39話 もう一つの群れ
「あはははー」
木漏れ日の漏れる木立の合間を、猛烈な速度で移動する者たちがいた。
不規則に立ちはだかる木々を縫うように躱し、低い山野草で隠された窪みを事前に知悉しているかのように避け、眼前に横たわる倒木を危なげなく飛び越えていく。
「早い、早いー!」
先頭を行くのは軽やかに地を蹴る漆黒の狐。後ろには全部で十一人、それぞれが緋色の剛毛に覆われた大猪に騎乗して続いている。ヤマト達だ。オキクルミと風の子供たちに一時の別れを告げた後、イヅナたちの背に乗せてもらって移動することになったのだ。荷車を曳いていたツゲの使い魔、ブータローは送還され、荷物は荷車ごと後続の大猪の背に分乗されている。こうしてあと丸一日はかかる筈だった道程が、またたく間に消化されようとしていた。
セタは滅多にない貴重な体験にケラケラと笑いながら大はしゃぎだ。そしてそれとは対照的に、ツゲは真っ青な顔で大猪の背に全身でしがみついている。
「この速度で進めばあと少しで村に着くぞえ」
先頭のイヅナが地を蹴る足を緩め、ツゲの脇まで下がって声を掛けた。これだけの速度で駆けているのに、全く息切れをしていない。
「うええ……イジメかよ……早く終わりにしてくれ……」
「ふふふ、ツゲの思わぬ一面が見れたな」
弱々しい声を発して大猪の背中にしがみつくツゲに、背筋をピンと伸ばして見事に騎乗のバランスを取っているイメラが笑いかけた。
「だってこれ……ヤバいだろ……こんなに揺れて……」
「これでも気を使っているんだがな」
ツゲが乗っている大猪が面白がるように鼻を鳴らした。
「我らが本気で走ったらこんなものではないぞ? それに見てみろ、お主以外は皆、平気な顔で乗っておるわ」
「そうは……言ってもだな……うっぷ」
周囲の女性陣の心配そうな視線が集まる中、ツゲは慌ただしく口元に手を伸ばした。
「おや? 皆の衆、いったん止まるのじゃ」
突然、イヅナが鋭い声を上げた。
「何やらこの先はおかしい。妙な気配がある……」
「俺が見てこよう」
イメラが立ち止った大猪の背からひらりと飛び降りた。
「ほう、そなた確か雷光とか言ったな。……ふむ、ヒトにしては悪くない霊力の使い方をしておるの」
イヅナがイメラの体を透かすように眺め、小さく頷く。霊力の権化ともいえる大精霊に褒められ、イメラは僅かに口元をほころばせた。
「ああ、任せてくれ、"七曜姫"さま」
「――その名を知っておったか。よい、そなたに任せるとしよう。妾たちはここで待っておる、気を付けるのじゃぞ」
音もなく駆け去るイメラの背中を見送りつつ、ヤマトたちはそれぞれ大猪の背から降りた。
ありがとー、と大猪の頭を撫でるセタ、具合の悪そうなツゲに駆け寄り、甲斐甲斐しく世話を始めるアオイ。
「あの、ひょっとして村になにか……?」
イメラが消えた方向を真剣な眼差しでじっと見詰めるイヅナに、ルノがおずおずと話しかけた。ルノにとっては育った村である。その瞳には心配そうな色がありありと浮かんでいる。
「はっきりとは分からぬが、村の周りに良からぬ気配があるようじゃ」
「まさかゴブリンか!」
ナギが背中の槍に手を伸ばした。今回の目的はふもとの村の周囲にあるであろうゴブリンの巣の討伐だ。間に合わず魔物が溢れて村を襲ってしまいました、では話にならない。
「おやおや、まだ分からぬと言うておろう。焦るでない、雷光とやらの帰りを待つのじゃ。それに、もし魔物と戦うなら手伝ってもよいぞ――」
「何か妙なことになってるな……ああ、せっかく乗せてもらったのに済まなかったな」
蒼白な顔をしたツゲが、心配顔のアオイを引きつれて輪に加わってきた。
「俺も何だかヤな予感がするんだが、ここはイメラを待つしかないとして……イヅナと言ったか、本当に助かる」
自分の体の半分もない黒狐に対して深々と頭を下げるツゲ。
「で、えーと、確認なんだが……あんた達八百万の神さまは俺たち人間には基本的に不干渉と聞いてるんだけどさ、さっき魔物との戦いを手伝ってくれるって言ってたようだけど、そこまでしてくれちゃっていいの?」
「ふふふ、随分と気を使ってくれるのう」
漆黒の狐は面白そうに金色の瞳を煌めかせた。
「話は逸れるが、妾たち精霊を筆頭とした八百万の神は、八百万、つまり自然に存在する万物が永き時を経て己の裡に霊力を蓄え、神性を増して知性を得た存在。それを妾たちの言葉で付喪、というがの、そうやって付喪となった存在は土地神のようなものじゃ。自らが知性無き時を過ごした土地の調和を守るのが務めとなる。まあ、熱心さはそれぞれだけどの。ともあれ、それが本来の自然の姿であり、太古の昔からのしきたりじゃ。そうであろ、クシナダの娘よ?」
急に話を振られ、話の行き先も分からず慌てて頷くルノ。イヅナはそれを見て満足そうに話を続けた。
「だがのう、その八百万の枠組みに入らないものがいる――そなたたちヒトと、魔物どもじゃ」
「は? 俺たち、人も?」
「そうじゃ、そなたらヒトは生まれながらにして知性の輝きを持つ変り種じゃ。我らが百年以上の歳月を経て付喪を得るのに対し、ヒトは生まれて三年もすれば言葉を話し出す。明らかに異質な存在じゃ。――だが、それでも周囲の調和は乱さぬし、妾たちの言葉に耳を傾けもする。妾たちとしても興味深い存在故、そこな娘の血筋のように、見どころがある者に対しては力を貸しつつ傍で見守ったりするぐらいじゃ」
優しいともいえる視線をルノに向ける霊狐。
だが、そのイヅナの柔らかさは次に紡いだ言葉と共に霧散し、底冷えのする威圧感に取って代わる。
「性質が悪いのは魔物の方よ。いつの時代かそなたらヒトと同時にこの世界に降って沸いたらしいがの、奴らは根本的に悪じゃ。欲望のままに破壊し、己以外を喰らい尽くす。大人しくしておればまだ妾たちも干渉はせぬが、最近は目に余るようになった――ということでの、話は長くなったが、妾としてもそろそろ魔物らに身の程を教えてやる頃合いだと思っておったのじゃ。オキクルミも動き出したようだしの、この先で戦いになるのなら、このまま力を貸すのはやぶさかではないぞよ。ま、期待しておくのじゃな」
オキクルミとはまた違った底知れぬ威圧感に、背筋を震わす一同。
無言となった空間に、大猪の一頭が口を開いた。
「我らも暴れるぞ。ふふふ、やはり姐御の傍にいると退屈しない」
目を爛々と輝かせ、一斉にガリリと前脚で地面を削る大猪たち。
ひゃっ――湧き起る津波のような闘気にセタとナミが小さな悲鳴を上げ、目の前にいたヤマトの背中に身を隠した。
「ほれほれ、子供を怖がらすではないわ。安心せい、ヤマトと同様、妾が守ってやるでのう」
イヅナが大猪に向かって咎めるように鼻を鳴らし、するりとヤマトに歩み寄った。
「ヤマト、そなたを精霊の森に無事送り届けねば、そなたを心待ちにしている森の者たちに何を言われるか分からぬからの。怪我でもさせたら本末転倒というものじゃ。……しかし、そなたはほんに不思議じゃのう。そこのクシナダの巫女に常識外れの加護を与えているのはそなたじゃろ? いくら千年樹に力を授けられたとはいえ、流石に――」
「――雷光とやらが帰ってきたようじゃの。ほうほう、かの者、なかなかの身のこなしをしよる」
振り向いたイヅナの視線の先、木立の奥で何かが動いたかと思うと、流れるような動きでイメラが一同の目前に姿を現した。だが、誰もが掛けるべき声を飲み込んでしまった。イメラが眉間に皺を寄せ、とてつもなく険しい顔をしていたからだ。
「お疲れさん。どーよ?」
ツゲが真剣な表情とは裏腹の、あくまで軽い口調でイメラに問いかけた。
「……グレイウルフだ。複数の群れが、村を囲むように林に散開している」
「はあ? グレイウルフ? 散々やっつけたばかりじゃねーか」
予想外の情報に思わずイメラに詰め寄るツゲ。ざわめく一行。ヤマトにもそのおかしさは理解できた。つい数日前にスーサの町を襲ってきた千五百もの大群を殲滅したばかりなのだ。それだけの数を屠ってしまった今、少なくとも数年はグレイウルフの群れを見ることがない筈だった。
しかし、イメラは更に平然と言葉を続ける。
「総数はおそらく数百。見たのは五十ほどの群れだけだが、周囲にはおびただしい数の真新しい足跡と……中にフェンリルらしき足跡もあった」
「フェンリル……黒狼ということかの?」
イヅナがゆっくりとイメラに歩み寄った。フェンリルという呼び名は特異な発展を遂げたスーサ独自の物で、この地で一般的なのは黒狼という名だ。元々スーサの出身でないイメラはその辺りのことを熟知している。イヅナや大猪たちに向かって再度言い直した。
「そう、黒狼が灰色狼の群れを率いて村に迫っている、ということだ」
巣があることが予想されているゴブリンが村に迫っているのならまだ理解できる。だが、それがこんな組み合わせの魔物だなんて誰が予想できただろうか。ツゲが額に手を当て、首を振って頭を整理する。
イメラの間違いということはあるだろうか? いや、ヤツは狩猟を生業とするコシの民出身の自由民だ。魔物の痕跡を辿ることについてはイメラの右に出るものはいない。だとすると――ツゲの中で様々な思考が渦を巻いていく。
「……スーサに襲撃があった時、俺たち調査隊がクロモジと一緒に追っていたのはこっちの群れかもしれない」
誰も何も言わない沈黙の中、イメラがボソリと、誰にともなく呟いた。
「スーサが襲われていると連絡があって慌てて帰還したが、突然そっちに現れるなど腑に落ちなかったのだ。まさか群れが二組あったとは――」
「ヒトよ、何を騒ぐことがある。たかが魔物ではないか」
一同の背後から、大猪の一頭が静かに言葉を発した。
「灰色狼にしろ黒狼にしろ、我らが突っ込んで即座に蹴散らしてやろう」
緋色の大猪たちは実に自然体で、何の力みも見当たらない。
底知れぬ力をたたえた漆黒の霊狐、イヅナもするすると皆の前に出てきた。
「ふふふ、そのとおり、妾たちを忘れるでない。まあ、どこにどれだけの数が散らばっているかは分からぬが――なに簡単なことじゃ、当初の予定どおり村に向かって、目に入る狼どもを片端から殲滅していけばよかろ。どうかえ?」
先日のスーサの戦いでは、自由民部隊を始め住民総出で相手をしたフェンリルとグレイウルフの群れ。それを事もなげに力で押し破るというイヅナの言葉に、我が意を得たりと大いに頷く緋色の大猪たち。コシの民に神とも崇められる存在の姿がそこにはあった。
助けてもらうのはありがたいのだが――なんかとんでもない世界に足を踏み入れちまったかもしれない――ツゲは小さく頭を振った。
「……まあ、村に入っちまった方が、その後、守るにしろ何をするにしろ楽かもしんないな――」
「「「よし、ならば突撃だ!」」」
打ち合わせも何もなく一斉に大猪たちが駆け出し、頑強な四肢が地を蹴る鈍い音が周囲を覆う。
みるみるうちに遠ざかる地響き――その場には呆然とした顔で残されたツゲ、そして同行者一行。
「……えーと、行っちまった、かな?」
「うふふ、心配は無用じゃ。文字どおり猪突猛進の気はあるがの、あ奴ら山守衆の突進を止められるものなどそうはおらぬ。妾たちはゆるりと後を行けばよい」
ふさふさの尻尾を持ち上げ、軽やかに歩き出すイヅナ。
一行はしばし顔を見合わせ、慌てて精霊たちの後を追いかけるのであった。




