03話 桜の木の下で
残酷な描写があります。苦手な方はご注意ください。
「うおおおおおおおお」
雄叫びを上げて突っ込んできたヤマトを見て、悪鬼の群れは一瞬動きを止めた。
ヤマトは脇目も振らず駆け、その勢いのまま手に持った弓で先頭の悪鬼を殴りつけた。悪鬼は驚いたようだったが、やがて耳障りな声で笑い出した。
効いて、ない……
殴りつけた相手のあまりの反応にその場で立ち止ったヤマトは、はっと自分の愚かさに気が付いた。弓で叩いてどうする。幸い弦は切れていない。自分は隠れ不意打ちで矢を放て――狩りを教えてくれたソヨゴの厳しい顔が思い出され、慌てて腰に下げた矢筒から矢を探った。
その隙を突き、にやける悪鬼が棒立ちのヤマトめがけて手にした棍棒を振るった。
ヤマトはとっさに転がって避け、その先で踏ん張って振り向きざまに矢を放つ。至近距離から放たれた矢は、先頭の悪鬼の目を射抜いた。続けざまにもう一矢、今度の矢は二匹目の喉に根元まで突き刺さった。
騒ぎ立てる悪鬼の群れ。ヤマトは次の矢を番えたまま、慎重に後ずさって距離を取った。
……今度は……やられる……
ヤマトの背中を嫌な汗が伝って落ちていく。
ヤマトは無理矢理心を落ち着かせ、体内の霊力の運用を始めた。
そう、ヤマトの持つ戦う術は、弓の他にもう一つあった。
普段は下腹部でたゆたっているだけの霊力を刺激し、体中に循環させる。みるみるうちに体が軽くなっていくのが分かる。これは、ソヨゴに狩りを教えてもらうようになる前からの、ヤマト独自の方法だ。幼い頃に千年樹に手ほどきをしてもらい、その後は自分で磨いてきた。こうして霊力を循環させるとそこらの大人を軽く凌駕する身体能力を発揮できる。子供のヤマトが普段一人で狩りが出来たのも、森を抜けて村へ買い物に行けたのもこれがあったからこそだった。
悪鬼達は余裕を取り戻し、ガアガアと叫びながらヤマトを取り囲んできていた。リーダーらしき個体も肩に担いだルノを脇に投げ捨て、後ろからついてきている。
残る悪鬼は全部で四匹。後ずさるヤマト。にじり寄る悪鬼達。
抑えたヤマトの吐息が周囲に吸い込まれていく。
コン。
ヤマトの踵が、先ほど隠れていた桜の木の根にぶつかった。
同時に、右側の悪鬼が錆びた短刀で斬りかかってきた。ヤマトは右に躱しつつ、そのままひと抱えもある背後の桜を右回りで回り込み、左端の悪鬼に出会い頭に矢を放った。
鈍い音と共に矢は悪鬼の胸に突き刺さる。
すかさずヤマトは弓を放り捨て、倒れ来る悪鬼を肩で突き飛ばし、その勢いを乗せた蹴りを中央の悪鬼の膝に決めた。骨が砕ける音と共に悪鬼が絶叫した。
ドゴン!
自分でも上出来すぎる攻撃に一瞬の油断が生じたのだろうか、蹴り終えて崩れたままの体勢のヤマトの左耳に、悪鬼のリーダーの強大な拳が不意打ちで叩き込まれた。あまりの衝撃に吹き飛ぶヤマト。そのまま桜の木に背中を強打し、意識が遠のいていく。幹を揺らされた桜の木から、ひらひらと花びらが舞い落ちてくる。
……だめ!
ヤマトは下腹部で海のようにうねる霊力を、さらに循環につぎ込んだ。急速に意識が覚醒していく。
桜の木にもたれ崩れ落ちそうだった体を一気に引き起こし、目の前に迫っていた悪鬼のリーダーの追撃を、ヤマトは真上に飛んで躱した。
体が軽い。ここまで霊力を循環させたことは初めてだったが、今ならどんな難しい動きでもこなせそうだ。
驚いた表情の悪鬼達を尻目に、ジャンプの頂点で桜の幹を蹴り、悪鬼達の背後に着地するヤマト。その着地でできた膝のバネを十二分に活かし、振り返りつつある悪鬼の脇腹に電光石火の肘打ち。そのまま目の前の悪鬼のリーダーの股ぐらを蹴り上げ、たまらず屈んだ後頭部を組んだ両手で叩き落とした。
身体能力に合わせてヤマトの察知能力も強化されているようで、ヤマトは背後にいる悪鬼の気配もしっかりと把握できている。最後の一匹が腰だめに錆びた短剣を構えて突っ込んでくる。ヤマトは慌てずくるりと体を回し、そのまま前傾姿勢の悪鬼の頭を強烈に蹴り飛ばした。
ぐしゃり。湿った音を残してヤマトの脇に倒れこむ悪鬼。
これ、凄い――思わず自分の体を見渡すヤマト。これから魔法と併せて練習すべきだと思った。
――あ、魔法使うの、忘れた……
そこまで考えたヤマトは我に返り、慌てて周囲を確認した。
点々と地面を彩る桜の花びらの上で三匹の悪鬼が死に、残る三匹は少なくとも意識を失って倒れている。
これならしばらくは安全と考え、投げ捨ててあった弓を拾い、体を丸めて横たわる少女のところへ駆けつけた。
ヤマトは倒れたルノの顔を見て、胸に鷲掴みにされたような痛みを覚えた。紫色に近い青痣で彩られた痛々しい顔の、痣になっていない僅かに残された白い肌の部分、その血の気のない不吉な白さがいまわの際のメレネの顔と重なったからだ。
「千年樹の……御使い……様?」
ヤマトの気配に反応したのか、ルノが目を開け、弱々しく口を開いた。
今まで言われたことのない呼び名にヤマトは戸惑ったが、それより少女が死んでいなかったことに対する安心の方が大きかった。
「ぼく……ヤマト……これ、食べて……」
ヤマトは少女を抱き起し、背嚢から千年樹の実を取り出した。まだ目の焦点が合っていないのか、ぼんやりした表情で手探りするルノの手に千年樹の実を押し付ける。
「ありがとうございます……すごい……力が詰まってます……」
ルノはそう呟いて千年樹の実に恭しく口を付けた。うつむき加減で咀嚼するルノ。素直な白金の長い髪がはらりと顔に垂れ、透き通るような白い首筋と小さな耳が見えた。耳は少し尖っていて、ルノのあごの動きに合わせて軽く震えている。
ヤマトは元々人との会話が苦手だが、左腕で抱えるルノの背中のあまりの儚さに、更に言うべき言葉を無くしていた。空いていた右手でルノが着ている黄金色の毛皮についた泥を取ろうとして、ためらい、やめておくことにした。ただただルノの向こうに落ちている桜の花びらと、自分の左腕のルノの感触に意識を集中することとする。
「ありがとう、ございました」
会話がないまま千年樹の実を食べ終えたルノは、自分で起き上がり、ヤマトの正面に体をずらして頭を下げた。
千年樹の実の効果は抜群で、ルノの顔を覆い尽くさんばかりだった痣はあらかた消え、生来の透明な肌に生気が輝いていた。こうして見ると、息を呑むほど美しい少女だった。ただ、ひときわ目を引くその淡い空色の瞳は、どこか的外れのところに向けれらていた。
ヤマトは視線を合わせることが出来ないことに違和感を感じながら、ルノに事情を尋ねた。
ルノは生まれつき目がほとんど見えないらしく、今回の事態もはっきりと理解できてはいなかった。ただ、村が大騒ぎになり、その中で突然殴る蹴るの暴行を受けて、気がついたらヤマトに介抱されていたとのこと。所々つっかえながらも、言葉少なに話してくれた。
「……村……何かあったのかな……」
「私、分からなくて……ごめんなさい」
清楚な顔をゆがめ、今にも泣きそうなルノ。
「あの……そうじゃなくて……とりあえず、行ってみようか」
ヤマトは立ち上がり、そっとルノの手を掴んだ。
「……大丈夫……安心して……」
おずおずと言い添えるヤマトに、ルノはぎこちなく頷いた。
「体……平気?」
ゆっくりと立ち上がったルノは、今度は薄く笑って頷き、身にまとった毛皮を引っ張って整えた。
ヤマトはこの先どう会話を進めて良いか判らず、とりあえずルノの手を引っ張って慎重に歩き出した。
まだ動く気配がない悪鬼を横目にしながら、ヤマトの脳裏には嫌な予感が立ち込めていた。