50話 魔力だまりとルノの弟子入り
グロテスクなシーンがあります。
苦手な方、お食事中の方は、冒頭「あの穴?」というセリフの後は
「体に異常はないかえ?」というセリフまで飛ばしてください。
「ほれ、その崖の下じゃ」
漆黒の霊狐イヅナに連れられ、魔力だまりを潰しにきたヤマト。そのイヅナの言葉に足を止めると、林の中、奥に見える地面の隆起の片側が崖のように削れており、その下側に小さな自然の洞穴が口を開けているのが目に入ってきた。
「あの穴?」
何の変哲もない自然に出来た穴のように見えるが、注意深く目を凝らすと、手前の草むらの端に何かが転がっていた。
狸の死骸だった。
死んで間もないようだが、みじめに濡れそぼった毛皮がヤマトの胸を妙に騒がせる。
周りの地面もよく見ると踏み荒らされ、少し古いながらも無数の足跡が残っている。その奥の斜面にぽっかりと口を開ける、ちょうどヤマトの背丈ほどの穴。
「うむ。ああ見えて驚くほど濃ゆい魔力だまりじゃ。そなたはマレビトの仔でもあるゆえ平気かもしれぬが、これ以上近づく前に、霊力を体に強く循環させておくようにの」
そう言うとイヅナは自身も霊力の循環を強化し始めた。金色の瞳が強く輝き、漆黒の毛並みがちりちりと逆立ち始める。かなりの力の込めようだ。その間も視線は油断なく洞穴を覗っており、並々ならぬ警戒を払っている。
ヤマトはゆっくりとあごを引き締めた。
魔力だまりに近付くのは初めてだ。この移動中は修行として半ば無意識に行っていた霊力の循環を、意識して強めに活性化させる。途端に五感が鋭敏になり、仄かに漂う血の匂いと、赤目の化け物に感じたのと同じ異様な雰囲気がはっきりと伝わってきた。確かにあの洞穴は尋常ではない。
「普通の生き物はこの辺りで体に異変を感じ始める。無理に進むと――」
イヅナは草むらに転がる狸の死骸を鼻先で示した。
「ああなるか、魔物になるか、どちらかじゃ」
体を低くし、慎重に近づき始める漆黒の霊狐、イヅナ。
ヤマトも無意識のうちに息を押し殺し、その後ろをそろりそろりと進んでいった。
狸の死骸の脇を通過する。
不思議なことに虫などは全くたかっていないが、その様子は凄惨を極めた。血で濡れそぼった毛並みはそのまま凝固しつつあり、全身の半分の毛皮がめくれ、何かに融かされたようにただれた肉が見え隠れしている。
強烈な屍臭が鋭敏になった鼻を襲い、ヤマトは吐き気を押し殺して、狸だったものから視線を剥がした。
「体に異常はないかえ?」
洞穴の真ん前で、イヅナがささやくように振り返った。
「普通の魔力だまりはここまで濃くない。それにもう少し拡散しておる。普通は近づいて行くにつれて徐々に魔力が濃くなっていくものじゃが、こんなに急激なのはちと異常じゃ。まるで誰かが濃縮させたような……」
ヤマトは額の汗を二の腕でぬぐい、無言のままイヅナを見返した。
洞穴からじんわりと漏れ出ているのは異様な魔力。いや、ただの魔力ではない。魔物たちから発散されている強烈な人への憎しみ、それが入り混じってもはや邪悪な瘴気と呼ぶべきものが、ヤマトの五感を威嚇するように洞穴の前に漂っている。
この感じはまるで――
「……クロカワ」
「そなたもそう思うか。あの不自然な灰色狼の群れも、どうにかしてあの赤目が創り出したものであろう。ここがその場所であっても、妾は何の疑問も抱かぬ」
二つの視線の先には、洞穴の中に僅かに差し込む日の光を受け、禍々しい暗黒の靄がゆっくりと渦巻いている。
「本来なら魔力だまりの中心には、まばゆいばかりの光の球があるんじゃがの……見えるかえ?」
ヤマトが奥に目を凝らすと、暗黒の靄の合間に、やはり暗黒の球のようなものが浮かんでいるのが見てとれた。
「少々見た目がおかしいが、あれがここの魔力だまりの核じゃ。どんな手段を使ったのかは知らぬがの、十中八九はあの赤目が変質させたのであろう。少々厄介だが、なおさら残しておく訳にはいかぬ……さあ、やってみるかえ?」
ヤマトが力強く頷くと、イヅナは魔力だまりの滅し方の手ほどきを始めた。
「まあ、要は霊力であの核を包み込み、中心に押し込めるように圧縮していくのじゃ。元来がこの世の自然なものではない。どこに繋がっているかは知らぬが、中心から元の場所へ押し返す感覚じゃぞ」
「……やってみる」
ヤマトは慎重に一歩を踏み出した。すぐ後ろにはイヅナがぴったりとついてきている。
一歩、また一歩とヤマトは進み、やがて一人と一匹は洞穴の中に足を踏み入れた。
途端に押し寄せる黒い靄を無視し、霊力の循環をますます強化しながらヤマトは核の脇まで足を運んだ。
そしてゆっくりと手をかざし――
するり、と核が消えた。
「な……」
絶句するイヅナ。
「あ、あれ?」
ヤマトもあまりの手ごたえのなさに驚いていた。
明らかにおかしかった。どこかに押し返すのではなく、まるで自分の手が瞬間的に吸い込んだかのような消滅ぶりだった。
だが、確かに核は消えている。跡形もなく消え失せ、周囲には核がまとっていた禍々しさだけが取り残されたように頼りなく漂っている。
「そなた、今、何をした?」
自分の手をまじまじと見詰めるヤマトの足元にイヅナが詰め寄った。
「もしや……ヤマト、体に違和感はないか?」
焦ったようなイヅナの物言いに、ヤマトは深呼吸をひとつして、言われるがまま自らの身体に注意を向けた。
特に何もない。至って普段どおりだ。
霊力が下腹部にたゆたっているのも同じ、魔力は胸のあたりに僅かにある程度、これも同じ。強いて言えば、若干魔力が増えている気もするが――無尽蔵とも思える霊力の量に慣れているヤマトにとっては、それも誤差の範囲に過ぎなかった。
「たぶん大丈夫……。ねえ、これで良かったの?」
「そうか、異常がなければそれで良い」
イヅナがほっと安心のため息をついた。
「しかし……見事に消えたものよ。赤目が使い潰して、もう空に近かったとでもいうことかのう。理由は分からぬが、核がなくなったことは確かじゃ。この魔力だまりもじきに風化する――おや、もう風化が始まっておるわ」
イヅナが周囲の匂いを確かめるように頭を上げた。
確かに、仄暗かった洞穴が自然に奥まで見通せるようになっている。五歩も歩けば終わりの、大岩に囲まれたごく普通の空間だ。
「……ふむ、もう魔力だまりは完全に消滅したわ。あまりそなたの練習にはならんかったのう。まあ仕方あるまい、用は済んだし、皆の元に帰るとするかの」
「うん、まあ……そうしよっか」
拍子抜けしたヤマトは小さくため息をつき、自分の手をためすがめつ眺めながらも洞穴を後にした。
あれは、核をこの手に吸い込んだ感触だったような――。
ヤマト達が皆に合流し、ちょうど出来上がっていた食事を食べ終えた頃、ルノがこんなことを言い出した。
「イヅナ様、私に精霊の巫女としての稽古をつけてくれませんか?」
ルノの顔は真剣そのもので、その淡い空色の瞳には思い詰めたような色が浮かんでいる。
その場にいるのはルノとヤマト、そしてイヅナの三者だけだ。ツゲとセタは近くの沢に器を洗いに行き、イメラは少し離れたところで焚き火を消す土を掘っている。
「あの、それ僕もお願いしたい」
ヤマトはルノの言葉にハッとして、すかさず自分もルノの申し出に加わった。
昨日の広場で見た、一人で村人たちの治癒に挑んだ結果ボロボロになっていたルノ。あんなルノはもう見たくなかった。自分の霊力の渡し方にも、もっと良いやり方がある筈だった。
「ほう? そなたらならそんな事をせずとも、じきに名を残すほどの巫女になろうに」
食事を終え、満足そうに前脚で口吻を整えていたイヅナが軽い調子で答えた――が、ルノの目を見て座りなおした。
「おやおや、そこまでの覚悟かえ。なら、上等な料理のお礼に、妾に出来る範囲で教えるとしようかのう。……ただし、ヤマトは別じゃ」
「ええ? 僕だって――」
「ルノはまだ巫女としての本当の霊力の扱い方を知らぬ。妾はそこを教えよう。じゃがヤマト、そなたは多少なりとも自分の霊力を扱えるであろ? 今はそれにもっと習熟するべき時じゃ。教わるとしたら、そこのイメラの方が適任よ。霊力自体は人としての量しか持っておらぬが、その扱いは驚くほどの巧者じゃ。のうイメラ、どうかの?」
イヅナの言葉に、焚き火に土をかけて後始末をしていたイメラが弾かれたように顔を上げた。その顔にじんわりと笑みが広がっていく。
「おい聞いたかツゲ。七曜姫さまがそこまで俺を……。フフ、これは本腰を入れてヤマトをしごかないといかんな」
普段は皆の後ろでどんと構えていることの多い物静かなイメラが、少し照れたような笑みを浮かべ、ちょうど皿を洗って戻ってきたツゲの尻をその丸太のような足で蹴飛ばした。
「あ痛! イメラてめ、いきなり何すんだよ!」
ツゲは手にしていた皿を傍らのセタに押しつけ、猛然とイメラに躍りかかる。
呆気にとられたセタも、やがてぴょんぴょんと飛び跳ねながら両者を応援し始めた。
「あはは、どっちも頑張れー」
目の前で始まった大人同士のじゃれ合いに、可笑しそうにごろごろと喉を鳴らすイヅナ。
「ふふ、しっかりと頼むぞ。ヤマトの霊力は底なしじゃ。妾よりも多いやもしれぬ――それを充分に使えるようになったら、妾から二人にとっておきの技を授けてやるでのう」
誰にともなく、イヅナは静かに微笑んだ。




