶴‥これから隆徳殿と少しばかり話があるので、座を外してくれ」
申し訳なさそうな声で言った。その後には家親と隆徳は、真剣な顔をして話し込みだした。
鶴姫は、頭を下げて腰を上げた。そして庭を歩いて、本丸屋敷の鶴姫が寝起きしている間に向かった。その後をミツが付いてくる。後ろを付いてくるミツの声が背中から聞こえた。
「鶴姫様‥お嫁入り道具を見られますか?」
鶴姫は歩きながら首を縦に振った。屋敷の裏手に納屋がある。納屋といっても石積みの上に漆喰で塗り固まれた土壁のしっかりとした納屋だ。扉は一枚の樫の木でできていた。
扉には錠前が掛けられている。ミツはいそいそと鶴姫の前に進んで持っていた鍵を腰巻から取り出して、錠前に差しこんだ。
ミツが開き戸を開けた。開き戸の前は少しの石段になっている。納屋の中に入ったミツの後に鶴姫は続いた。
納屋の中は真っ黒だったが、しばらくすると、眼が慣れた。開けた開き戸からの陽が差しこんでいる。ちょうど納屋の半分ぐらいの広さに差しこんでいた。陰になっている所に、嫁入り道具の一つである桐の木で造られた箪笥が置いてあった。
その箪笥を鶴姫は笑みを浮かべて見ていた。鶴姫が生まれた年の天文六年(一五三七年)の春の日に、鶴姫の母である勝君が植えさせた桐の木からできている。切られた桐の木の
根台は、納屋の横に新たな命が生まれるように小さな芽を出していた。
箪笥を触りながら見回すと、絹の袋に入っている青銅の鏡が見えた。魔よけの意味で家親が用意した物だ。
ふと見上げると、外の陽に照らされた紅色の矢絣の小袖と紺の袴が壁に掛けられている。矢絣の柄は、矢のように一度撃ったら帰って来ないという、縁起を担いだ嫁入り道具の一つである。
そして納屋の奥には、輿入れのための赤い布で覆われて、布の縁には金箔が張られた駕輿が置いてあった。その他懐剣、薙刀も壁に立て掛けられている。最後に家親が特別に造らせた銀色に輝いている細身の紺糸で結んだ裾素懸威胴丸の甲冑を目にした。
紅色に染められている具足や臑当ても傍に置いてあった。そして甲冑の前には名刀二尺九寸もある国平の太刀も置いてあった。
鶴姫は一通り輿入れの道具を見回すと、なぜだか胸が熱くなってきた。父と母の愛情を一心に受けて、嫁ぐ者としての感情が込み上げてきた。
―もうすぐにあの人の元に、輿入れをするのか‥そしてこの城ともさよならをすることになる‥。
鶴姫の頬を一筋の涙が伝わった。
半月ほどして鶴姫一行の嫁入り行列が、常山城の麓にある久昌寺についた。常山の麓の一角を支配しているかのように広大な庭が広がっていた。臨済宗である久昌寺は一度廃寺となっていたが、隆徳によって再興された寺である。そのためか本堂を含めて寺院は真新しい。特に本堂の屋根には備前焼の瓦が敷き占められている。
鶴姫が乗っている駕輿は、人足六名ほどで担がれている。寺の庭に着くと静かに駕輿が下ろされた。
白く透き通るような絹で織られた布を捲って、紅の打掛を羽織った鶴姫が庭に立った。
すると周りから大きなどよめきが漏れた。鶴姫が辺りを見回すと、寺の門から本堂に至るまで人が溢れている。ほとんどの者たちが野良着を着ていた。中には手拭いを頭に被った女もいたが、鶴姫を見た途端に手拭いを頭から外して手にもって微笑んでいる。
常山城の民の多くが、城主隆徳の花嫁を見ようと寺に集まっていた。
鶴姫は本堂の屋根瓦に眼を向けた。陽に照らされて鈍い土色に、光が宿しているように光沢を放っていた。
鶴姫は春の日差しに思わず額に手を置いた。再びあたりを見回すと、家親が馬から降りて上野家の侍と話をしている。このたびの輿入れには家親は自ら軍勢を引き連れて、鶴姫の嫁入りをこの眼で確かめるためにか、同行していた。
しばらくするとミツが家親に呼ばれた。家親は何やらミツに言っている。ミツが走ってきた。
「鶴姫様‥隆徳様もこちらでお待ちです」
鶴姫がミツの言葉に耳を傾けて、家親を見ると、出迎えの上野家の侍の中から一人の若者が現れた。そして鶴姫を見て、微笑んでいる。
「隆徳様だ」
鶴姫は思わず声を上げた。
そして静々と近づいて行く。近くに参ると隆徳が凛とした表情で佇んでいた。鶴姫はゆっくりと頭を下げた。
そして頭を上げると、隆徳は半月前に見せた涼しい瞳を輝かせていた。思わず鶴姫もにこりと微笑んだ。
言葉を交わすわけではない二人を、家親はやさしい眼差しで見つめていた。そしてそのまま隆徳と鶴姫は常山城の本丸に向かうために、山麓にある大手門を潜った。二人の後を家親が十名ほどの若侍衆に囲まれて続く。標高百間もある常山の頂にある本丸までの本道は、急な坂道が続く山道である。
常山は本丸のある山頂から北と東に尾根が続き、南は海に面している山である。
応仁三年(一四六九年)、上野氏の出城として築城されたが、築城前までは、帰海山と呼ばれていた。
常山の南にある海は、瀬戸内海の東西の潮の流れがぶつかるところであり、潮の流れがぶつかって帰る所からそう名づけられていたが、築城を起に、孫子の兵法の故事にある[常山の蛇勢]の逸話にあやかり常山と名を変えて呼ばれるようになった。
中国の有名な五岳の北方に常山という山があり、そこに「率然」という蛇がいて、この蛇は、もし、その首の方が打撃を受けると、すぐに尾の方が反撃してくるし、その蛇の中央部を撃つと、首も尾も同時に協力して攻めてくる。つまり、全身がうまく連携して敵に対抗するという謂れがある。
難攻不落の城としての願いから名付けられたものであった。
城は山頂にある本丸を中心として東の尾根に沿って、一段下に東二の丸、二の丸の一段下に東三の丸、矢竹丸、その下に矢竹二の丸、惣門二の丸、惣門丸と階段状に続いている。
惣門丸から本丸までは十間余りの段差があり、奥行きは約八十間ほどである。
そしてくさび状に、北の尾根沿いに、北二の丸、北三の丸、天神丸、青木丸、栂尾二の丸、栂尾丸とこれも階段状に続いている。
全ての曲輪は石垣が敷かれ、その上に土塁が築かれていて木の柵が組まれている。
東の尾根と北の尾根の間には、水が枯れたことが無い[底なし井戸]と呼ばれている井戸があり、城内の水は全てこの井戸から賄われていた。又底なし井戸の下には馬が十数頭いれば一杯になるぐらいの広さの馬場と馬洗池があり、城への道は、麓から惣門丸と栂尾丸に続く一つの本道と、獣の道が逃れ道となっている本丸に続く道が、一本あるだけである。
二人は連れ立って歩いた。陽が燦々と降り注いでいた。一間の幅の本道の脇には、青々とした草花の新芽が顔を見せている。風もさわやかに吹いていた。隣を歩いている隆徳が声をかけた。
「鶴姫殿‥松山城からの道中疲れてはないか?」
やさしい眼差しをして言った。
鶴姫は首を横に振った。そして隆徳を見つめた。その時、本道の所々にある窪みに脚を取られた。数日前に降った雨の名残だ。
そのためによろめいた。するとつかさず鶴姫の手を隆徳が掴んだ。力強い手で鶴姫の躰を支えるようにした。
「鶴姫‥大丈夫か?」
「あぶのうございました‥」
手を握られたまま鶴姫は隆徳の瞳を見ながら口を開いた。
その時に鶴姫は、隆徳の手の温もりに、心が躍った。
―生まれて初めての男の人の温もりだわ‥
鶴姫の頬は赤く染まっていく。心の臓が踊り出していた。
ようやくの思いで、二人は惣門丸前の広場に着いた。惣門丸前の広場には幾人かの者たちが佇んでいた。
皆が上野家の重臣たちだ。常山城の出城の戸山城主水沢成政、備前鬼身山城主加地忠義
湊山城主山田家重、隆徳が一番信頼している鷲羽山城の太田道真である。
すべての者が風折烏帽子を被り、直垂を着こんで長袴を穿いて、鶴姫の来るのを待っていた。重臣たちの後ろには女子衆が控えていた。
鶴姫は隆徳に続いて、重臣たちの前を通って、惣門二の丸、矢竹二の丸、矢竹丸、二の丸から本丸に向かった。どの曲輪も大凡二百坪はあるだろうか、それぞれの曲輪は独立して守りを固くした土塀で仕切られている堅固な作りになっていた。又曲輪の側面は、段々の石垣が築かれて、曲輪の横から攻めてくる敵は容易に打ち破ることができるように、樹木は切り取られている。まるで天空の城であることを下界にいる者たちに誇っているような城であった。
鶴姫は二の丸から冠木門になっている本丸表門を潜ると、青空が透き通って見えた。そして一段と広い場所に屋敷が建てられていた。
上野家の本丸屋敷だ。二人の後を上野家の重臣たちと家親と三村家の侍たちが続く。その後を女子衆が続いていた。
鶴姫は、屋敷の式台の前に着くと、この屋敷で過ごすことになるのかと脳裏の奥で思った。
式台の前には盥が数多く並べてある。どの盥にも水が並々と溜められていた。鶴姫は式台に腰をかけて、草履を脱いで盥の水で足を洗った。そして静々と式台に通じる長廊下を奥の間に向けて歩いた。
すると長廊下の先に青々とした海が見えた。鶴姫は初めて見る瀬戸の海に眼が釘付けになった。
思わず裸足のまま、本丸を囲っている土塀に近づいた。両手を土塀の上にかけて、下を覗くと、石垣の下の斜面は樹木が切り取られ、草原になっている。その先に眼を転じた。
すると先ほど見えた瀬戸の海が、瞳のすべてに見えていた。瞳が海になっている。
鶴君は始めて見た海に呑みこまれていた。
「すごい‥海は‥」
青々とした海原が続く瀬戸の海を見て思わず声を上げた。まるで自分があの海を泳いで、まだ見もしない世界に行けるような気持ちになった。
海を見入っている鶴姫の隣にミツが佇んだ。
その気配を察して、更に鶴姫が言った。
「ミツ‥見て‥見て‥あれが海なのね」
まるで子供のようにハシャイでいる。
瀬戸の海は、陽の光に眩しいぐらいにキラキラと輝いていた。しばらく呆然として瀬戸の海の先を見つめていると、瀬戸の海は青空と同化したように、一体となっていた。その景色を鶴姫は瞳の奥に焼き付けた。
黄昏闇が迫っていた。常山城から見える瀬戸の海も黄昏の茜色に染まっている。本丸を含めて二の丸にも篝火が焚かれていた。常山の頂に煌々と明かりが燈り、今日の宴の様子を下界の者達に知らしめている。
中天には透き通る白さの月が、まるで漆黒に近づく空に、手を伸ばせば届くぐらいの大きさで輝いている。不思議な空の景色に鶴姫は見とれていた。
―本当に空が近い‥
鶴姫は、夜空に輝く星屑を見ながら思った。
屋敷の本間では、酒宴の仕度がおこなわれている。ミツを含めて松山城から鶴姫に従ってきた侍女衆と、上野家の女子衆が、いそいそと膳の仕度をしていた。鶴姫は長廊下に座って女衆の仕度仕事を横目で見ながら、空を見上げていた。
すると鶴姫の横に隆徳が座った。相変わらず涼しい瞳で鶴姫の横顔を見ている。
二人とも言葉を発せずに黙って、黄昏に暮れる空を見ている。
しばらく時が過ぎると酒宴の仕度が整ったのか、本間の板間の両脇に置かれている茣蓙布団に、侍衆が座りだした。壁床の間を背にした茣蓙が四つ置かれている。真ん中の茣蓙には隆徳と鶴姫が座ることになっている。
鶴姫の座る茣蓙の横には家親がもうすでに座っていた。その様子を長廊下から見ると、家親が手招きしていた。
鶴姫と隆徳は、互いに笑みを浮かべて、腰を上げて本間に脚を向けた。
酒宴も闌になった。鶴姫も頬が紅色に差して美しく輝いていた。鶴姫のすぐそばにある行燈の灯が妖艶さを増していた。次から次に上野家の侍たちが酒を注ぎに来る。そして決まって言うことは、これで上野家も安泰です。備中の有力な三村家と上野家が手を結べば、乱世に陥ることはないと‥
確かに隆徳殿の人柄は、良いようだ。輿入れで常山城に向かう道中の人の数は凄かった。その上に久昌寺で待っていた民の数の半端ではない。その上民の顔の表情も皆が明るい。
鶴姫は酒がまわった酔った頭で、納得をしていた。
しばらくすると隆徳が立ち上がった。隆徳の顔も紅色に染まっている。自然と隆徳に続いて鶴姫も立ち上がって、隆徳に従うように本間を出た。長廊下には行燈が灯されている。庭の隅々に篝火が焚かれていた。
静々と長廊下を隆徳に従って歩いて行くと、隆徳は湯殿に向かった。すると中年の侍女のタミが長廊下の端の障子の間の前に畏まっているのが見えた。
鶴姫が近づくと、タミが顔を上げて言った。
「鶴姫様‥しばらくこの間でお待ちください‥」
鶴姫はタミの言葉に従って障子の間に入った。障子の間の奥は板襖がある。誰が描いたのかわからないが、板襖いっぱいに松の木が大きく描かれた水墨画が見えた。障子の間は畳が敷かれていた。畳の上に座って待っていると、本間から皆の大声が聞こえてくる。それも笑い声が木霊するように鶴姫の耳に届いていた。
刻が過ぎた頃。障子が開いて隆徳が絹の白い着物の寝装束に身を包んで現れた。と同時に隆徳が鶴姫を見つめて笑みを浮かべた。
すると障子の向こうからタミの声が聞こえた。
「では鶴姫様‥これから湯殿にご案内申し上げます‥」
タミの声に導かれて湯殿に向かった。湯殿に向かう長廊下からは、中天の空に青白い光を放った月が相変わらず輝いている。
湯殿から出た時に湯殿の着替え場では、鶴姫用の寝装束が置いてあった。鶴姫は洗い流した躰を、隆徳と同じ絹の白い着物の寝装束に包んだ。長廊下に出た時に、中天の月は怪しげで艶やかな光を放っていた。鶴姫は隆徳が待っている板襖の間に向けて脚を向けた。
真丸い月と夜空いっぱいに輝いている星は、これからの鶴姫の身をやさしく、そして幸せを願うように照らしていた。
梟の正体
永禄九年(一五六六年) 残寒の候
鶴姫は輿入れしてから鶴君と呼ばれていた。この年に鶴君は数え歳で二十九歳になっていた。四人の子を授かったからなのか、少し頬の辺りがふっくらとしていたが、瞳は相変わらずきりっとした眼光を供えていた。
北風が常山城を取り囲んで渦を巻くように吹いている。雪も斑に混じっている。鶴君は手にした縫針を置いて、思わず傍に脱いでいた打掛を肩に羽織った。傍では下女のミツが必死の思いで、端切れ布に針を通している。鶴君は針を通しながら昨年の晩秋の刻に、山裾に広がる殿田の稲刈りの様子を思い出していた。
鶴姫は隆徳の元に輿入れをしてからは、毎日のように百姓の女たちと一緒に過ごす日が多くなっていた。
百姓の女たちに篠笛をせがまれて、笛の作り方、吹き方を教えている日もあった。
特に城の近くの田圃を持っている喜作の女房のフクと喜平の女房のスズとは、城主の妻女と百姓の女房の身分差を越えた関係であった。
鶴君は野良着に着替えて、城の侍衆と女子衆を連れて、朝陽が登る前の漆黒の闇が、支配する刻に、田圃に向かった。
稲が頭を垂れている。稲は暁光に照らされた上に、豊作に実っているために、黄金色に輝いていた。鶴君は黄金に染まった田圃に着いて朝靄が辺りを漂っている時に、突然現れた者に大声で怒鳴られた。手には鎌を握っている。
「おい。お前‥何している。盗人か」
鶴君は驚いて現れた者を見た。二人連れだ。
「あーあ。驚いた」
思わず声を上げた。
すると二人連れは、薄くなった朝靄の中で近づいて鶴君の顔をまじまじと見た。
二人とも驚いた顔を見せた。
「これは鶴君様。どうしてここにおられるのですか?」
この田圃を、自作をしている百姓の喜平と女房のフクだ。その二人に向かって鶴君は声をかけた。
「今日,稲刈りと聞いて、城の者たちを連れて手伝いに来た」
頭をかきかき鶴君は二人に言った。
「えー。まさか。とんでもないです。めっそうのないことであります」
フクは恐縮して鶴君の言葉に、手を顔の前で横に降っている。その仕草を見て鶴君は頭を下げた。
「いや黙ってきて悪かった。稲刈り仕事は好きでな。殿田も稲刈りが終わったので、フクの田圃を手伝いに来る事が出来た」
殿田は常山城の城の者たちの田圃の事である。
鶴君は毎年、城の女子衆を連れて、百姓たちの田植えと、稲刈りには手伝いに訪れていた。
特に、男手がいない者たちや、年をとって働きが弱い者たちの田は、毎年必ず手伝いをしていた。
鶴君はフクの驚いた顔を思い出して、頬を緩めた。
そして思い出し笑いをして、口元を緩めた。
―そういえばもう少し暖かくなったら、城の女衆を連れて田植えに手伝いに行くとしますか?
思い出し笑いをしている鶴君とミツの間には火鉢が置いてある。その火鉢の上に置かれた鉄薬缶の口からは盛んに白い息が噴き上げていた。火鉢のおかげで少しはこの間も温かくなるはずなのに、今日の北風は氷を伴っているかのように、肌を刺すほどの冷たさだ。
下女のミツは、輿入れしてからの鶴君の傍を離れずにいた。幸い隆徳の家来の塩出光洋と昵懇になり、一男一女を設けて、山麓の武家地の長屋に住んでいる。この日は鶴君に言われて、鶴君と一緒に隆徳の袴の綻びを、端切れの布で当てるために針を通していた。
そこに、突然、長廊下からの障子が開いて、一人の女子が現れた。歳は今年で十二歳になる菊姫だ。菊姫と共に外の北風が、間の空気を一瞬に吹き飛ばして、寒々とした空気が支配した。
間に入ってきた菊姫は、隆徳の血を継いだのか、子供ながらも凛とした表情を見せていた。しかしその日の菊姫は、少しばかり泣きべそをかいているようだ。
ミツが菊姫のいつもと違う様子に声をかけた。
「まあ菊姫様‥どうなされたの?」
すると菊姫はたどたどしい口で、項垂れたまま鶴君に向かって言った。
「母上様‥国姫が‥」
そこまで菊姫は言って、眼に涙を溜めて泣き出した。
ミツは手にした針を、針刺しに刺して、菊姫の傍に近づいた。菊姫はミツの耳元で泣きじゃくりながら、何やら必死で訴えていた。
すると今度は、ミツが笑いを必死で堪えて菊姫と共に長廊下に出て行った。
しばらくしてミツが帰ってきた。
そして笑顔を見せながら、鶴君に言った。
「鶴君様の篠笛の取り合いっこでした。今までは菊姫様だけが篠笛を吹かれていましたが、国姫様もほしがるようになられての取り合いっこでした。イトがうまく二人を宥めております。変わりばんこに、どうぞって‥それまではイトが篠笛は預かりますと‥イトがうまく、お二人の姫君をあやしています」
ミツとイトは鶴君の輿入れから、ずっとこの常山城に居座っていた。鶴君は二人の子の日常の他愛もない争いを、笑みを浮かべて見ていた。
―菊姫は殿に似て静かで女らしいが、国姫は私に似たのか少し気が強く男勝りのようだ。
二人の子を見比べていた。
鶴君はしばらくの間、ミツと針を布に通していたが、今度は板襖が開いて、乳母のシカが嫡子の源五郎の手を握って、小十郎を胸に抱いて入ってきた。
鶴君は、針を針刺しに刺して、両手をいっぱいに広げた。シカが赤ん坊の小十郎を鶴君に抱かせた。
小十郎を胸に抱いて、あやした。
鶴君の四人の子は菊姫十一歳、国姫八歳、源五郎三歳、小十郎は生まれたばかりの一歳にならぬ歳であった。
鶴君が小十郎を胸に抱いてあやしていた時に、障子が開いた。下女のマツが畏まって長廊下に腰を下ろしていた。
「鶴君様‥お客様がお越しです」
鶴君は小十郎をシカに渡して、長廊下に出た。相変わらず風が強い。鶴君は思わず肩を窄めた。すると中庭の先から三人の者たちが現れた。
その者たちを見て鶴君は声を上げた。声は嬉しさに満ちている。
「竹蔵‥それに草‥ではないか?」
三人の者達は鶴君を見つめて頭を下げて庭に畏まった。三人の姿に鶴君はふたたび声を上げた。
「そんなところではなく、寒いから上がれ‥さあさあ」
鶴君の声に反応して三人は腰を上げて、長廊下を上がって間に腰を下ろした。
「竹蔵‥達者でいたか?」
鶴君は竹蔵の顔を覗き込んで言った。幾分白髪が増えて、顔の皺も深くなっている竹蔵を見つめていた。
竹蔵はゆっくりと首を縦に振った。
鶴君は草の顔を見ながら、隣に座っている者の事を聞いた。
「草‥もしやその者は?」
草は鶴君の問いかけに顔を赤く染めた。草の表情で鶴君は理解をした。
「して‥名は?」
「今は竹蔵と名乗っております‥義理の父親の名を頂きまして‥」
竹蔵と名乗る者は、申し訳ない顔をしていた。
「そうか‥それでお子は?」
鶴君の問いかけに草が答えた。
「男の子がひとり‥今は母の清が竹の里で面倒を見ております‥」
笑顔で草が答えた。
「それにしても竹蔵‥こんな寒い日によく来てくれた‥里の者は皆息災か?」
鶴君の脳裏には三年ほど暮らした竹の里の者達の顔が、鮮明に思い出していた。
草が皆元気でおりますと大きな声で答えていた。
「竹蔵‥しばらくこの城にいられるか?草も二代目の竹蔵も‥」
鶴君は竹蔵の顔を見ながら言った。すると竹蔵は口を緩めて頷いた。草も頷いている。
四人は十数年前に一緒に過ごした話に夢中になり、夜が更けるのも忘れて話し込んでいた。
鶴君は輿入れで松山城を離れた後、草は竹の里に帰ったことを、竹蔵は天神山城の城下に赴いて竹細工の店を開きながら、浦上宗景の探索をしていたことや、浦上宗景の家臣である宇喜多直家が、今や主家の浦上家を凌ぐほどの力を持ってきたことを鶴君に話をした。
そのために宇喜多直家の居城である沼城にも竹細工の店を開いたことも鶴君に伝えていた。
そして、自分は竹の里で日々暮らしていることも‥探索はもっぱら二代目の竹蔵がおこなっていることも‥
「隆徳の殿は?」
竹蔵が鶴君に隆徳の姿が見えないことを問いかけてきた。
「隆徳の殿は‥美作の国に出陣した父上の抑えとして、上野家の出城である備前鬼身山城主加地忠義殿の所に参られている」
「では‥宇喜多直家の抑えにございますか?」
竹蔵の言葉に鶴君は頷いた。竹蔵も鶴君の頷いた顔を見て納得した顔を見せた。
「ところで草‥百段も死んで‥今では百段の種を継いだ仔馬の百段もすくすくと育っておる。いずれは我が子たちに‥」
鶴君は草に百段の事を話した。草は頷いている。相当な年月が過ぎたことを感じている顔を見せていた。
「ところで今日は夕餉の仕度をさせているが、篠笛を草どうだ‥」
鶴君は草に篠笛の音色を楽しもうと申し込んだ。
草には異存はなかった。嬉しそうな顔を見せていた。
鶴君と草は、竹の里に伝わる平家物語の敦盛の歌を篠笛で弾いた。周りにはミツを始め隆徳の母である清野もいる。菊姫と国姫も静かに耳を傾けていた。城にいる女衆は、すべての者が篠笛を聞くために集まっていた。
北風が吹きすさんでいる。夜遅くまで話し込んで、更に篠笛を弾いた鶴君は、眠たい眼を擦りながら庭に出た。
暁光が顔を出してしばらくの事である。北風のおかげで今日の朝は白靄も漂っていない。吹き飛ばされたようだ。山裾は白く染まっている。昨夜からの雪が積もっているのだろう。しかしこの城では山頂のため、雪の欠片も見当たらない。
しばらくすると草も目を覚ましたのか庭に下りてきた。
二人で朝焼けに染まっている瀬戸の海を眺めた。鶴君は日課のように海を眺めている日が多かった。特に朝の海は色々な姿を見せてくれる。
荒れた日の海は白波がこの城からも見えた。そして誰も寄せつけない荒々しい顔を見せている。反対に穏やかな日の海は、朝日が溶け込み清々しい顔を見せる。午からは陽の光を浴びてギラギラと輝いている。そして黄昏時には空を漂う雲と一緒に茜色に染まる。
鶴君は毎日いろいろな顔を見せる海を眺めているのが好きだった。
その時に本丸の土塀越しに城に続く坂道を一つの早馬が走ってくるのが見えた。雪が積もって真っ白な山麓の坂道を駆けて上がっていた。馬の蹄の跡が点々と付いている。そのためか馬が駆けてくるのが、遠目でもはっきりと見えていた。
鶴君は坂道を駆けてくる者に、少しばかりの胸騒ぎを覚えた。得体のしれない何者かが心を支配したような‥
思わず胸に手を置いた。
しばらく庭で佇んでいると、留守居役の水野左衛門が顔色を変えて駆け寄ってきた。
水野左衛門は上野家の昔からの重臣である。いつも笑顔を絶やさずに鶴君に接している。
申し訳ないほどしか残っていない髪が風で右左に彷徨っている頭に、細めの眼をさらに細めている。しかし今日の水野左衛門は細い眼をかっと開けて鶴君に口を開いた。
その左衛門の姿を見た時に、鶴姫は言いようのない不安に気持ちが沸いた。
「鶴君様‥大変なことが‥」
言葉を途中で止めて、鶴姫の顔を見ている。白髪頭で顔は皺が食い込んでいる顔は、苦渋に満ちていた。
「何事か?」
鶴君が左衛門に声をかけると同時に、伝令の役目を負う百足衆であろう、背中に百足の絵柄が描かれた旗差しをさして、当世具足に身を包んだ侍も駆け寄ってきた。先ほど坂道を馬で駆けて来た早馬の侍だ。
鶴君は、‥もしや殿の身になにか起きたのか‥と思ったが、気丈な顔をして侍の言葉を待った。
すると侍は大きく息を吐いて、畏まったまま言葉を発した。
「隆徳の殿の命で、参りました。三村の殿が美作の興善寺に於いて亡くなられました」
耳を疑った。まさか父上が‥
日頃、殿の身を何時も案じていたが‥殿ではなくあのお強い父上が‥
「どうして父上は亡くなったのか?」
鶴君の問いに侍は首を横に振った。
「何も聞かされてはいません‥ただそのことだけをお知らせに‥」
「では殿は?」
「宇喜多の動きを封じるために‥当分は備前鬼身山城に軍勢を留めておくと。それから鶴君様には、留守居役の左衛門と共に城を固めて置くようにとのことであります」
「わかった‥ご苦労であった」
鶴君の頭の中で父家親の顔が走馬灯のように現れては消えていた。
家親の亡くなったという異変は瞬く間な城内に広がった。顔色を変えて竹蔵と草が鶴君の元に寄ってきた。
「姫‥家親様が‥本当ですか?」
竹蔵が鶴君に向かって、眼を赤くして言った。
「確かなことはわからないが‥」
沈んだ声で答えた。
「おい‥竹蔵と草、直ちに里に帰り真偽のほどを探るために里の者達に探索を‥儂は松山城に向かう‥鶴君様、儂らはこれで失礼をします。何事かが分かり次第に里の者を知らせに参らせますから‥」
竹蔵の傍に控えている草と二代目竹蔵に向かって、怒鳴るように言った。そしてそのまま旅装束に身を包んで常山城を立ち去った。
鶴君が呆然と立ち尽くしていると、いきなり凍えるような北風が頬を刺した。鶴君は寒風の中に身を置いていた。そして父が亡くなったのは、嘘であってほしいと鶴君は願った。
しばらくすると留守居役の左衛門と、城代の大島文衛門が鶴君の前に現れた。大島文衛門は口髭を生やして、六尺の大柄な躰を揺さぶりながら言った。
「鶴君様‥この城に残っている者達に、具足を着て城に集まれと大太鼓で知らせます」
左衛門の言葉通り、二の丸の大太鼓の音が響きながら鳴った。しばらくすると山麓の武家地の侍長屋から飛び出すようにして、駆けてくる者たちの姿が見えてきていた。
二日ほどして隆徳が、軍勢を引き連れて常山城に帰ってきた。
表門に留守居役の侍たちと共に、鶴君も女子衆に混じって出迎えていた。菊姫と国姫それに源五郎と乳母のシカに抱かれた小十郎もいる。
陣羽織を羽織っていた隆徳は、馬を馬場に預けて、当世具足の侍たちと共に徒歩で表門に現れた。
鶴君は思わず隆徳の顔を見るなり、駆け寄った。そして気丈な顔を見せた。
「ご無事でなりよりでございました。それから父上の亡骸は、どちらに?」
鶴君の問いかけに隆徳は眼を伏せたまま答えた。
「今、備中松山城に向かっているとの事だ‥」
隆徳はそのまま口を閉ざして、無言で本丸屋敷に向かった。鶴君は後を付いて行った。
隆徳の背中からは怒りと悔しさが滲み出ているようだ。本丸屋敷で
鶴君は板の間に座った隆徳の陣羽織を脱がして、胴を外した。その時に隆徳が呟くように声を出した。
「宇喜多の手の者によって、種子島で撃たれたとのことだ」
思いがけない言葉が隆徳の口から出た。
「では宇喜多直家が?」
鶴君の問いかけに隆徳は、無言で首を縦に振った。
―やはり‥不意打ちを父上は‥そうでもなくては、あの勇猛な父上が破れるわけはない‥
鶴君の心に宇喜多直家への怒りが、ふつふつと湧き上がってきた。
―卑怯者の直家め‥
「宇喜多はすぐには動くまい‥父上様の亡骸は数日で松山城に着くはずだ。拙者も行くことにするが、しかしいつ何時、宇喜多が攻めて来るやもしれぬ‥そのためにこの城の守りを固めておくことになる。軍勢はそのままにしておく‥そこで鶴は一足先に松山城に出向け‥良いな」
隆徳は鶴君にそういって口を閉ざした。頭の中では宇喜多直家への仕打ちを考えているのか、眉間に皺を寄せていた。
朝焼けが東の空を照らしている刻に、鶴君は馬場に向かった。小袖に袴を穿いて脚絆で脚を括った。陣羽織を羽織っている。大小の刀を腰に差していた。鶴君の後ろをミツとイトが同じように袴を穿いて付いている。
馬廻りの侍から馬の手綱を受け取り、鶴君は馬上の人になった。思い切り鞭を馬の腹に入れた。
その後をミツとイトが必死に走っている。
途中、鶴君は何度も涙が出てきていた。そのたびに小袖で瞳を拭きながら駆けた。
「あの勇猛な父上が‥」
備中松山城に、鶴君は悲しみと共に傾れこんだ。
鶴君が松山城の大手門に辿りついた時は、黄昏闇が刻々と訪れようとしていた。大手門には赤々と篝火が焚かれている。鶴君は門番侍に来たことを告げた。しばらくするとミツとイトがへとへとになりながら大手門に着いた。その時に西の空を見上げると茜雲が消えようとしている。
鶴君はその後に馬に最後の鞭を入れた。馬場に跨ってきた馬を預けて、二の丸に続く石段を駆けた。後からミツとイトも続いてきた。
本丸屋敷に着くと、式台の上に母勝君がいた。その顔は泣きくれて涙が枯れた瞳をしている。一気に歳をとったように、顔は沈んで背中を丸めて佇んでいた。
「母上‥」
「鶴‥」
互いに名を言いながら、勝君の肩を抱いた。すると自分でも驚くほど勝君の躰は小さく感じた。鶴君は打ちひしがれて背中を丸めている勝君が愛おしく想い、そして父家親と過ごした日々が脳裏の片隅にこびり付いた。
「父上はまだ?」
鶴君の問いかけに母勝君は、首を横に振った。そのまま勝君の肩を抱いて、式台から長廊下に出て、家親が帰ってくる時の大広間に連れて入った。
大広間の隅っこに勝君が遠慮気に座った。鶴君も続いて隣に腰を下ろした。しばらくすると兄の元親が、眼を真っ赤に腫らして現れた。鶴君は元親を見て声を上げた。
「兄上、どうして父上は‥」
「知らせが届いておらぬので良くわからんが、どうやら夜半、種子島で撃たれたらしい。叔父の親成殿が、父上の亡骸を持って、こちらに向かっていると言う知らせだ」
兄の元親は城代として、家親が出陣した後の松山城の留守を、守っていた。元親も気が抜けたように悲しみに打ちひしがれている姿だ。あれだけ鶴君に毒舌していた元親が、打ちひしがれている姿を見ていると、痛々しいほどの悲しさが増していた。
―この兄者で、三村家を背負うことは、無理かもしれない‥
鶴君は無性に元親に対して、腹が立った。
「兄者、しっかりせよ。父上がいなくなられた今は、兄者の肩に三村家の家運は掛かっておりますぞ‥」
思わず兄元親に鶴君は怒鳴るように言った。鶴君の剣幕に驚いた顔を見せた元親が、肩を落として答えた。
「そうだな、鶴、儂がこれからは三村家を率いていかねばならぬ‥」
家親の亡骸を乗せた荷車が松山城の大手門に、家親の弟である成羽の鶴首城城主の親成が軍勢と共に姿を現した。
百足衆の伝令で、知っていた鶴君は、元親と勝君と一緒に、大手門で待っていた。
鶴君が松山城に着いてから二日後の夕刻のことである。西の高倉山に沈む日輪が黄昏を告げていた刻である。
朱具足の侍を先頭に、鶴君の叔父の当世具足に身を包んだ馬上の親成の後ろを、荷車に乗せられた家親が見えた。
街道が通っている高梁川の河原から大手門までは篝火が沿道に灯されている。
その中を家親の亡骸を守るように軍勢が通ってきた。
鶴君は黙って家親の亡骸を乗せた荷車を見ていた。鶴君の横には隆徳が同じように家親の荷車を見つめている。先ほどの刻に常山城から着いたばかりの隆徳は、当世具足を身に着けたまま立っている。
鶴君の目の前を荷車が通って、城の中に入った。美作に出陣していた軍勢も続いた。
家親の亡骸は大広間に安置された。
白装束に身を包まれて真白い布団の上に寝かされている。顔には白い布を被されて、胸には愛用の脇差が斜めに置かれていた。
大広間の隅々には、線香が焚かれて、静かに香の煙が昇っていた。
家親の亡骸の傍に鶴君は座った。続いて隆徳、勝君、元親、親成が座り、重臣たちも周りに座った。そこに鶴君の兄である備中守護代家である庄元祐も当世具足を身に着けたまま座った。
その時ふと竹蔵の姿を見つけた。大広間の板間から一段下がった長廊下に正座して座っている。
目と目があった。急いで立ち上がり竹蔵の傍に腰を下ろした。長廊下の下の庭には二代目の竹蔵と草が控えている。
「竹蔵‥この城にいるとばかりに思っていたが、姿が見えぬので、もしやと‥」
そこまで言いかけた時に、鶴君の言葉を遮るように、竹蔵が口を開いた。
「鶴君様‥里の者達の探索では心配でしたので、私めも、宇喜多直家の沼城の城下に参りまして、調べました。やはり直家の仕業でございました。美作の興善寺の本堂で軍議をしている最中に、後から素浪人の遠藤又二郎と喜三郎の兄弟が種子島で撃ったとの事でございます。その上、両名には字が違いますが、同じく浮田の姓を与えたとか」
鶴君は竹蔵の話に膝に乗せていた腕に力を入れた。悔しさで涙がきりりとした瞳から零れていた。
大広間では家親の敵討ちの合戦の話が、永延と重臣たちの間で繰り広げられていた。
家親の葬儀は、雪が深々と降る中で粛々と行われた。盟友の毛利家からは、吉川家に婿として入っていた吉川元春が、毛利元就の名代として参列していた。家親の亡骸は松山城の城下にある備中安国寺である頼久寺に手厚く葬られた。頼久寺までの道中には城下の者たちが沿道を埋め尽くしている。雪が降り積もっている中を、具足の侍に見守られながら静々と亡骸は進んでいた。
鶴君は通夜の席では、家親の魂を静めるために、持参した篠笛を吹いていたが、心の中では敵討ちをする決意を固めていた。
葬儀が終わって、勝君に別れを告げて鶴山城に帰ろうとした時に、隆徳が傍に寄って来て口を開いた。
「これから軍議だ‥軍議が終わり次第、常山城に帰る‥鶴は先に帰っておれ‥いつなんどきに宇喜多が攻めて来るやもしれん‥」
隆徳は唇を噛みしめて言った。鶴君は首を縦に振った。
鶴君は常山城に戻った。竹蔵と草は一旦竹の里に戻り、その後宇喜多の動きを探るために沼城の城下に、竹細工の店を開きに行くという。
しばらくして隆徳も常山城に戻ってきた。
「鶴‥敵討ちの合戦だ。軍議で決まった。来年の田植えが終わった時期に行う」
隆徳は表門で帰りを待っていた鶴君に向かって言った。そして本丸屋敷に腰を落ち着かせて軍議の様子を話した。
「まずは夜襲で明善寺山城を攻めるか‥」
兄の元親が軍議の口火を切って声を上げた。
「明善寺城を攻め落とせば、直家のいる沼城は目の前だ」
続いて親成が同意した言葉を発した。
「しかし備前の岡山城主金光宗高が気にかかる。今は亡き家親殿が寝返らせた者たちであるが、元々は宇喜多の家臣だったからな。岡山城は明善寺城の後方にあるため、彼らが裏切ったら我が勢は袋の鼠だ」
上野隆徳が心配げな顔で言った。
「では隆徳殿、彼らが裏切らないように、隆徳殿が押さえをしてくれ」
元親が神妙な顔付きで言った。
「承知した。我が上野勢は、岡山城に睨みをきかそう」
「では、軍議はそのように、出陣は、来年田植えが終わった時期に」
元親が軍議の決まったことを告げて、隆徳は常山城に帰ってきた。
軍議の様子を話している時に、鶴君は身を乗り出した。その様子に隆徳は怪訝な顔を見せて問うた。
「なんだ、鶴、まさか鶴も合戦に行くと言うのか?」
鶴君は頷いた。
隆徳は首を横に振って声を出した。
「駄目だ、駄目だ。鶴は留守役だ。鷲羽山城の太田道真と組んで、この城を守ってくれ‥」
鶴君は納得しない顔を見せて、頬を膨らませた。
「戸山城主水沢成政、備前鬼身山城主加地忠義、湊山城主山田家重と共に出陣いたす」
鶴君は、悔しそうに隆徳を見つめた。
永禄十年七月ついに、三村勢の宇喜多攻めが始まった。備中の土豪などを総動員した軍勢七千もの大軍である。三村一族はもとより備中の土豪は皆が家親の敵討ちに燃えていた。
上野隆徳も軍勢を引き連れて常山城を出陣した。
日輪が大空に高く輝いていた梅雨明けの日の事である。じめじめとした梅雨空が開けて、日差しが一段と照り注いでいる。
鶴姫は麓の追手門まで山道を下りて、隆徳の軍勢を見送った。鶴君は三宝を用意させていた。その三宝は目の前に道に置いてある。三宝には殻から取って干した羅鮑と栗と昆布を乗せている。貴重の品である。遠くからこの日のために鶴君が手配させて手に入れた物であった。出陣の三献の儀式のためである。そして三宝の真ん中には酒の入った盃が置いてある。
今度は三宝に包丁を乗せた留守居役の侍が表れて道の真ん中に置いた。陰陽道の戦勝祈願の儀式である。出陣は大手門から街道に向かうのは卯(東)の方角から午(南)の方角になる。出陣の縁起の良い方角であった。
しばらくすると、隆徳が三宝の上に置いてある盃を取り出して口に含んだ。そして大声で叫んだ。
「エイ、エイ」
すると出陣する侍たちが隆徳に続いた。
「おー」
勝鬨を上げた。すると一気に当世具足に身を包んだ侍たちの顔が上気した。一人の出陣する侍が法螺貝を吹いた。鈍い音を出して法螺貝がその場にいる者たちに響いた。今までの不安な気持ちが吹っ飛んだように足軽を含めて侍達は紅顔になった。鶴君も自分も一緒に出陣する思いでいた。軍勢に勢いが出ていた。
そして包丁が乗せてある三宝を跨って進んで行く。出陣する侍達の留守中に、敵兵が城に踏み入ることのないようにという意味が込められている儀式である。
鶴君は隆徳が無事に帰るって来ることを願って、心に灯をつけた。
そして、兄元親が見事に父家親の仇を討つことを願っていた。
敵討ちに燃える備中勢は、勢いが付いていた。三村勢の先兵隊千名で、明善寺城に夜襲をかけて落とした。
上野隆徳は手勢千四百名で岡山城の金光宗高が裏切らないように、陣を張って牽制をしていた。
明善寺城を手に入れた元親は、家臣の根矢与七郎と薬師寺弥七郎に守兵百五十人を預けて明善寺城を守らせた。そして一旦松山城に引き返していた。
上野隆徳はその後も、宇喜多直家の抑えのために、陣を張っている。
しかし一刻の後に直家は、備中勢が引き上げたのを見て、明善寺城を取り囲んだ。そして降伏勧告の使者を明善寺城に送り無血開城を呼びかけるが、城方は降伏進めを拒否した。
根矢与七郎と薬師寺弥七郎は備中松山城に救援要請の使者を送った。
すると今度は、岡山城の金光宗高からお味方仕りますとの文が、三村元親に届いた。
その文には宇喜多直家の沼城への出陣の先陣を承りますとのことも書かれていた。
しかしその文は宇喜多直家と金光宗高が結託しての偽りの文であった。
それに勢いづいた三村元親は、隆徳に知らせないままに明善寺城救援のため出陣した。
三村勢の動きを聞いた直家は、直ちに明善寺城を攻め落とすよう下知を発し、明善寺城に大攻勢をかけ、瞬く間に落城させてしまった。根矢与七郎と薬師寺弥七郎は落城の時に討ち死をした。
宇喜多勢を挟撃するつもりでいた三村勢だが、直家の速攻により企てが頓挫してしまった。
そればかりか、裏切りの金光宗高の知らせで進軍した三村元親は進軍中、宇喜多の待ち伏せにあい、あわや全滅かと覚悟した三村元親は、宇喜多勢に対し最後の突撃を敢行しようとするが、諸将に諌められ撤退した。
運よく追撃はなかった。宇喜多直家は兵力が少なかったために、三村勢を追い込むことはなかった。
上野隆徳は元親からの百足衆の報告で三村勢が敗走していることを聞いて、元親救出に動くが戦場に間に合わなかったため、撤退した。
その後、両方とも戦力の充実に努めるため、しばらく様子見の時が経った。
隆徳は合戦の経緯を後から聞いて、大いに悔しがったが、後の祭りであった。
鶴君は合戦の経緯を隆徳から聞いて思った。
直家は梟だ‥それも策謀を張り巡らして、油断のできないそして卑怯で狡猾な悪梟だ。
留守の隙間
永禄十一年(一五六八年)秋霜の候
毛利元就からの要請で、三村勢は九州の大友勢との闘いに駆り出される書状が届いた。
毛利元就は天文二十年(一五五一年)には大内義隆を滅ぼした周防の陶隆房を、厳島の戦で破り、更に宿敵であった出雲の尼子氏を滅ぼして、安芸、備後、周防、長門、出雲、石見、因幡、伯耆の西国八ヶ国の盟主として君臨するまでになっていた。
又、毛利家を頂点として吉川元春と瀬戸の水軍を束ねていた竹原小早川家に、入り込んだ小早川隆景が、両脇から毛利家を支えるように、盤石の体制を敷いていた。
しかし巨大になった毛利元就に脅威を感じた九州の大友宗麟が、長門の国に攻めてくる気配を伺わせていた。
そのために毛利元就は、九州攻めを命じていた。
三村元親からの知らせで、常山城にいる隆徳には、三村元親及び親成が、軍勢三千名を従えて、九州に出陣することになったが、備中の留守居役を命ずるとのことであった。
元親は三村本家が備中を留守にすると、必ず宇喜多直家は攻めてくると読んでいた。
そのための知らせを、信頼する隆徳に出していた。
文を受け取った隆徳は、鶴君のいる間に向かった。間では鶴君が菊姫と国姫に篠笛の調べを教えている所であった。
間に入ってきた隆徳の引き攣った顔を見て、鶴君はまたもや出陣かと心に思ったが、隆徳の発した言葉を聞いて、更に不安が広がった。
「兄者からの知らせで、三村本家は毛利元就さまの下知で九州に出陣だ。よって我らは留守居役を命じられたので、これから合議するために直ちに松山城に参る」
そう言い残して、鶴君のいる間を飛び出した。隆徳は駆けるようにして本丸屋敷を後にした。供周りの侍だけを引き連れて、馬場から馬に飛び乗って松山城に向かった。
常山の木々の紅葉も終わりを告げて、頂から山裾に至るまで落ち葉が、山肌一面に落ちている。これからの冬の到来に向けて、山は色とりどりのガラ模様の衣を羽織っているようである。
鶴君は本丸の土塀から覗き込んで、隆徳の後姿を見ていた。そして思った。
―必ず宇喜多直家は、三村本家の留守を狙って攻めてくる。
三日ほどして隆徳が竹蔵と二代目竹蔵を連れて常山城に戻ってきた。
「お帰りなさいませ」
鶴君は本丸屋敷の式台から隆徳を出迎えた。隆徳の後ろから竹蔵が付いて来るのを見て声を上げた。二代目竹蔵の後ろには思いがけない者もいた。
「竹蔵‥久しいな‥それに二代目の竹蔵も‥その上に草まで」
竹蔵は鶴君の姿を見て、微笑んだ。二代目竹蔵は頭を下げていた。草は久しぶりに会った鶴君に笑みを浮かべていた。
「首尾はどうでしたか?」
式台に腰を置いて盥の水で足を焦っていた隆徳に、背中越しに問うた。
隆徳は無言のまま頷いた。
「では‥殿」
鶴君は疲れた様子の隆徳に、やさしく囁くように言った。
隆徳は大広間に着座した。
「鶴‥元親殿と親成殿は松山城から出陣をした。率いる軍勢は凡そ三千。三千の兵たちは精鋭の者達だけに、留守が心配だ‥これからが大変だ‥儂は備前の地の宇喜多との国境に出城を築く‥必ず宇喜多が動く。それから竹蔵‥沼城の動きは怠りなく探れ‥」
隆徳の言葉に竹蔵と二代目竹蔵が頷いた。草は鶴君の隣に腰を下ろしている。
鶴君は隆徳の瞳を見ながら、腹をポンと叩いた。
「殿‥私も」
隆徳は怪訝な顔を見せた。何事を言い出すのか鶴は‥そんな顔をしている。
鶴君は言葉を継いだ。
「私は女たちだけで組を作ろうと思っています」
隆徳は鶴君の言葉を聞いて苦笑した。そして竹蔵の顔を見た。草は笑っていた。
「鶴君様‥幾らなんでも‥」
竹蔵は困惑した口調で鶴君の瞳に訴えた。
「心配いたすな‥竹蔵‥殿の留守の間は、私に任せなさい」
鶴君の自信たっぷりの言葉に二人はふたたび苦笑した。
しばらくすると真顔になった隆徳が言葉を発した。
「竹蔵‥それと元親殿の留守中の松山城の様子も探っていてくれ‥宇喜多直家は相手の懐をかき乱す‥裏切り者が出ないように手配を頼む」
竹蔵は隆徳の話しに、考えられることだと思ったのか、唾をごくりと呑みこんで首を縦に振った。
「承知しました。里の者を松山城にも潜らせておきます」
隆徳は言葉を継いだ。
「儂は、宇喜多直家の抑えとして備前の地に出城を築くが、しかし、竹蔵、備前の長船の福岡を宇喜多直家に取られたのは痛いの」
「そうですね。長船の福岡は鉄砲と刀の鍛冶場でありますから。では、早速、里の者を手配しにまいります」
竹蔵と二代目竹蔵は常山城を後にした。草は鶴君の傍にいるために常山城に残った。
隆徳が懸念した通り、宇喜多直家が動いた。備前の軍勢八千あまりを引き連れての備中攻めの出陣である。
宇喜多直家の居城である沼城からの出陣の触れが出た時に、竹蔵の里の者から竹蔵を通して隆徳に知らせが入った。そして同時に松山城に大手門の門番足軽として潜んでいた竹蔵の手の者からも、松山城の留守居役である城代の加納孝信宛てに、密書が届いたのを知らせて来た。
隆徳は鶴君のいる間に向かった。密書のことを届けた竹蔵も後に続いた。
鶴君を前に、後に控えている竹蔵に向かって隆徳が言葉を発した。
「やはりな、竹蔵すまぬが、自身で九州にいる三村元親殿と三村親成殿に早馬を走らせて知らせてくれ。それから松山城に潜入している者たちには、そのままでいるように。加納孝信が裏切ったら殺せ。但し、我らが攻めた時に」
隆徳は、備中松山城にいる元親殿の母君と女房殿と嫡子の小十郎殿の身を、どうするか案じた。
「鶴君、実は松山城にいる母君と女房殿と小十郎殿が危ない。三人を手引きして、この常山城に引き取りたいのだが」
鶴君は隆徳の話を瞬時に理解した。
「殿‥では、まだこちらの動きは伝わっておりませんな」
隆徳に念を押した。
「今はまだ加納孝信も動かんであろうが、直家が出陣すると態度をはっきりさせるはずだ」
鶴君の顔が引き攣った。そして唇を噛んで隆徳に言った。
「わかりました殿、松山城に行って、母君と義姉上様と小十郎を何らか理由を付けて、ひき取ってまいります」
「そうしてくれ、くれぐれも用心して。儂は宇喜多直家の備えを行う。そして備前の出城は、ひき上げをする。元親殿と親成殿が帰るまでは、何としても宇喜多をくいとめねばならぬ。籠城も覚悟だ」
鶴君と草は、幾人かの侍と迎えの籠を伴って松山城に行き、母君と姉上と小十郎を兄上様が居られぬので、さびしい思いをされている。常山城にしばらく遊びに来てもらうと、留守居役の加納孝信に、告げて無事に引き取った。
隆徳は籠城の準備に余念がなかった。
倉敷の土豪である太田道長を鷲羽山に待機させ、常山城に殺到する宇喜多勢を、挟みうちにする軍略であった。
隆徳は主だった家臣を呼んだ。
「城の周りの木々は全て倒せ、そして見通しが良いようにせよ。どんな石でも、大量に城に入れておくように。そして、常山の麓にある竹林の竹は、全て切って城に入れるように。
又、兵糧はすべて城に蓄えるように。そして一番大事なことは、百姓を含め、女子供とも城の周りの民は城に入れろ。宇喜多の雑兵の乱取りを防ぐ」
隆徳が家臣たちに籠城の段取りを行っている時、宇喜多直家が居城の沼城を出たことが、竹の里の者から知らせが入った。
そして、宇喜多勢の半分は、三村勢の支城と松山城に、半数の四千名はこの常山城に向かっていることの知らせが入った
「急げ、宇喜多は明日の朝にも常山城に来るぞ。太田道長に使いを出せ、隠し山として鷲羽山に兵二千名を配置させろ。時を見て宇喜多勢を挟みうちにしてくれるわ。合図は、狼煙を上げる。そして鶴君を呼べ」
鶴君が隆徳の陣頭指揮をしていた北二の丸に着くと、隆徳は闘志を剥き出しにした額に、青筋を浮かせて言った。
「鶴君、宇喜多勢が四千名こちらに向かっているとの知らせが入った。今、民たちを含めこの城には二千名が籠城する。飯の焚きだし等忙しくなるぞ。女たちをまとめてくれ」
鶴君は瞳を輝かせて、隆徳に力強く答える。
「喜んで‥」
鶴君と草は目で合図をして、下がった。
急遽、常山城では木の塀等に、敵からの火矢を防ぐため泥を塗った。
そして、石、切り出した木材を塀の外にまとめて置いて、何時でも城から落とせるようにした。それから、竹槍を作り、各曲輪群に配置した。
馬場と馬洗池には、騎馬侍を配置し、何時でも敵に突撃する段取りを終えた。
「これでよし。後は、宇喜多勢が攻めてくるのをひたすら持ちこたえて、元親殿の九州から引き返す援軍を待てばよい」
翌日の朝、宇喜多勢四千名が、常山城に殺到した。常山の山麓の四方を何重にも取り囲み、蟻一匹通さない陣営を敷いた。しばらくすると武家地を含めて商小屋が軒を連なっている場所から火の手が上がった。
人一人いない商い小屋に、火の手が上がった。宇喜多勢が町に火を点けた。
「宇喜多直家、がっかりしているだろう。無人の町に火を点けてうさばらしか」
隆徳が本丸の土塀越しに麓の火の手を見ながら傍にいる鶴君に囁いた。そこに、松山城に潜んでいた竹の里の者が、宇喜多の陣営の隙を狙って城に入った。そして隆徳と鶴君に、
「加納孝信が松山城の門を開門し、宇喜多勢を城内に入れております」
隆徳は唇を噛んだが、その顔の表情はすっきりとしている。
一言呟いた。
「やはり‥」
隆徳は鶴君の顔を見て、やれやれ間に合ったと言葉を継いだ。
「三人を引き取ってよかったの‥」
隆徳が鶴君に、更に言葉を継いだ。
「明日、一気にかたをつける」
宇喜多勢が、四方から常山城に向かって、よじ登ってきた。城に通じる道には宇喜多の騎馬侍が駆けてきていた。
隆徳は大声で城内のすべての者に聞こえるように下知をした。
「引きつけろ、引きつけて一気に叩き潰せ。そして狼煙を上げろ」
山頂にある城から二十間は、木々を全て刈り取っていたので、宇喜多勢の見通しは、隆徳方は手に取るようにわかっていた。
宇喜多勢が城の手前に来た時、城から、狼煙が上がったのを合図に、一斉に木材と石が転がされて宇喜多勢の頭上に降りかかった。その上に落ち葉が積もっているためか、水を含んだ落ち葉を踏んで、足を滑らせて山坂を転げ落ちる者が数多くいた。
鶴君も竹の里で菊蔵が作ってくれた裏重藤と呼ばれる弓矢で、土塀の上から宇喜多勢を狙い撃ちにした。
白額当てを額に巻いて、家親の今は形見となった裾素懸威胴丸の甲冑を着て、眼は敵を睨みながら、長い髪を振り翳して弓矢を射った。
一時して宇喜多勢の陣営から法螺貝が鳴った。総攻撃の合図だ。
案の定、宇喜多勢が総攻撃をかけてきた。
隆徳が再び大声で命じた。
「全員、弓を射よ。種子島を撃て」
女たちも表門から二の丸を含めてあらゆる丸の土塀の傍で、男たちの手助けをしている。
ある者は種ケ島の玉を筒先から入れて侍に渡していた。ある者は矢を次から次へと渡している。そして小粒ほどの石を手にもって、敵の頭上に向けて投げていた。
女たちも戦をしている。女たちにしかできない戦を‥
宇喜多勢の頭上に、限りなく矢と種子島が降り注いだ。
半刻程すると、城の石垣の下は宇喜多の者たちの屍が山となっていた。
「よし、討って出よ。もう少しすると、太田道長の軍勢が宇喜多勢を挟みうちにする。法螺貝を吹け」
隆徳は、法螺貝の音と共に、真っ先に飛び出した。侍たちが後に続き、騎馬侍も馬場から出撃した。侍たちの後ろからは、足軽、そして百姓が竹槍を持って続いた。
宇喜多勢は、大混乱に陥り、山の麓まで我先に敗走した。
そこに大田道長の軍勢が、駆け付けて逃げる宇喜多勢を追い詰められていった。
隆徳が本丸の土塀越しに見ていると、宇喜多勢は浮足立って敗走を続けた。
「よし、これで勝負は付いた」
隆徳は、返り血を浴びて、血みどろになった姿で満足げに仁王立ちしていた。
鶴君たちは、宇喜多勢の内、意識があった者は手当てをする。又、城方の損害は、ほとんどなかった。宇喜多勢が残していた荷駄隊の兵糧は、家を焼かれた者達に分け与えた。
木枯らしが吹き荒ぶ中で血汐の匂いが、充満している。と同時に風に乗ってその場にいる者たちに、強烈な臭いをまき散らしていた。
宇喜多兵の遺体は、負傷した者と共に荷車に乗せて返した。
戦いの後片付けの一切を、鶴君たち女子が、血汐に混じりながら行っていた。
生暖かい甘い匂いの血潮の臭いが、鶴君と草を襲っていた。
鶴君と草が、口に手拭いを巻いて、宇喜多の足軽の遺体を荷車に乗せた時に、隆徳が近づいてきた。
「鶴君、御苦労である」
隆徳が鶴姫にやさしく言うと、鶴君は汗と血に塗れた額を手の平で、やさしく拭きながら答えた。
「殿、この度の合戦は、われらの出る幕はございませんでしたが、今度からは女たちだけでも出陣いたします」
鶴君は隆徳に改めて、願いを申し出た。
「そうか」
隆徳は笑みを浮かべて一言呟いた。
常山城の合戦が終わって、数日が過ぎた頃、竹蔵が帰ってきた。足取りは軽い。長旅に疲れた様子は見えない。
「殿、三村元親殿と三村親成殿が、帰りますぞ。又、毛利も元就公、自ら出陣されるとの事。総勢二万もの軍勢で宇喜多を討つとの事で有ります」
隆徳は、竹蔵の話を満足げに聞きながら、口を開いた。
「竹蔵、松山城に潜ましている者に、攻撃を開始する時に加納孝信を殺させ。よいな。それで、援軍はいつ頃になるか?」
すると竹蔵はすぐさま答えた。
「すぐとの事。そのために、九州の大友宗麟との手打ちを行われまして、憂いのないようにされての御出陣と聞き及んでおります」
「そうか、では宇喜多を追い詰めることができるな」
「御意」
毛利勢は、二万の大軍で備中に向けて進軍してきた。
毛利元就は、備後の鞆の津にいて、毛利軍の全体の指揮をしていた。
そして、毛利軍を二手に分けて、本隊は、三村元親と三村親成が案内役の先陣で、吉川元春が総大将で備後の神辺から兵一万五千を率いて、成羽の親成の居城であった城を奪還した。
そのままの勢いで、備中松山城に殺到した。時を同じくして、竹の里の者が松山城内で加納孝信を暗殺した。そのために、松山城はすぐに落ちた。
吉川元春が率いている軍勢は美作に進み、宇喜多勢の勢力を駆逐した。
更に毛利の別働隊は、五千名の兵と小早川隆景を将として上野隆徳と共に、備前に侵攻した。
しかし、宇喜多直家が頑強な抵抗を示したので、備前で戦線は膠着する。
備中、美作が、三村家、上野家の領地となり、備前は宇喜多直家の領地としての日々が過ぎていた。
三村元親は、奪回した備中松山城を改修して堅固な城とする。
「母上、それでは」
鶴君は三村元親が奪回した備中松山城に母と義理の姉、小十郎を帰すために、元親が寄越した侍たちを前に別れを告げた。
その頃、織田信長は天下布武への大義名分として足利義昭を奉戴し、上洛を開始していた。織田信長の躍進が始まったばかりの頃であった。
しかしまだ織田信長の台頭を許さない勢力が暗躍していた。甲斐の武田信玄 上越の上杉謙信 越前の朝倉義景 比叡山の僧兵 浪速の石山本願寺 南近江の六角義賢などである。
隆徳はというと、備前に出城を設けて腹心の家臣に城代をさせて、領内の使置きに没頭していた。
そのため統治も、順調であった。
およそ、そのような平穏な日々が三年ほど続いたある日、毛利家の当主であった巨星が亡くなった。
毛利元就が没した。そのために毛利家は跡取りの隆元が没していたために、元就の孫である輝元が相続していた。その輝元を支えるように吉川元春と小早川隆景が、毛利家の舵取りを行うことになっていた。
裏切り
元亀四年(一五七三年)盛夏の候
本丸屋敷の庭にいた鶴君付の侍女シズが、顔色を変えて鶴君のいる間に現れた。竹蔵が至急に御目通りしたいとのことを伝えにきた。
鶴君は急いで玄関に向かうと、息絶え絶えの竹蔵が目だけを光らせて土間に座っている。息はゼイゼイと激しい。
「竹蔵‥どうした?」
漆黒の闇が訪れようとしていた刻に、山麓にある追手門に二代目竹蔵が、顔色を変えて辿りついた。油蝉がジイジイとなっている山道を必死で駆けていた。沼の城下から休むことなく駆けてきていた。山頂の表門に着くと、門番侍に頭を下げて本丸屋敷まで辿りつく。
そして式台の前の土間に倒れるように座った。
「鶴君様‥殿は?」
「殿は居られぬ‥たった今松山城に向かわれた」
鶴君が竹蔵に言うと、頭を左右に振った。困った様子だ。しばらく塞ぎこんだ。
「どうした‥竹蔵‥何か困ったことが起きたのか?」
竹蔵は意を決した顔つきで鶴君に声を出した。
「鶴君様‥実は‥昨夜に沼城の門番足軽として潜り込ませた者から、知らせが入りまして」
そこまで行って口を閉ざした。そして大きなため息を漏らして言葉を継いだ。
「その者が申すのに、身分を伏せているが、どうも安芸の国の訛りの方言で話をしていたと申します」
鶴君は竹蔵の話に怪訝に思った。
―安芸の国の訛りの方言とは毛利だが‥解せぬ。毛利の者がなぜに、敵の宇喜多直家の元に‥
「竹蔵‥それでこれからどうする‥お主は少しばかりこの屋敷で休むが良い。殿には留守居役の左衛門の手の者に早馬で知らせる」
鶴君はそう言って、竹蔵の肩をポンと叩いた。竹蔵はその場に控えていたシズの後に着いて屋敷に入って行った。
「ミツ‥すぐに左衛門を呼んでくれ‥殿に知らせる必要がある」
ミツに命じて、左衛門に文を渡して、隆徳の後を追わせた。竹蔵は次の日に鶴君から命じられたことをするために、沼城の城下にある竹細工の店に向かった。
二日ほどして隆徳が常山城に帰城した。と同時に竹蔵も再び姿を現した。
「鶴‥文を受け取った。そのことは間違いないか?」
隆徳は解せんとした顔を見せながら、鶴君の間に姿を現した。すると屋敷の賄場で一足先に着いて休んでいた竹蔵が、長廊下に控えた。
隆徳は竹蔵に向かって声をかけた。
「竹蔵‥新たに何かわかったか?」
すると畏まったままの姿の竹蔵が口を開いた。
「殿、間違いはありませぬ。毛利と宇喜多で誓詞を交わしたとの事。懇意にしている馬廻りの侍から聞き申しました。毛利の小早川隆景殿と宇喜多直家は釣るんでおります。織田信長と結んだ浦上宗景を、ここぞとばかり宇喜多が追い出したことが主な理由であったらしいです」
竹蔵が詳しく告げると、
「竹蔵、直ちに再び備中松山城に行く。元親殿は城に居られる。先に行って、成羽の親成殿にも伝えてくれ。由々しいことだ」
隆徳の顔は引き攣っていた。怒りに燃えた隆徳の後姿を鶴君は見送った。
備中松山城に三村元親と親成と隆徳の三人が集まった。
それから数日して隆徳が帰ってきた。そして元親と親成と隆徳の三人で内々に密議を行い、ことの真相を毛利の吉川元春に問いただすことにしたと鶴君に述べた。
「では‥殿‥もしそのようなことが事実であればどうなさるおつもりが?」
鶴君が隆徳に問うた。しばらく腕を組んで考えていた隆徳は、眼をカッと開き呟くように口を開けた。
「小早川隆景はゆるせん‥宇喜多直家と同じ匂いがする男だ。元就公が生きていれば、そのようなことはしないはずだ」
その顔は許しがたい者だと言わんばかりの思いが、滲み出た険しい表情を見せた。
それから一月ほど経った日に、松山城からの元親から文が早馬で届いた。その文には、
「元春殿は、反対であったが、隆景が内密に事を運んだらしい。誓詞を交わした後に、元春殿に伝えたらしい。元春殿からは拙者に謝った内容で。耐えてくれと。毛利が三村家に対して義を欠いた事は良く分かっている。そして、さらに元春殿は必ず宇喜多直家は毛利を裏切るであろう。その時は、隆景も輝元も間違いに気がつくであろう。その時まで耐えてくれと」
隆徳が鶴君に文の文言を聞かせるべく声を上げて読んでいる時に、本丸の庭の松の木に留まっていた油蝉が、ジイジイと大きな声で鳴いていた。
黄昏闇が近づいているのを、西の空いっぱいに広がる茜雲に表れていた。入道雲が隠れようとしている。闇が静かに訪れようとしていた。
鶴君はこれからの時代の波に翻弄され始めてきた常山城のことを憂慮していた。心の中で得体のしれない不安が、持ち上がってきていた。
天正三年(一五七五年) 残寒の候
織田信長は、長篠合戦で武田信玄亡き後の武田家を継いだ武田勝頼と闘って破っている。
徳川家康と組んで、いよいよ天下布武の偉業を達成すべく浪速の石山本願寺に十万もの大軍で攻めていた。又、北陸では、柴田勝家を派兵し、羽柴秀吉を応援に行かせていた頃であった。備中松山城の三村元親の元に、その織田信長の手の者から密書が届いた。
―我に味方すれば、備中、美作、備後の領地を与えると‥
元親は直ちに、三村一族の招集を図った。元親の叔父である成羽城の三村親成と嫡子親宣。元親の妹婿である上野隆徳。備中の国人であり、三村家の家老の石川久智。石川久智の娘婿の備中高松城の清水宗治。元親の弟で備中新見城の三村元範。三村家の重臣であった備中総社城の城主川西三郎左右衛門之秀。三村一族の主だった者たちである。
一同が会して、松山城の本丸の大広間に集まった。鶴君は隆徳からこれからの三村家の生末をする席であるのでとして、同行を求められてさらに末席に同席を許された。軍議の席に女が同席することは、汚れるとして乱世の世では許されないことであったが、三村家の行く末を合議する場であるためか、男勝りの鶴君が同席することは、兄元親をもとより親戚一同、家臣一同は承知していた。
その席で元親が、黙って織田信長からの密書を皆に見せた。一人一人が回しながら読んでいく。読んだ者は一様に驚いた顔をしている。
「これは」
皆一同に、驚いた。
「この書は本物だ、信長公の花印も押してある」
元親が得意げに答えた。
元親は天下を揺るがしている織田信長自身の書が、自分の元に届いた事が嬉しかったのと、毛利が宇喜多直家と同盟を結んでからは、毛利に対して遺恨を持っていた。
すると、成羽の三村親成が、口髭を揺らしながら問うた。
「しかし、信長は武田勝頼に長篠の合戦で勝ったとはゆえ、甲斐の国の平定はまだだ。当分の間は、この西国には来ないぞ」
険しい形相で言った親成の言葉が終わると、家老の石川久智が口火をきった。そして親成の顔を睨んで言った。石川久智は隠居の身ながら元親の後見役として、何かと親身になって支えている者だ。
「しかし来ないのに、こんな文を出すことはない。浪速の石山本願寺を十万もの大軍で、包囲しているとのこと。たかが本願寺一城に対して十万もの大軍を派兵できる織田信長は、並の大名ではござらぬ」
すると親成が石川久智の言葉が、終わるか終らないかの時に、口を再び開いた。
「しかし、織田信長と組めば、毛利とは手わかれとなるのは必至だ。儂は反対だ」
親成が憂鬱な顔で荒々しく語尾を強めて言った。しばらくその場に重苦しい空気が流れていた。
その時に清水宗治が声を上げた。
元親の方に顔を向けて確かめるように言った。
「疑うわけではござらぬが、その密書、宇喜多直家の策略ではありませぬか。直家だと、平気でそのようなことはしますぞ。花印等勝手に偽造することぐらい朝飯前でござろう。
直家は、我が三村家にあらぬ疑いを毛利に持たせて、毛利の手で我らを亡き者とする魂胆ではなかろうか?」
清水宗治の言葉を聞いて、上野隆徳が膝を打った。
「では拙者の手の者たちに織田家へ出向かせて確かめてまいります。そのついでに、上方の情勢等探索させてきましょう。織田殿への返書はその後でよろしかろう」
元親は弱弱しく首を縦に振って言った。
「では隆徳殿‥頼む」
元親が言葉を継いだ。
「この密書が本物であり、織田殿が西国に出陣を控えていたら、皆どうすれば良いか?」
鶴君は元親が三村家の重臣たちの顔色を見ながら、話をする優柔不断な元親の態度を、腹正しく思ったが、黙って口を閉じていた。
すると上野隆徳が、大きな息を吐いて、語尾を荒げて言った。
「その時は、毛利と宇喜多への遺恨を晴らす時でござる」
上野隆徳の最後の言葉に三村親成と嫡子親宣と清水宗治は、黙って聞いていた。
鶴君は重苦しい空気が支配する席では、黙って武将たちの言動を、冷静に聞いていた。
ふと頭を上げて大広間に続く庭先の空を見上げた。日輪が顔を見せていない。昼時だと言うのに、薄暗い空が広がっていた。更に一雨が来そうな雰囲気がしている。影が忍び寄ってきている。威勢の良い隆徳の言葉と裏腹に、天気はどんよりとした冬の気配が支配していた。
常山城に帰った上野隆徳は太田道長を城に呼び出して、松山城の合議の内容を話して、頼むように頭を下げた。
「すまぬが、太田道長、京洛に行って織田信長殿に会ってくれ。そして親書の確認をしてくれ。又、織田勢の力を見てきてくれ‥」
太田道長は京洛へは瀬戸の海道を行くこと決めていた。そのために下津井港から船で行くことに決めて、鷲羽山城から旅立った。供をする者は近習の者一人である。目立たぬようにとの隆徳からの命に従っての旅立ちだ。
それから、約二ヶ月した春陽の候の頃に大田道長が帰ってきた。桜が常山城を薄い紅色で覆われた候である。太田道長が城に顔を出したのは、隆徳と鶴君が夕餉を食していた刻である。
大田道長が帰ったとの知らせが届いたために、隆徳と鶴君は急いで大広間に向かった。
大広間で一人だけ旅装束のままに太田道長は畏まっている。
「ご苦労であった」
隆徳は太田道長に旅の慰労の言葉をかけた。そして目の前に腰を下ろした。鶴君は隆徳の横に正座した。
太田道長は隆徳に言った。その顔は体全体に喜びを秘めているように、元気な口調であった。
「間違いはございませんでした。確かに、織田信長様の直筆でございました。近従の森蘭丸様を通じまして直接お会いしました。織田殿は京洛のお屋敷に居られました」
隆徳は親書が本物だと言う太田道長の言葉に満足げな顔を見せていた。
「そうか。して、どのような人物か?」
「普通の人物ではござらぬ。まるで、神の如くであります。天下布武の味方をせねば、滅ぼすとの事。目をしっかり開いて天下を見ろとも毛利など、所詮は田舎大名である。織田の敵ではないわとおっしゃいまして、手土産に愛用の太刀を頂きました。三村元親殿に渡せと‥」
隆徳は一言呟いた。
「そうか」
更に太田道長は、言葉を継いだ。
「織田軍団の実力は,われわれとは天と地ほども違いますな。我々みたいに兵の闘いを田植えや稲刈りを考えて行うのではなく、常に闘いがいつでもできる軍団で有りますし、種子島の数は比べようがないほど有しておりました。その数一万挺とも」
大田道長の言葉に隆徳は、呆れた顔をした。
「一万挺―、すごいの」
太田道長が少し考えた素振りで言った。
「しかし、殿、織田殿が西国に出陣の時期は多分まだ先でしょう」
「そうか、いつごろか?」
「早くても一年後かと」
「織田殿は、西国へは猿に任せると」
隆徳は猿と聞いて、すっきりとした瞳を泳がせた。
「なに、猿に軍団を任せるのか」
あまりにも隆徳は驚いた表情をしたので、大田道長は笑いを堪えながら答えた。
「猿殿と申しまして、織田家中一番の知恵者でござる。名は、羽柴秀吉様と申されて、連戦連勝の武将でござる」
「そうか、儂はまた猿に指揮をとらせるのかと」
隆徳は胸を撫で下ろした。
「殿、そのようなことはございません」
太田道長は苦笑しながら答えた。
「しかし太田道長、そなたの話を聞いていると儂には想像さえできぬ。織田信長と言う男は」
一刻の間、黙って腕組みをしていたが、言葉を継いだ。
「では早速、元親殿に伝えよう。お主も松山城に同席してくれ」
二人の話に、この備中の地も天下の情勢でことが進むのかと、想像さえできぬ事態に鶴君の心の中が騒いだ。
松山城の合議では三村家は毛利家と手別れして、織田信長と組みことを決めた。織田信長に三村元親の名で返書を出した。返書に名を連ねた者は、上野隆徳 石川久智 三村元範 川西三郎左右衛門之秀であった。清水宗治は石川久智の娘婿にも関わらず署名はしなかった。三村親成と親宣も署名は避けた。
落城前夜
天正三年(一五七五年)新緑の候
年老いて腰が曲がった竹蔵と二代目竹蔵、そして草が常山城の表門に姿を現した。そして三人の後を、十数人の若者たちが続いている。皆が当世具足に身を包んでいた。竹蔵も当世具足の上に、少々草臥れて色落ちがしている陣羽織を羽織っていた。
門番侍の知らせで表門まで鶴君は急いで向かった。
「竹蔵‥どうした‥それに草まで」
竹蔵たちは表門の前に胡坐を掻いて土の上に座っている。鶴君は竹蔵に腰を落として聞いた。竹蔵は畏まったまま。眼だけをぎょろりとさせて鶴君を見つめた。
「鶴君様‥このたびの戦は、尋常な戦ではないと思いまして、少しでもお役に立てればと思い、里の者達を連れてまいりました」
竹蔵の言葉に鶴君は息を呑んだ。
―この戦は勝ち目のない戦になるというのに、あえて死出の戦に身を投じるとは‥
「竹蔵‥お前たちを巻き込むわけにはいかぬ‥」
鶴君は竹蔵たちの気持ちを察して、胸が熱くなって、自然と瞳に涙が溜まっていた。
「竹蔵‥それに草‥お前たちはそれほどまでに、私たちのことを‥」
ようやくの思いで、言葉を発したが、首は横に振った。それも何度も何度も‥
「だめだ‥お前たちを死なすわけにはいかぬ‥それにここで死んでしまったら、里はどうなる?気持ちはわかるが引き返せ‥」
鶴君は語尾を強めて言った。
しかし竹蔵たちは動かない。黙って座っている。午過ぎの陽が燦々と照っている。竹蔵たちの横では、表門に兵糧を担いできた者たちが殺到していた。竹蔵たちの場所だけ刻が止まったように静かな空気が流れている。
鶴君は座り続けている竹蔵たちに向かって、声を上げた。
「良いな‥里に帰れ‥」
いつまでの帰ろうとしない竹蔵の耳打ちにそっと、言い残して表門から本丸に向かった。
しばらく本丸屋敷の賄場で、兵糧の炊き出し、そして蔵への兵糧の備蓄などの采配をしていたが、薄暗くなった刻に気になって表門に向かった。
竹蔵たちは漆黒の闇が訪れた刻になっても、一塊になって座っている。
鶴君はその風景を瞳の奥に焼きつけて、大きなため息を吐いた。
「竹蔵‥草、いいか、今まで親しく付き合ってきた。しかし、竹蔵、草、それに里の者達を死なすわけにはいかん。どうしても言うのであれば、皆にしかできないことを頼むしかない」
すると暗がりの中で竹蔵たちの目が光った。そして草は泣き出した。
草は鶴君の言葉を聞いて、大声で声を上げた。その言葉は力強い。
「鶴君様、何なりと草は、命がけでお使い申します」
草の顔をしげしげと見ていると、心に込み上げてくるものがあった。
鶴君は表門に向かった。竹蔵を先頭に竹の里の者たちが続く。里の者たちは本丸の冠木門の下に集まった。これから自分たちの役割を話し合った。
騒然としている城内では侍たちがそれぞれの役割を担っていた。
漆黒の闇にも関わらず、篝火を焚いて城の石垣の下の坂面では、百間ほどは、改めて前回の宇喜多軍の城攻めの時から、伸びている木々を倒して、原っぱにしている。侍たちは総出で、裸になって褌一枚で動いていた。
土塀越しに侍たちの姿を見ながら、鶴君は屋敷の奥にある賄場に向かった。すると賄場の格子窓からは、炊き出しの白い湯気が盛んに出ている。女衆は炊き出しに余念がない。
賄場の戸を開けると、女たちは鉢巻をして、白襷を肩にかけて働いていた。城にいる者たちは籠城の為の備えに没頭していた。
木々を倒したためか、それとも城内の騒然とした騒ぎに恐れをなしたためか、この候に、油蝉の鳴き声はない。風が澱んでいるために、皮膚の下から汗が湧き出ている。手拭いで額を拭きながらいると、そこにミツが鶴君を探しながら現れた。
「鶴君様‥殿がお呼びでございます」
頷いて、土間から長廊下の框に脚をかけた。長廊下を行くと、庭が見える間に隆徳と太田道長が、揃って当世具足に身を包んで胡坐を掻いて座っている。
鶴君は隆徳の横に腰を下ろした。
隆徳は向かいに座っている大田道長に、静かな口調で口を開いた。
「上野の領地には、全部で七つの出城がある。存じておろうが、一つの城に百名の兵を配置してくれ。もし、出城が囲まれたら、急いでこの常山城に逃げてこい。決して、討ち死にはしてはならぬぞ。特にお主は‥」
大田道長は隆徳の言葉に頷いた。討ち死の腹が決まったのか、それともひと暴れできるのがうれしいのか真摯な顔付きだ。
言葉が終わった時に城代の大島文衛門が同じく当世具足で現れた。
「今回の籠城は、今までの宇喜多との戦での籠城とは違う。援軍が望まれない籠城は、最後を覚悟した者たちだけだ。よって、前回は百姓たちを城内に入れたが、今回は入れるな。死を覚悟した侍だけで闘う。よいな」
大島文衛門も頷いている。その顔も太田道長と同様に、すっきりとした顔をしていた。
隆徳は顔を顰めて呟いた。
「松山城は鶴君もわかっていようが、山が連なっている。よって逃げることは容易だ。又、籠城しても堅固な城であるので容易には落ちぬ」
隆徳が更に忌々しく言葉を継いだ。
「我が方は、出城の兵を合わせて千八百名か。それでは、これからの段取りを言う。
太田道長は、各出城において出来るだけ敵兵の死傷兵を増やせ、もし、出城がもたないと思った時は、引き揚げてこの常山城に逃げてまいれ。逃げてきた者が来た時は、城から討って出ておびき出す。その時に城に入れ」
隆徳の言葉が終わった時に、庭に土煙を上げて百足衆が駈け込んできた。松山城からの知らせを伝える者だ。
「小早川勢四千‥それに三村親成の兵千‥松山城を取り囲んでおります」
鶴君は百足衆の言葉に、この常山城にも小早川の軍勢が押し寄せてくる。心が凍った。
松山城での三村一族の話し合いが凭れた後に、成羽の鶴首城の三村親成は、三村元親から離反して、毛利家に帰順した。そしていち早く小早川隆景の居城である安芸の国沼田の新高山城に知らせを入れた。
その結果、小早川隆景の配下の安芸国人衆の浦宗勝が、軍勢四千余りを引き連れて、三村家討伐の軍を起こした。先陣は兵力千名を引き連れた三村親成であった。総大将の小早川隆景は後詰めとして出陣していた。
隆徳は深夜にも関わらず、城内を隈なく見て廻っている。鶴君は寝床に付いていた。眼は床に寝ていても冴えている。そして庭に続く廊下の開いた障子の庭先を見ていた。篝火に灯された庭石が黒く鈍く光っていた。すると黒い影が動いた。思わず腰を上げて、布団の頭の上に置いていた刀を取り出して、声を上げた。
「誰じゃ‥」
鶴君の声に驚いて影は畏まった。声を出した。
「鶴君様‥起きておられましたか?」
聞き覚えのある竹蔵の皺がれた声が聞こえた。
「殿から‥先ほど松山城に出向いて、万が一にも城が落ちるようだと、元親様を落ち延びさせとの命で‥私はこれから小早川勢の取り囲んでいる松山城の囲みを潜って城に入ります」
鶴君は床から離れて長廊下に出た。屈んで竹蔵に言葉をかけようとしたら、竹蔵の後ろに何人かの者も控えていた。暗闇にひっそりと控えていた。
「そうか‥竹蔵‥しかし命は大事にせよ‥草も連れて行くのか?」
鶴君が竹蔵に問うと、竹蔵は首を横に振った。
「草は‥残してまいります。婿の竹蔵と一緒に鶴君様のお傍を離れません」
竹蔵はその言葉を残して、闇に消えた。
竹蔵が姿を消してから十日ほど経った日に、竹蔵は里の者達と帰ってきた。
その顔は幾分疲れてはいるが、元親を逃がす大役を無事終えた安堵した顔を見せていた。
隆徳と鶴君がいた大広間に、竹蔵が汗と泥に塗れた野良着を着て現れた。
「松山城が落ちました。松山城の北の丸を守っていた侍頭の矢形倉重が背いて、北の丸に小早川の兵を入れてしまった。元親様は討ち死にを覚悟されましたが、口説きましたところ思いとどまられまして、城を闇夜に紛れてどうにか脱しました。そして元親様を無事に新見城にお連れ致しました。それから取って帰って松山城にいた小早川の雑兵に、金子を握らせて問いただした処、小早川勢の浦宗勝という者が、母上様をご出身で有ります阿波の国にお連れ申されたとの事、聞き及んでおります」
鶴君の母は、阿波三好家から輿入れをしていた。
「では母者は生きておられるのか?」
安心した落ち着いた声で竹蔵に問うた。竹蔵は首を縦に振った。
鶴君は大きな息を吐いて腰を落とした。傍に座っている隆徳は呟くように言った。
「しかし‥新見城がいつまでもつか‥そうなるといよいよこの常山城に後十日あまりで攻めてくるな」
沈んだ口調の声が鶴君の耳に届いた。
十日ほど過ぎた常山城は異様な姿を見せていた。城の下では、真っ暗な闇の中に無数の篝火と松明が蠢いていた。普段はあたり一面は暗闇だが、小早川勢の大軍が押し寄せてきているため、小早川勢の焚く篝火は、常山の中腹まで広がっていた。一寸の隙もないように城を囲こみ、常山城の中腹まで攻めのぼってきていた。
その上、備前の宇喜多直家軍は総勢五千名が常山の裏手の海の浜に上がってきている。
瀬戸の海には宇喜多勢の舟の松明の火が、満ち溢れていた。鼠一匹通さないほどの松明の火が燃えている。松明に照らされて漆黒の海が不気味な光景を見せていた。
隆徳が太田道長に命じていた出城は、悉くに敵の手に落ちていた。
隆徳が竹蔵に問いた。
大田道長の安否を尋ねた。すると竹蔵は敵の目を潜って持ち帰った報を伝えた。
「何人かの組に分かれて潜んでいるそうです。今夜の内に城に潜り込むそうです」
「わかった。今夜、敵に夜襲を行う。竹蔵、大田道長に伝えてくれ。松明を振る。それが合図だ」
すると鶴君は、眼を輝かせて隆徳に迫った。
「殿。その役目。鶴に」
突然の問いかけに隆徳は首を横に振った。
「駄目だ。女に助けられたと知れば、武将として面子がない」
隆徳は言葉を無視するように、更に畳み込んだ。
「しかし殿。男衆は皆、持ち場がありましょう。その間に敵が攻めてこないとも限りません」
鶴君は、この時とばかりに引くことはしなかった。
隆徳が鶴君の問いに窮していると、城代の大島文衛門が、口を開いた。
「殿、鶴君様の言われることは無理のないこと。鶴君様、お願い申し上げる」
鶴君は隆徳の顔を見ながら、笑みを浮かべて言った。
「殿、では良いですか。女子衆で段取りはつけております。この常山は眼を瞑っていても、どこになにがあるかわかります。容易いなことでございますから」
鶴君の自信に満ちた言葉に、溜息をつきながら、しぶしぶと隆徳は首を縦に振った。
「わかった。しかし皆死んではならぬぞ」
その声は忍んでいるように聞こえた。
「草、殿の許しが出た」
鶴君は早速に女子衆に集まるように草に命じた。
本丸の庭に皆が集まった。
足軽の女房は小袖に具足を巻いて袴を穿いている者や、野良着の上に具足を穿いている者、なかには宇喜多の足軽から奪った陣笠を被った者など、それぞれが勝手な装束で集まってきた。
「これは母上様、そして菊」
その中には小袖に野袴を穿いた隆徳の母と同じように、小袖に野袴を穿いている菊姫の姿があった。
鶴君は、集まってきた者達をゆっくりと見回せた。
皆、悲痛さはなく、これから始まる夜襲に心躍らせている。躰から覇気が滲め出ていた。
―自分と草を入れて全部で三十四名か‥
「皆、弓矢と槍と刀を配る。草が用意した。暗くなったら、出陣だ。さあー草、皆に配ってくれ。弓矢は全員持つように」
草が納屋から出してきた武具が、皆の前に山積みとなって置いてあった。
草が大声で言った。
「それでは皆様、必要とする物を取って下され」
女衆は、それぞれ戦うことを忘れたかの様に騒ぎながら刀を腰紐に差している。
鶴君は、小袖に嫁入りに持参した裾素懸威胴丸の甲冑を着て、白の額当を巻き、襷を(たすき)架けて、背中には矢筒を背負い皆の前に立った。手には裏重藤の弓を持っている。
すると一斉に、女たちの声が響いた。おうーと叫んだ。
この有様を、他の侍たちと足軽たちが見ていた。
「いいぞ、フク」
喜作が大声で叫んだ。フクは野良着の上に具足を着けている。それも朱備の胴だ。
ふっくらした躰に具足を着けると、確かに頼もしい姿に見えた。
すると侍たちと足軽たちの男衆から、どっと一斉に笑い声が聞こえてきた。
女子衆たちからは、恥ずかしげな笑いが零れていた。
城方の全員が、緊張から解されて、久々の明るさを取り戻していた瞬間であった。
「では、各自、日が暮れたら、ここに集まってくれ」
鶴君が、目をきりりと引き締めて、皆に伝えた。
漆黒の闇が常山城に迫っていた頃、鶴君は竹蔵に言った。
「竹蔵、この城への登り道は二つある。本道は小早川の軍勢が塞いでおる。惣門丸の馬場に通じる獣道に我らは出撃し、火矢を放つ。敵をそちらに寄せ付けておく。その間、太田道長を含め、反対側にある本丸に続く逃れ道を辿って、出城の者たちを引き入れてくれ。
合図は、松明を振る。それと火矢を放つ。今夜は、月もない暗闇であるので、すぐにわかるはずだ」
「では早速、太田道長様の隠れている所に行き、手はずを整いて置きます」
竹蔵は夕闇に消えた。
「菊、離れずに傍にいるのじゃ。母上も」
鶴君は、菊姫と母お藤の方に、小声で囁いて、女たちを率いて暗闇の中を馬場に通じる道の端を降りて行った。
そして、小早川軍が篝火を焚いて、道を遮っている場所の手前まで来ると、窪みが左右に見えた。
左右の窪みに女たちを二手に分けて待機させた。鶴君の周りに腰を落として、皆が蹲っている。しばらく腰を落としてじっとしていたが、頃合いを見て鶴君が叫んだ。
「よし、皆、弓を構え。火矢を各自放て、力の限り火矢を放て」
火打石が打たれて、油が浸み込んだ松明に火が付いた。松明の火を、弓を構えている者達の矢の先に付けた。女たちの火矢が一斉に放された。
突然、暗闇から火矢が放たれたので小早川軍は、混乱しているのが鶴君には見えた。
篝火が小早川軍のいるあちこちから灯された。
「皆の者、続いて篝火のある所に火矢を放て」
すると小早川の陣営から、悲鳴と凍り付いた恐怖に怯える叫び声が立て続けに聞こえてきた。
「草、松明を振れ‥出城の者たちを城に引き入れる」
一時ほど女たちの火矢による夜襲が続いた時、突然に小早川の陣地で篝火が消えた。
篝火が城方の攻撃目標になっていることを、小早川勢が気付いた。
「よし、これで十分だ。各自、今度は火矢ではなく矢を放て。そして、五名単位で城に帰る」
今度は、小早川の軍勢は、真っ黒な闇の中から矢が飛んでくるので、矢を避けるために、伏せておくしか方法はなかった。あちらこちらを分別なく撃ちこんだ。飛んでいる矢の音が四方八方から聞こえる。
鶴君は敵の慌てた様子に、今までの幾分かの暗い気持ちが吹き飛んだ。
意気揚々と城の表門に帰った鶴君が、大声で女たちに向かって叫んだ。
「怪我や、撃たれた者はいるか?」
声がしない。しないということは皆が無事だったのか‥
皆が無傷であった。
その上に太田道長たち四十五名が、竹蔵の道先案内で獣道から城に逃げてきていた。
「鶴、でかした」
隆徳が安堵した顔で言った。
城の者たちは、鶴君たち女たちの働きに湧いていた。
その後、小早川軍からの攻撃もなくほぼ数日間は、何もなく過ぎていった。
「鶴、話がある」
隆徳が神妙な顔で鶴君を呼んだ。竹蔵の手の者からの知らせが隆徳に届いていた。
「鶴、心して聞け。備中新見城が落ちた。元親殿と小十郎が亡くなられた。弟の元範殿も‥」
鶴君は覚悟していたが、顔色が真っ青になっていた。
―おのれ、小早川隆景め―もともとは父の仇の宇喜多直家と手を組んだりしたのが始まりだ‥それにしてもどこまで我ら三村家を愚弄すのか‥その上に兄上を含め弟まで。
鶴君は拳を握りしめ、怒りに震えていた。
小早川勢に対して常山城に籠城する者二百名余りの心中はあまりあるものがあった。
鶴君はミツと一緒に庭に咲いている桜の木を見ている。常山城の桜は満開になっていた。
「ミツ‥この桜も‥」
鶴君が囁くように言うと、ミツは目頭を押さえて黙って佇んでいた。この春が最後の見所だと‥
鶴君は無性に桜の木に咲く花びらが哀れに感じた。二人が佇んでいるとミツの夫である塩出光洋が当世具足に身を包んで現れた。そして静かにミツの傍に立った。
「光洋‥」
鶴君は静かに佇んでいる光洋に向かって一言、名を言った。光洋は鶴君に会釈をして微笑んでいる。
「光洋‥お子は?」
ミツと光洋の心配しているこの行く末を述べた。
「鶴君様‥ご心配ございません。私の母者にもうすでに、このたびの戦の前に預けております。母者の元ですくすくと育つことでしょう」
光洋に変わってミツが桜の花びらを見ながら、囁いた。鶴君は黙って首を縦に一回だけ振った。
ミツの母はミツが侍女として松山城に上がってからも、幾たびか、松山城から五里ほど離れた村で取れた作物を城に届けていた。
子想いの母のようである。
三人は黙って桜の木の下で佇んでいた。
今年は特に夜になると昼間の温かさが嘘のように肌寒く感じ、城の本丸に咲いた桜が、風に揺られて、今にも散るようだ。
まるで今日まで繰り広げられた闘いが、別の世界であったかの様な錯覚を覚えるほどの静けさであったが、わずかに闘いで死んだ者たちの血臭が、風に乗って漂っていた事に現実であったことを感じさせていた。
唯一、城内から篠笛が聞こえていたのが、明日には起こる最後の決戦の兆しであることは、城方の者、攻める小早川勢共わかっていた。
篠笛を吹いている者は菊姫である。
そして菊姫の吹く篠笛の音は、城を取り巻く小早川軍の陣営まで微かではあるが、届いていた。
菊姫の篠笛が聞こえ出してからは、城方も小早川勢も信じられないぐらい物音ひとつ立てず聞き入れていたのであった。
城方では、百姓の喜作が足軽姿で、城の賄い場の片隅に座って、女房のフクに声を上げていた。
賄場で鶴君も小袖に袴を穿いて、女たちの炊き出しを手伝っている。竈の傍にいると喜作の声が聞こえて来た。
「フク、ほんとに良いのだな」
フクは、喜作の問いかけに、大きく息を吐いて答えた。
「あんた、あんたが殿さまと一緒に闘うと言った時から、覚悟は‥」
喜作はフクの言葉に黙っていたが、眼には涙が溢れている。
「あんた」
「なあ、フク。儂は殿が好きだ。フクも鶴君様が好きであろう。それに我が家は先代から上野のお殿様に守られて生きて来られた。上野のお殿様に従うのが務めだ。しかし明日は、朝から酒宴を開くと殿から言い渡されている。フク、最後の酒宴だ。いつもの賄い自慢でおいしい餉を作ってくれ」
喜作の言葉に、フクはたまらず喜作の胸にしな垂れた。
「あんた」
二人の会話を賄い所で勝代と佳代、春も泣きながら聞いていた。
勝代、佳代、春もこの度の闘いで夫を亡くした足軽の女房たちである。
喜作は、涙を拭きながら、気を取り戻したように、
「フク、儂は今から喜兵のいる惣門丸に行く。小早川勢が夜討ちを仕掛けてこないとも限らんからな」
喜作は急いだ賄場の戸を開けて、真っ暗闇の外に出て行った。
鶴君も百姓でありながら、この城の事を思っている喜作とフクに、黙って頭を下げた。
その瞳には涙が溜まっていた。
喜平とスズは、惣門丸の表門にいた。
「スズ、敵勢は、今夜は攻めてこないだろう。静かなものだ」
喜平が敵勢の潜んでいる竹藪の方を見渡し、女房のスズに言った。
籠城が始まってから、城の下は、草木そして常山に多く自生している竹藪を一木残らず伐採していた。
「おまえさん。籠城した時は、城には四百名の侍がいたが、今は女子を入れても二百名余りしかいない。皆逃げてしまったの?」
「そうだ。残っているのは儂ら足軽と殿様のお身内の者と幾十人かの侍だけだ。皆、薄情な者たちだな」
二人とも、惣門丸の塀に横たわり、城の下の竹藪から目を離さず話をしていた。
「なんでおまえさんは、逃げないのか。侍が逃げて、足軽が残るとは‥」
喜平は、スズの問いには答えず、苦笑いをした。
「儂にもわからん。殿様を捨てて逃げられぬだけだ」
そこに喜作が様子を見に来たが、真っ黒な闇のなかでは人のいる気配を感じるしかわからない。
そして、小声で声を上げた。
「喜平どこだ?」
惣門丸の表門の石垣に横たわるようにしていた喜平が、
「ここだ」
声のする方に喜作は走った。
「おう、敵勢はどうだ」
「静かだ、それはそうと良助と五郎は」
「どちらも北の青木丸にいる」
すると喜作が、含み笑いをして口を開いた。
「喜平。儂は良い事を考えた」
「なんじゃ」
「糞と小便を混ぜて、そして煮詰めて投げかける」
喜作の言葉に喜兵衛は驚いた顔をした、
「なに。糞と小便を煮詰めるじゃと」
「どうだ。面白いだろう。臭いぞ」
「それは面白い。早速かまどと鍋を用意しよう」
喜作、喜平、良助、五郎共に家族を引き連れ城に籠った百姓足軽たちである。
誰一人として、女房たちは夫の傍にいて離れないでいた。
北の青木丸にいた良助の傍にはフクと同じような野良着を着た女房のサチとサチの妹のナツ、五郎の傍には、女房のハナと、靨がある愛嬌のある顔をした娘のヒサがいる。
百姓の女たちは、皆が良く日に焼けて、野良仕事で鍛えた男顔負けの太い腕をしている。
そこに今日の闘いでは矢竹丸で指揮をしていた侍大将の楠田信森が、松明をかざして惣門丸の様子を見に来た。白額当てを額に巻いて、甲冑の草摺を揺らしながら現れた。
「喜平どうだ、小早川勢は?」
楠田信森、上野家の重臣で歴戦の侍である。幾多の合戦に出陣していたためか、頬に刀傷が残っている。頬の刀傷があるためか、際立って凄味がある顔をしている。
「静かです」
喜平が静かに答えた。楠田信森は喜作に言葉を継いだ。
「そうか。明日は、小早川勢の総攻めを覚悟しておけ。総攻めが始まったら、惣門丸の塀に積んでいる石と材木を落とせ。夜は松明を城の外に投げて、敵の様子を探ってくれ。それから喜作、その他の曲輪にいる者達にも伝えてくれ。曲輪に積んでいる石と材木を落とせと」
楠田信森が、やさしく喜平たちに言いかけた時、篠笛が風に乗って聞こえてきた。
すると楠田信森が、耳に手のひらを被せて呟いた。
「おお、菊姫様の笛の音だ。いつ聞いても菊姫様の笛の音は良いが、なぜか今夜は特別だ」
二人は耳を篠笛が聞こえてくる方に向けた。城方を含めて山の中腹まで攻めてきている小早川勢の者たちまで、篠笛の寂しげな音色に耳を傾けていた。
菊姫は静かに庭の桜を見ながら、篠笛を吹いていた。風に乗って聞こえてくる菊姫の篠笛の音色は、戦を忘れるほど優雅な調べを奏でていた。
侍頭の伊崎泰山は、惣門二の丸にいた。伊崎泰山は剣術指南の免許皆伝をもつ侍だ。
家中の剣術試合には、伊崎泰山の右に出る者はいない。主に戦場では野太刀を使う。
野太刀は刀より一尺長くて太い。斬味も具足ごと斬れるほどよく斬れる。
伊崎泰山は野太刀を六本、自分の周りに立てかけて、小早川勢が攻めてきたら、野太刀六本を代わる代わる刀の刃が、血糊で斬れなくなるまで闘う用意をしていた。土部に腰を下ろして周りの野太刀を見ながら呟いた。野太刀の白刃が月の光にきらりと光っている。
「よし。これで良い。刀六本が斬れなくなる時が儂の最後だ。それまでは斬って、斬って、斬りまくってやる」
伊崎泰山と共に惣門二の丸に詰めている足軽たちに、向かって言い放った。
妻女の貞は気丈な女子であり、伊崎泰山に従って本丸に詰めていた。
楠田信森の妻女の雪も貞と一緒に本丸に詰めていた。
同じく侍頭の深沢健三郎は、息子の経ノ助と共に、北三の丸に詰めている。
「経ノ助。弓矢を全て土壁に立てかけていてくれ。又、弓の予備も段取りをしていてくれ。明日は肩が壊れるまで弓を引く。明日が最後かも知れん。武門の恥にならぬよう腹を括るのだぞ。よいな」
経ノ助は、元服を済ませたばかりの十五歳の若武者であった。
上野家の譜代である深沢家は、弓矢の名手として名を馳せていた。
妻女の瑞も又、夫の深沢健三郎と息子の経ノ助に従って、城内にいた。
鉄砲足軽頭の兵助は、北二の丸にいた。
兵助の手元には、種子島が三丁。足軽の五丁を含めて八丁の鉄砲があった。
手下の足軽に兵助が、諭すように言った。
「玉と火薬を竹筒に分けて入れておけ。そしたら玉込めの時間が短くなる。そして、明日は侍大将だけを狙え。雑兵には構うな。よいか」
玉と静は兵助の母、娘で兵助の手伝いをしていた。
女房の楷は、静を産んですぐ亡くなっていた。
そして常山の北の曲輪群と東の曲輪群に挟まれた底なし井戸の守りに付いている相田神佐衛門は、二十名余りの部下と妻女の蘭と妹の房に、
「交代で夜番をしろ。そして夜番以外の者は寝ろ。明日は死に物狂いの働きをしてもらう。ここが城では一番の激戦になる。よいか」
本丸では、上野家の支配地である倉敷の庄の豪族の太田道長が大広間に、詰めていた。
大広間は、先ほどまでの戦で傷を負っている者たちで覆われていた。
呻き声を聞こえてくるのを太田道長は、神妙な顔つきで聞いていた。
そして傷の手当てを行っている侍女の江と朱と梅に向かって、
「この度の戦は明日で片は付く。小早川勢が傷を負っている者たちには、手を出さぬことを願うしかないな」
大田道長の妻女の佳と二人の娘の鹿と竹も、怪我をした者たちの手当てをしていた。
又、蛍と桜、そして笹と林、それにナカは、鶴君の本家であった備中松山城の侍女であったが、備中松山城が落ちる時に逃げて、鶴君を頼って来ていた者たちだ。
今宵の五人は薙刀をもって、本丸の屋敷に控えている。
城代の大島文衛門は、城内に残っている家臣たちと本丸表門にいた。
「良いか皆の者。我々は敵の主力が攻めてきた曲輪に応援に行く。そして、死兵となって手薄になった曲輪を守る。全員、弓を用いて役目を果たせ」
家臣たちは、大島文衛門の言を聞くと威勢の良い返事を返した。
「おう」
家臣たちの返事は、はっきりと腹を括った者たちの返事であった。
又、家臣たちには、覚悟を決めた気概が満ちあふれていた。
大島文衛門の妻女の沢は本丸にいて、鶴君たちを見守っている。
本丸の本屋敷では、寝所の縁側に座って月を見ていた鶴君が、胡坐を搔いて隣に座っている隆徳に向かって、大きな息を吐いた後に、言葉をかけた。
「殿、とうとう明日が最後でございますか」
月を見ながら、鶴君は小さな声で呟いた。
中天の夜空には三日月が、青白い色で輝き、透き通った光を発していたが、常山城の頂上にある本丸から見ると手を差し伸べれば届くように感じていた。その上艶やかな光を降り注いでいる。
隆徳は鶴君の言葉には答えず、澄んだ明かりに輝いている三日月を見ながら、
「うむ、鶴とも明日で別れになる。おそらく、小早川勢は明日総攻めを行ってくるだろう」
隆徳は、覚悟をしていたか、腹の底から低く唸った。
「殿」
鶴君は、隆徳の顔を見た。
隆徳は幾多の戦場で培ってきた皺が刻まれ、明日が最後ときめた迷いのない顔つきをしていた。まるで憑きものが落ちたような清々しさを感じた。
そして、鶴君に向かって呟いた。
「鶴、女子には手は出さぬはずだ。昔からの戦場の習いだ。菊姫と国姫を頼む」
敵に一部の望みをかけるもの言いをした。
「殿―私は殿とどこまでもご一緒に‥殿がおられない世は考えられませぬ。それに武家の娘として生まれたからには、おなごでも意地がございます。父もいない。殿もいない。そんな世に生きて何の意味がございます‥」
鶴君は隆徳の言葉が終わりかけた時、隆徳の胸にしな垂れて崩れた。
隆徳は鶴君を力いっぱい抱きしめた。鶴君の瞳は涙の中にあった。
隆徳と鶴君が、この世の最後の別れをしていた時、城のなかでは篝火を灯している庭に咲いている桜の花びらが、一枚落ちてきたのを隆徳は見ていた。
花びらが落ちるのと同時ぐらいに、二人の耳には清んだ音色の篠笛が聞こえてきた。
「菊姫か?」
隆徳が言うと、鶴君が眼に涙を浮かべ、軽く頷いた。
「菊姫の笛の音を聞くのも今宵が最後だな。しかし菊姫も鶴と一緒で篠笛はうまいの」
鶴君は菊姫の笛に耳を傾けている隆徳が、今日は一層いとおしく感じた。
鶴君と隆徳がこの世の最後の逢瀬をしていた縁側の端では、鶴君の従女のみねと夕が静かに二人を見守っていた。
鶴君は、隆徳の胸のなかで備中松山城からこの常山城に輿入れをしてきた時を、思い出していた。
―あれからもう二十一年も過ぎたのか。
常山城では、決戦最後の夜が、菊姫の篠笛の音と共に、更けていく。
落城の朝
小早川勢は、総勢四千名で常山城を蟻一つ通さぬように山麓一帯に配置した。
常山城においても、異変が起きていた。
小早川全軍が、山麓一帯を囲みだした時から、城方の侍の中で逃亡する者たちが、増加していた。真夜中に逃げる者たちも続出した。
小早川軍全軍が山麓において、常山を囲んでしまった時には、城方は二百名となっていた。それから、断片的に小早川勢は、城攻めを行っていたが、残った城方の抵抗が激しいため、無理押しはしなかった。そのような一進一退を繰り返していた日々が続いた。
小早川勢が総攻めを行おうとした日の早朝の、朝日が差し込みだした頃、隆徳が、残った者たちを本丸に集めて、酒宴を開いた。
「皆、これまでよく戦ってくれた。隆徳、礼を言う。今日は、心おきなく飲んでくれ。皆、あの世で会おう」
「おうー殿、あの世でも殿におつかい申しますぞ」
大田道長が、隆徳に向かって大声で叫んだ。
その後、眉を顰めて鼻を摘まんだ。
「うーん。何だ。この匂いは。臭い。たまらん匂いだ」
と言ってキョロキョロと周りを見ていると、楠田信森が腹を抱えて笑った。
「糞だ。足軽の喜平が糞を煮詰めている。小早川に糞をくれてやると」
皆が鼻をつまんだ。
城方の最後の酒宴の声は、常山の中腹で総攻めを、いまかいまかと待っていた小早川勢にも聞こえていた。
陽が高く昇った時、小早川全軍の総攻めが始まった。
小早川軍の法螺貝が一斉に吹かれ、全軍が城の山頂に向かって駆け登ってくる。
北の曲輪群と東の曲輪群に対して、一斉に攻め込んできた。
東の惣門丸では、楠田信森と喜平が中心となって足軽たちと、駆け登ってくる小早川軍に対して、石と大木を投げて戦っていた。
「これでも喰らえー」
大男の喜平は大木を頭の上まで上げて、そのまま石垣の下に投げていた。見ると小早川勢の雑兵たちが大木の下敷きになって、唸っている。力のある限り喜平は大木を落とし続けた。
しかしそれも限界になった。
「楠田信森様、もう石も材木も無くなりましたが、糞が煮詰まっております。後は糞しかありません」
そういって窯で煮えたぎっている大鍋の糞を大鍋ごと持ち上げて、攻めてくる敵兵の上から流した。もう一つの大鍋は煮詰まった糞を柄杓で掬って振り撒いた。石垣を登って攻めてきていた雑兵の上に糞が降り注いだ。糞塗れになった敵兵は、悲鳴を上げて具足を脱ぎながら、逃げていく。
「糞でも喰らえー」
しばらくするとその糞も無くなった。
これが最後と思った喜平は、槍を構え、楠田信森は野太刀を抜き、他の足軽たちも槍を構え、塀を乗り越えてくる小早川勢に対して、形相を変えて挑んでいった。
良助、五郎も北の青木丸で同じように闘っていた。
「くそ、斬っても突いても次々に新手が来るわ。良助‥さらばだ」
五郎は大声で叫びながら小早川勢に突っ込んで行った。
「五郎、儂も行くぞ」
同じく良助も五郎の後を追った。
侍頭の伊崎泰山は、惣門二の丸にいたが、惣門丸が落ちて敵兵がなだれ込んで来た。
泰山は野太刀で斬りかかった。
侍頭の深沢健三郎は、息子の経ノ助と共に、北三の丸にいたが、青木丸に敵兵が迫っていた時、経ノ助と共に肩が腫れて弓矢を射る事が出来ないまで射った。
北二の丸にいた鉄砲足軽頭の兵助も、種子島を撃ち続けていた。
そして常山の北の曲輪群と東の曲輪群に挟まれた底なし井戸の守りに付いていた相田神佐衛門は、二十名余りの家来と共に、討ち死にをした。
―いよいよ敵は本丸に近づいたか‥
表門の外では激しい怒声と斬り合う者たちの悲鳴と、刀が擦れる音が聞こえている。その騒がしい声が段々と近づいていた。
唇を噛んで仁王立ちしている鶴君は、額に巻いていた白額当てを、きつく巻きなおした。そして腰紐を巻きなおして、袴の脚絆をギューと巻いた。その顔は怒りに燃えている。瞳は扉の向こうを睨んでいた。
腰に差していた国平の太刀の鯉口を切った。柄を握り白刃を抜いた。鞘は腰紐から抜いて傍に置いた。もう二度とこの太刀を鞘に納めることを諦めた。その後に白襷を、柄を握っている手に二重に巻いて、備前焼の器を手にして、器の中に満ちている酒を口に含んで、吹きかけた。そして勢いよく器を地面に叩きつけた。器は粉々に割れた。
すると後ろに控えていた女たちも鶴君と同じように、白刃を抜いて鞘を傍の土に置いた。鞘に白刃を納める必要がない決意だ。死出の旅立ちへの気概を示した。又同じように酒を口に含んで吹きかけていた。
鶴君は改めて女たちの顔を見回した。怯えている顔を見せる者はいない。
女たちは誰もが鶴君の瞳を見ている。女たちの瞳は鶴君と共に死ぬ覚悟を示すかのように、眼光が鋭く光っていた。
女たちの眼光をゆっくりと見ながら、鶴君は心の中で女たちに両手を合わせていた。
女たちの中では百姓足軽のフクは槍を握っている。弓矢を持っているスズは、竹筒から作った矢筒から矢を取り出して、弦に矢の溝を当てて、いつでも構えれば撃てる仕草でいた。
薙刀を握りしめている侍女の蛍と桜、そして笹と林、それにナカの五名は腰を落として薙刀を斜めに構えている。飛び出して敵を見つけるとすぐにも斬りかかれる用意でいた。
それぞれに腹を据えた者だけが放つ気概が躰から滲み出ていた。
遂に、表門に敵が来た。騒がしい怒声が一段と大きく聞こえる。刀と刀がぶつかるキンとした甲高い鉄音も聞こえていた。
鶴君は生唾を呑みこんで、腹に力を入れた。その後に大声で叫んだ。
「門を開けろ」
鶴君が叫ぶと、同時にフクとスズが門に走って行き、門の鉤となっている押継棒を抜いた。そして力任せに本丸の表門を開けた。門がぎぃと鈍い音を出して開く。
鶴君は国平の太刀を振りかざして声を上げた。あらん限りの大声を発した。足で土を蹴った。土埃が舞う。
「進め、小早川の軍勢を蹴散らせ」
鶴君の大声が轟いた。
女たちは、土埃をまき散らしながら、一斉に表門から飛び出した。表門の近くまで押し寄せてきていた敵兵は、いきなり現れた凄まじい女たちの勢いに、足踏みをした。
夜叉顔した形相で現れた女たちに敵はたじたじとなって、一歩下がる。そして口々に叫んだ。
「女が攻めて来た」
敵は予想もしていない。怯んだ。喜作の女房のフクは、腰に力を入れて、槍を構えたまま逃げる敵の侍に向かって走った。
突然の出来事に立ち往生していた侍と目と目があった。
すると、何としたことか、侍が固まっている。顔は恐怖で引き攣っていた。眼の中で目玉が泳いでいた。するとあろうことか刀を落とした。
フクは髪を振り乱して鋭い眼で侍を睨みつけた。勢いよく躰ごと槍で侍を突いた。具足の上からフクの槍が胸にブスと鈍い音を出して、侍は後ろに仰け反った。フクは侍の返り血を浴びて、野良着が朱色に染まった。
喜平の女房のスズは、次々と、小早川の雑兵に弓矢を射った。
矢がなくなると、今度は背中に括り付けていた竹槍で挑んでいった。
「覚悟しろ」
スズも又、夜叉となっていた。
勝代、佳代、春の三人は夫の仇と叫んで、槍を真横に構え突撃して行く。
良助の女房の幸も槍を、振り回しながら挑んで行った。幸の妹の菜は、泣きながら幸の後をついて行っている。
五郎の女房の華と五郎の娘の久は、敵兵に囲まれたが、かかってこいと叫んで槍を振り回していた。
菊姫と国姫の乳母のシカと姫付きの侍女の小枝、侍女の江、侍女の朱、侍女の梅は一丸となって叫び狂い、逃げる敵兵を追いかけた。
楠田信森の妻女の雪、伊崎泰山の妻女の貞、深沢健三郎の妻女の瑞は、女たちの勢いに負けて逃げる敵兵を追っていた。
ミツも鶴君のすぐ後を小袖に具足を着けて、薙刀を敵の雑兵に向けていた。雑兵に斬りかかった時に迂闊にも脚を滑らせた。勢いをつけて薙刀を 振り回したから躰がふらついた。脚を滑らせて倒れたミツに向かって陣笠を被った敵の足軽が、槍をミツに突こうとした時に、ふぃに塩出光洋が、横から現れて斬りつけた。足軽は胸を斬られ倒れた。倒れたミツの躰を起こして微笑んでいる。
二人は互いの瞳で無事を確かめた。光洋はミツの無事を見届けた。すぐさま白刃を翳して敵に向かって斬りこんでいった。
兵助の母の玉、兵助の娘の静は、少し離れて弓矢で侍だけを狙って矢を射っていた。蘭、房は薙刀を構えて、まるで男の様に仁王立ちして、挑んでくる敵兵をなぎ倒していた。
松山城の侍女の蛍、桜、笹、林は、四人で円形を組み、互いに背中をつけて回転するようにしながら、敵兵を薙刀で斬りつけていた。
隆徳の妹の喜姫は、大島文衛門の妻女の沢、太田道長の妻女の佳、娘の鹿に守られながら、突撃した。
女たちは、怯んだ小早川の軍勢を城外に追い出す勢いであった。
「母上、傍を離れては行けませんぞ、菊、わらわの傍を離れるな」
鶴君は、表門を討って出る時に二人に言い渡していた。
女たちがもう少しで小早川の軍勢を城から追い返したと思った時、本丸の本屋敷で火の手が上がった。
本丸の裏手から宇喜多の軍勢から放たれた火矢によって、本丸の茅葺の屋根が勢いよく燃えていた。
「母上、火の手が‥」
菊姫が鶴君に大声で叫んだ。
その時だった。後ろ向きになっていた菊姫は、小早川の雑兵に胸を槍で突かれた。
菊姫は見る間に血潮に染まった。
「母上―」
菊姫は倒れながら鶴君を呼んだ。
鶴君は走り寄った。菊姫を槍で突いた雑兵を、国平の太刀で斬った。怒りを露わに大声で叫んで斬った。
「おのれ、下郎」
雑兵を斬り殺した後に、倒れている菊姫に声をかけた。声が帰らない。躰を抱えた。声をかける。
「菊‥」
菊姫の名を呼んだ。
眼を閉じて血まみれになって倒れている菊姫を、抱きながら心に菊姫の不憫を嘆いた。
―娘盛りの菊にこのような戦に駆り出した挙句、無残な死にかたをさせた母を許してくれ‥
鶴君の瞳から大粒の涙が零れていた。
鶴君が菊姫を抱いた時、鶴君の周りから敵が消えた。菊姫を抱きながら辺りを見渡すと、
なぜか小早川の軍勢が一斉に引き始めた。まるで海の大汐が引くように陰に隠れた。
涙目を小袖の襟で拭いて、辺りを見回した。
何事か‥
不思議に思った。女たちもあっけに取られながら敵が逃げるのかと思った時、突然に新たな一団が、少しばかり草刈りから残っていた藪から現れた。
眼を凝らしてよく見ると、横一列に二段に構えている鉄砲隊だ。
そして一刻の間をおいたかと思った瞬間、鉄砲隊が一斉に女たちの前に進みでた。
火縄銃を一斉に放った。銃先から白煙が上がる。そのうちの一発が鶴君の脇腹に当たった。仰け反って倒れた。手で脇腹を抑えると血潮が噴き出ている。
「おのれ」
鶴君は、脇腹を押さえて倒れたままで叫んだ。朦朧としていたが意識はある。
その時に小早川勢の中から一人の陣羽織を着た侍が鶴君の前に現れた。鶴君は小袖を真っ赤に自分の血で、染めながらどうにか立ち上がった。そして手に持った国平の刀を侍に向けた。
消えるような声でいざと大声で叫んだ。髪は乱れて形相は血汐で染まった鬼のようになっている。
侍は鶴君に向かって、自分の名を言い添え乍ら怒鳴った。
「この浦宗勝は女を切る刀は、持ち合わせしていない‥」
浦宗勝は大声で叫んだ。侍の叫び声を聞いて鶴君は、正眼に構えていた刀を侍の前に投げた。
「その刀は国平の太刀だ‥わらわたちをその太刀で弔へ」
鶴君はそう言い残して本丸の表門に消えた。そのまま燃えさかる屋敷を見ながら、庭に出た。庭の石に腰をかけた。すると不意に風が巻いた。不思議なことに自分の身が風に乗った感じがした。そのまま風に乗って天空に向かうかのように思えた。
鶴君は腰に差していた匕首を抜いて、自分の喉に当てた。口を真一文字に結んで、白刃を逆さに握って力を入れた。血潮が噴き出ている。
鶴君は段々と薄まる意識の中で、まるでいままでの戦いが嘘のように感じた。痛みもなく、音も聞こえない。すべての自分の躰が遠くに離れようとしているようだ。
この地上から空の彼方に向かって‥
薄れる意識の中で、草に頼んでいた国姫の無事を心の中で祈った。
鶴君は本丸の表門から討って出る時に、国姫の傍に立っていた草に向かって言った。
続けて泣きべそ顔の国姫に向かって、諭すように囁いた。
「草、国姫だけでも頼む。国姫、草に従え、良いか‥」
国姫は息を呑んで頷いた。草に国姫を託した。
草は泣きながら国姫と共に本丸から続く獣道から落ち延びた。国姫の懐には、鶴姫の愛用の篠笛を持たせていた。
竹蔵は隆徳の傍にいたが、隆徳は鶴君の最期を見届けて切腹した。後、竹蔵は隆徳の首を取られまいとして、敵の中に消えた。
残影 備後の国 鞆の津
天正三年(一五七五年)五月二十五日
備後の国鞆の津の毛利家の本陣になっている安国寺の法院に毛利元就の次男である吉川元春が、じっと腕組みをしながら法院の枯山水の庭を見ていた。
―そろそろ上野隆徳の首が届く頃だ。しかし、この度の合戦は毛利にとって義を欠いた行いであった。隆景の奴―
元春が庭を見ていた時、元春の近従の一人が、走ってきて口を開いた。
「殿、今しがた、湊に小早川様の船で上野隆徳と奥方の鶴君の首が届いた知らせが入りました」
元春は耳を疑った。
―隆徳の首だけではなく何故、鶴姫の首が‥
「鶴姫の首と言うのは確かか?」
元治は怒鳴った。
元春の見幕に驚いて、近従は小声で呟くように言った。
「そう聞いておりますが」
元春は、空を見上げて溜息をついた。元春の気持ちを代弁したかのような灰色の曇り空が広がっている。風も凪のためか全くない。心の奥までジメジメしている。
「では、首が先に届いて葬っている三村元親親子の墓の隣に大事に葬ってくれ。それから安国寺の和尚に丁重に法要をさせてくれ」
元春は、空虚な思いに悩まされていた。
―よりによって鶴姫の首まで取るとは‥
元春は項垂れている。苦虫を噛んだ顔で尋ねた。
「隆景は、どうした?」
「一刻後の船で凱旋かと」
元春が上野隆徳と奥方の鶴君の首改めを済ました頃、小早川隆景が凱旋してきた。
「兄者、只今帰り申しましたぞ」
隆景が、首改めをして、墓に埋葬するように近従に言い渡して、再び庭の枯山水を見ていた時、隆景が元春の傍に寄ってきた。
「隆景、御苦労であった」
元春の隆景に対する答えは、そっけなく冷たい気のないものであった。
「兄者、その顔はこの度の事怒っておられますなぁ」
隆景が、元春の顔を覗きながら、言うと
元春は隆景を睨んで声を荒げた。
「当たり前だ、隆景、今さらながらしなくてもよい戦であった。そもそも、我が毛利家が表裏一体の宇喜多直家と同盟を結んだことが、良かったのかはなはだ疑問だ。儂は直家を信用していない。いつ何時裏切るかわからんぞ」
元春の見幕に、隆景は拉がれた顔をした。
「しかし兄者」
元春は、隆景が言いかけた言葉を遮った。
「それに隆景、どうして鶴姫の首まで取った?例え自害した者でも女子だ。首まで取ることはなかっただろう」
元春は語気を荒げて隆景に問いた。
隆景は、小さな声で呟く。
「いたしかなかった。鶴姫を先頭に女子たちが全員で挑んで来たそのため、我が手勢も手傷を負った。首を刎ねるしかなかった。そして、女たちが挑んで来たため、我が方の損害も多大だ」
隆景の言葉に、元春はしばらく黙っていた。大きな息をしたかと思ったら、漆を塗った大箱が目に入った。隆景が抱えていた。
元春は隆景の傍にある大箱を見て言った。
「ところで、隆景。そなたが抱えている箱は‥」
「この箱には甲冑が入ってござる。鶴姫の甲冑でござる」
隆景が抱えている箱を手元に置いて甲冑を取り出した。
甲冑は、胸部を大きく取り腰部を狭くした作りの鎧であった。
「兄者、この甲冑を貰ってくれぬか。そのために持って参った」
隆景も、この度の戦は気が引けていたのか、思わぬことを口走った。
「そうか。ではそうさせてもらう」
「で、兄者、鶴姫の甲冑をどうする?」
元春は、少しため息をつきながら、しばし黙っていた。そして口を開いて、
「なあ隆景。鶴姫の甲冑は、大三島の大山祇神社に奉納して、鶴姫の魂を鎮めてもらう。よいな」
「わかり申した」
隆景は、元春の言葉に従った。
「では、隆景。儂は大山祇神社に鶴姫の甲冑を奉納して、安芸の毛利本家の輝元に会ってから儂の本城に帰る」
と言って立ち去ろうとした時に、隆景が両手を前にして畏まった。
「わかり申した。この度のことは兄者。心中をお察し申します」
「隆景、くれぐれも宇喜多直家には気をつけよ。儂は山陰道の守将でお主は山陽道の守将であるから、宇喜多直家はお主の受け持ちだからな」
毛利家の政務は、吉川元春、小早川隆景が行っていた。
しかし実質は吉川元春より小早川隆景の意見が毛利家では優勢であった。
鞆の津を出る時、元春は心に刻んだ。
―義を失った毛利は、今まで以上の勢いはなくなるだろうな‥
毛利家の吉川元春は、岐では義の武将として名を轟かせていた。
対して、小早川隆景は、謀略の人として名を刻んでいた。
天正七年(一五七九年)十月
宇喜多直家は吉川元春の予見した通りに羽柴秀吉と合力を結び、毛利家とは手別れとなった。
鶴君以下三十四名の女たちが命を落とした時から、わずか六年後の天正九年(一五八一年)に宇喜多直家は病のために没した。
天正十年(一五八二年)
西国に攻め込んだ織田軍勢を率いる羽柴秀吉と三村家を離反して毛利家に帰属していた清水宗治は、備中高松城に於いて激突した。世にいう備中高松城の水攻めである。清水宗治は城兵の命と引き換えに切腹して果てた。
備中高松城の水攻めの最中に、本能寺の変が起きて、戦国の世は大きく変わることになる。
‥時代の波はかくも無常なり‥