小説を書くという事
さて、私はこうやって文章を書き綴ってはいるが、時として何故文章を書くのかを考える。表現、生き様、仕事、夢、自己陶酔…この中にあるだろうか。いや、もしかしたらただの暇つぶしなのかもしれない。これを読んでいる方がいたら読みながらあなたはどうなのだろうか?はっきりとした明確な書く理由があるのであればこの葛藤は下らないだろう。これはそんな葛藤をただただ書き綴っているだけのものなのだから。
小学生の頃、夏休みの宿題で読書感想文というのを書いた記憶はあるだろうか。私達の時代では当たり前のものだった。内容は簡単で、本を読んでそれの感想を書く。ただそれだけのもの。私はそれが得意で、いつも最初、真ん中、最後、だけを読んでスラスラと原稿用紙に感想を書いていったものだ。それを、私には才能があるんじゃないかなんてことは思わず、きっとみんなそんな風に書いているんだろうと思っていた。ただ国語や道徳などの成績は割とよく、苦手な数学や科学などと比べると点数も良かったし手を挙げるのも多かった。私には姉がいるが、中学の頃、姉の高校の志望動機の文を書いてと頼まれ、軽い気持ちで書いてみたら姉は教師に褒められたそうだ。そんな事で自信は少しついていたのかもしれない。
いくつかの頃に友人の彼女と夢の話をして小説家になりたいと話したことがある。しかしその頃は音楽に夢中でろくに何もしなかった。今もなりたいかと言われればそれはなりたい。ただただこんな葛藤を綴ってそれが仕事になるなんて夢のようじゃないか。
中学の頃音楽をやり始め、歌詞を書き始めた。どちらかというと内気な私は歌詞というものの中に不満やいつも言葉に出せない気持ちを表すのはとても快感だった。希望や夢、今の現状から抜け出したい、自由、恋、悲しみ、切なさ、歌詞の世界には沢山の感情をぶつけれた。今でも音楽はやり続け、歌詞も書いている。しかし歌詞には限界があり、歌にはメロディがある。例えばこの葛藤を歌とするには曲が何分あっても足りないだろう。つまり感情をぶつけるという点では私は小説を書いていないのだろう。頭の中にある葛藤を形にするという部分では、表現と言っていいのかもしれない。だがしかしこれが物語、SFやファンタジー、恋愛小説であればそれは表現と呼べるのだろうか。恥ずかしながら私はベタベタな恋愛小説や恋愛漫画が好きで、時に私自身も恋愛小説を書く。それは表現というには違う気もしてくる、しかし頭の中の想像を文章として形にすること、それは紛れもなく表現じゃないか。見えない物を見えるものに形にすること、表現。
さて、私はこうして時間を使い文章を綴るわけだがこの時間は金へと変化はしない。それは仕事ではないからだ。仕事というのは働いた時間を金銭という報酬として返ってくるもの。私は生活の中の何時間何分を削りこの文章を書いているが、1円にもならない。仕事で書いているわけではないからだ。この小説を書くということ、仕事にしたいかと言われればイエスとも答えるが、迷いもある。どの仕事も需要と供給があり、どの仕事も消費者のニーズに合わせる、つまり売れなければ仕事にはならない。表現者とて、特別ではない。音楽で言えば、あいつらは売れ線になった。なんて事を聞いた事はないだろうか、それは今までやってきた音楽と異なり、大衆から支持されるような曲調や歌詞や歌い方になった時に言われたりする。そう、売れなければその分金はもらえない。当たり前の事だ。この小説を書くというのも同じだと私は思う。こうして好きな事だけを書いて売れるだなんてそんな事は続かない。一度仕事となり契約してしまえば出版社から売れるもの、大衆受けするものを、今回は恋愛ものを、などと指示さらるんではないかと考える。必ずしもそうだと断言は出来ないが、好きな事だけを書いてそれが売れる人というのは本当に才能のある、小説家にになる為に生まれたようなそんな人だろう。
ここまで書いた結果、自己陶酔か暇つぶしか、もしくは自分の葛藤や悩みを誰かに聞いてほしい、共感してほしい、というものが残るわけだが、果たしてそうなのだろうか。時にはメルヘンな物やSF、ミステリーなども書いたりするわけで、そうした仮想の物語に関しては共感を求めているわけではないだろう。そうなると自己陶酔、自分の想像の世界に自分自身で酔っているのかもしれない。もしくは暇な時間に現実逃避として物語を描いているのかもしれない。もしくは頭の中をリセットさせているのかもしれない。こうして頭の中に浮かぶ数多くの想像や考えを文として書くことで頭の中がいっぱいにならぬよう、この想像や考えをただの無駄な考え事にならないように書いているのかもしれない。そうなると自己陶酔ではなく自己満足なのかもしれない。
さてこれを読んであなたはどう思っただろうか、小説家を夢見てる人からしたらふざけるなと思うところもあるだろう、小説を書くことを心の支えとしてる人も、そんな理由かと思うだろう。しかしこれはあくまで私の中の葛藤なのでそう思った人は受け流してほしい。
これを書きながらもう一つ思った事は、新しい自分の発見や、違う自分との対面。私自身、普段の自分では使わないような言葉遣いをしている。そもそも普段、自分の事を私だなんて言うような性格ではないのだから。もしかしたら違う自分を出すはけ口なのかもしれない。仮想物語でも、自分を主人公に置き換え、違う自分を想像する。こんな事をしてみたい自分もいる、自分ならこんな状況下でこんな風に行動するだろう、という仮想の中での出会った事のない自分を作り出す。となると、表現と言ってもいいのかもしれない。つまり結局の所、こんな事を考えても答えなど出てきはしないのであろう。最後の最後まで読んでくれた方には申し訳ないが、答えは出ない。だからと言って誰かに答えを導いてほしいわけでもない。まとまりがなく終わる、葛藤だけを書いて終わる、それもまた小説の良い所だと思う。見る人に疑問を投げかけ、そこから先はあなた自身で考えてみて下さいと答えを投げても、一つの小説の形となる。それが小説の良いところかもしれない。是非これを読んで書いた事ない人には書いてみてほしい。そして同じような葛藤もしてほしい。こんな葛藤を文章にするだけで作品となり、ただ文章を書くだけでこんなにいくつもの葛藤が出来る。人によってはそこから夢へと繋がるかもしれない、素敵な休憩時間になるかもしれない、自分の新しい才能の開花かもしれない、心の支えとなるかもしれない。決してこの作品は、小説とはこんなに素晴らしいものだ!とすすめる為のものではないが、こんなものでも小説となるということが伝わってくれれば、それはそれでこれを書いた意味になるだろう。