46話 波紋
「ヤマト! セタ!」
一同が呆然と異形の化け物を見送っていると、村の防獣柵を乗り越え、パピリカが駆け寄ってきた。
「セタ! ヤマト!」
はらはらと涙を流しながら、その豊満な身体で二人まとめてひしと抱き寄せる。
「怪我はないかい? 魔物やら、あんな恐ろしい化け物やら、あたしゃ気が気じゃなくて……」
どうやら途中から柵越しに見ていたらしい。ヤマトが飛び出して柵に押し寄せていたグレイウルフを初めに片付けた結果、その周辺で防衛に当たっていた村人たちにはかなりの余裕があったようだ。
「それにしても、ヤマト、あんたがあんなに強かったなんて……」
抱擁を解き、まじまじとヤマトの顔を見詰めるパピリカ。その目には涙と一緒に手放しの賞賛の色が浮かんでいる。
「それと……セタ」
パピリカが、ヤマトの隣で居心地が悪そうに顔をそむけていたセタの顔を両手で挟み、ぐいっと自分の方に向けた。
「あんた、本当にバカなんだから……でも……」
セタの後ろにはそこだけ青々とした畑が残っている。セタが守り抜いた、パピリカの畑だ。
パピリカは万感の想いを込め、そっとささやくように言葉を紡いだ。
「ありがとう……そして、おかえり」
依怙地に視線を逸らせていたセタの目にじわりと涙が浮かび、そのまま「うえええええん」と大声を上げて泣き出した。
そんなセタを優しく抱き締め、一緒に涙を流すパピリカ。
魔物の血の匂いが未だ強く残る戦場で、そこだけ暖かい日差しが降り注いできたような、そんな光景だった。
「さっきの化け物はいったい何だったんだ?」
抱擁を続けるパピリカとセタから少し離れ、ツゲがイヅナに尋ねた。低く抑えられた声だったがヤマトが反応し、体ごと振り返ってイヅナを見詰めるツゲの視線に自らの視線を加える。
「赤目、と呼ばれておる。魔の源たる獣とな」
力を使い果たしたように地面にへたりこんでいた霊狐が、前脚から頭だけ上げてツゲに答えた。その金色の眼は心なしか色合いが薄くなっているように見える。
「妾も出くわすのは初めてだがの、その昔、まだ魔物などおらぬ時代に突然現れた、魔物どもの祖となる存在と聞いておる。あの忌まわしい紅の目が何よりの証拠じゃ。――しかし、そなたはあれを知らぬのか? そなたの町、スーサを興したマレビト達と一緒に現れたとの話じゃが」
「は? おいおい初耳だぞ、そんな話。原初のマレビトは西から来たとだけしか――ギルドのじいさんなら知ってるのか……いやいや最後のアレ、魔物の死体を喰らいやがったのか? そんな化け物の話だったら何かしら――」
「赤目はそんな化け物じゃ、こうして現れたとなると大ごとぞ。とうの昔に滅ぼされた存在が、なぜ今になって……。それにもうひとつ、ヤマトと浅からぬ因縁がある素振り、あれは何じゃ? 妾には訳が分からぬ。奴はクロカワと名乗ったが、ヤマト、そなたに何か心当たりはあるかえ?」
黙って耳を傾けていたヤマトに、イヅナがその金色の視線を向けた。
「ううん全然……僕も訳が分からないよ……」
力なく首を振るヤマト。つい半月前まで深い森の中、千年樹の庇護の下にメレネと二人で余人を交えぬ暮らしを送ってきたヤマトだ。心当たりなどあろうはずもない。
そんなヤマトの反応にイヅナは再びあごを前脚の上に投げ出し、これ見よがしに鼻からため息を吹き出した。
「オキクルミならあるいは知っておるやもしれぬの……何やら魔物の動きがきな臭いなどど言っておったし、あ奴のことじゃ、探りに行くと言っていたのはこのことかもしれぬ……精霊の森で奴を捕まえて話をした方が良いのう」
「姐御! イヅナの姐御!」
ヤマトたちの沈黙を蹴散らすような地響きを立て、村の正面で戦っていた緋色の大猪たちが実に上機嫌で駆けてきた。
「向こうは片付いたぞ! はははは! 次から次へと沸いてきおったのが、最後には一斉に逃げ出しおったわ!」
「それよりさっきのは何事だ? 姐御にしては珍しく本気の攻撃を出したようだったが」
大猪たちは、ヤマトの脇でへたり込むイヅナを取り囲むように足を止めた。戦いの余韻か、鼻息も荒くそのまま次々にイヅナに喋りかける。
「何? それは是非とも見たかったな。だが灰色狼ごときに使うとは、ちと勿体ないことを――」
「は、尋常でない魔物の気配があったろうに、気付かなかったか? だからお主は脳筋と誹られるのだ」
「何を! せっかく爽快な戦いであったのに、無粋なことを言いおって。そもそもお主が――」
「赤目じゃ」
イヅナがひと言、投げやりに告げた。
ぴたり、と動きを止める大猪たち。
「赤目が現れた。妾の七連鞭を歯牙にもかけず、最後には傲然と飛び去りおったわ」
「「なにい!」」
「赤目とはあの赤目か!?」
「まだ生き残っておったとは何たること!」
「これは我らが山の衆に伝えねば!」
「こうしてはおれん。姐御、悪いが――」
「ここにいましたか!」
大猪たちが口々に騒ぎ出す中、今度はユウスゲとキスゲが駆けつけてきた。ツゲとヤマトを見るなりほっとした顔をしている。
「やっと見つけましたよ、二人とも村に戻ってもらってもいいですか? ルノさんが大変なことになっているんです」
ルノが怪我でも――!
ヤマトの頭に殴られたような衝撃が走った。たしか一緒に大怪我を負ったエムシに治癒を行って……その後勝手に飛び出してきてしまったが、まさか――。
「いえいえ、そうではなくて。この村の人たちは、ルノさんが精霊の巫女ということを知らなかったのですか?」
どうやらエムシの怪我を治したことが村人たちの間に広まり、戦いが終わった今、それが大騒ぎを引き起こしているらしい。
ルノが精霊の巫女の力に目覚めたのは村を出た後。それまでのルノは目の不自由な流れ者の孤児に過ぎず、白子ということを理由に一部の村人に迫害すらされていたのだ。
それが大怪我をしたエムシに奇跡のような治癒を施し、聞けば精霊の巫女としてスーサの自由民にも大々的に認められているという。
そして、今は魔物に大きな襲撃を受けた直後。いくらスーサの人々やイヅナ達が前線で矢面に立ったとはいえ、手傷を負った村人は少なくない。
多くの村人が治癒を求めてルノの周囲を取り囲み、その順番だけならともかく、これまでルノに酷い言葉をぶつけてきた者は治してもらう資格がないから帰れ等々、困り果てているルノを前に勝手に喧々諤々と意見をぶつけ合い、収拾がつかなくなっているという。
見兼ねたイメラが場を鎮めに入り、ユウスゲ達はスーサ自由民一行のリーダーであるツゲと、ルノが支えにしているヤマトを探しに来たとのこと。
事情を何も考えず、ルノに悪いことを――。
ヤマトが慌てて走り出そうとすると、一番大きな大猪がヤマトを引きとめるように声を掛けてきた。
「ヤマト、すまないが我らは赤目の出現を山に伝えに戻らないといかん。オキクルミ殿に精霊の森までの面倒を頼まれているのだが……この先はイヅナの姐御を頼ってもらえるとありがたい」
申し訳ない、と一斉に頭を下げる大猪たち。
イヅナが脇で鷹揚に頷いて、
「うむ、それがよかろ。そもそも妾が頼まれた話だしのう。それよりも赤目の件、できるだけ多くの付喪に知らせてくれるとありがたい」
そう言いながらゆっくり立ち上がり、体の具合を確かめるように伸びをした。
口々に了承の意を返す大猪の付喪、北の山々の山守衆たち。
イヅナは続いてヤマトの足を鼻でつつき、その金色の眼に優しい色を乗せて見上げた。
「ヤマト、赤目について今はそなたに出来ることはない。それより今は巫女を手伝っておやり。さすがに一人では霊力が足らぬであろ。妾がついて行ってやっても良いが、あいにく人里は苦手じゃ。形はどうあれ魔物は去ったし、魔力だまりの在処を探しつつ、クロカワとやら相手に使った霊力を森で回復させてくるかのう。明日の朝には戻ってくるからの」
「ほれ、何をぼさっとしておる。間に合ううちに行動開始じゃ」
イヅナはそう言うと、大猪の付喪、山守衆と一緒に森の中へ駆け去っていった。
ありがとう――ヤマトは、あっという間に見えなくなったイヅナたちの背中に向かって、遅ればせながら頭を下げた。
一緒に戦ってくれたことはもちろん――その前に大猪たちの背中に乗って移動していなければ、そもそも戦いに間に合いすらしなかっただろう――、世間知らずで自分に自信のないヤマトに対して、しっかりとこちらを見て、包み込むような大人の態度で接してくれたこと。精霊の森の話や、クロカワと名乗った怪物が取った因縁じみた態度を含め、イヅナ達と過ごしたこの短い時間でヤマトは一気に自分自身に対して興味を持つことが出来るようになった気がする。そうして自分というものをしっかり把握していくことが、未だしっかり持てない自信というものにつながるのではないだろうか。
うん、「ぼさっとして」たら駄目だよね。
ヤマトはツゲと鋭く頷きを交わし、村の中にいて困っているであろうルノに向かって、事態が何事もなく収拾していることを祈りつつ小走りで走り出した。
ルノ、無理してないといいんだけれど――ヤマトの中で嫌な予感が膨れ上がっていた。




