37話 森の王者
翌朝、ヤマトは薄暗いうちに目が覚めた。誰もまだ起きていないようだったが、眠気はもうない。いつの間にかヤマトの腹を枕に横向きで寝ているセタの頭をそっと下ろし、静かに起き出してひんやりと冷たい泉の水で顔を洗った。
そういえば昨夜、ぼんやりと浮かぶ光の夢を見たような……。
ヤマトは静かに水をたたえる泉を見回した。朝の澄んだ空気の中、何事もなかったように泉はそこに存在し、その傍らで皆が寄り添い合うように眠っている。清々しく、現実的な朝の光景だった。自分の身体にも異常は感じられない。
変な夢……ヤマトは小さく頭を振った。
ふと気配を感じて目を上げると、ブータローがトテトテと歩いて来ていた。ヤマトの隣で泉の水をチロチロと舐める。
おはよ。ヤマトは小声でブータローに挨拶をし、背中を優しく撫でた。
さて……。
ヤマトは霊力の循環をすっかり止めてしまっている自分に気がついた。
まだまだだなあ、とひとりごち、イメラに教わったことを思い出しながら、ごくごく弱い霊力の輪を二つ作り出し、ゆったりと廻し始めた。
廻すほどに意識が研ぎ澄まされ、目を瞑っていても周囲の状況が分かるようになってくる。睡眠中の皆の気配、深くゆっくりとした寝息、微かに感じ取れる静かな生命の輝き。目が見えるようになる前のルノが見ていた景色はこれかもしれない。ヤマトはそんなことを思った。
ブータローはまた焚き火の傍に戻って行ったようだ。遠くで早起きの鳥たちのお喋りが始まっている。
ヤマトはしばらく目を瞑って霊力の循環を続けた。ギリギリまで循環量を減らしてみたり、とにかく早く廻してみたり、変化を付けながら色々と試していった。ふと気付くと、やけに鳥達の賑やかなさえずりが近い。目を瞑ったまま周囲に意識を伸ばすと、いつのまにか小さく溌剌とした生命の輝きに囲まれていた。静かに目を開けてみれば、ヤマトの周囲にはたくさんの小鳥が集まっていた。肩に止まった名も知らない小鳥をそっと撫でてみる。ピピピ、と嬉しそうに鳴き、小鳥は逃げる気配がない。
千年樹様……。ヤマトは懐かしさと共に昔を思い出した。
千年樹にはよく鳥達が集っていたものだった。ヤマトが近付くと一斉に飛び立ってしまうので、用事がある時以外は遠くから見守っていたりもした。それが今は自分に鳥が集ってきている。別れ際に千年樹がなにか力を授けてくれたことに関係があるのかな、ヤマトはそんなことをぼんやりと考えた。
突然、鳥たちが一斉に飛び立った。
色とりどりに羽ばたく翼の大群に視界を奪われたヤマトだったが、研ぎ澄まされたままの意識には、焚き火のあたりで何人かが動き出しているのが映っていた。
「あ……ごめんなさい」
鳥達が飛び立った向こう側で、アオイが目を丸めてヤマトを見詰めていた。起き抜けに広がっていた不思議な光景に息を殺して見守っていたようだが、体を起こした拍子に音を立ててしまったらしい。ルノも起きていたようで、おはようございます、と言いながら、ヤマトの隣に腰を下ろした。
「霊力の修練ですか? 千年樹様と同じ、優しい光を放っていましたよ」
ルノが泉の上に手を差し伸べると、小鳥が一羽、舞い降りてきた。優雅に伸びたルノの人差し指に止まり、ピピ、とさえずる。朝の木漏れ日を浴びて優しく微笑むルノは実に美しく、ヤマトは呆けるように見惚れてしまった。
「うふふ、可愛い。ヤマトさんのお裾分けで私にも来てくれました」
「……お裾分け?」
「はい、鳥さん達はこの優しい光が好きなようですよ――」
「おい、なんかまたスゲーなあ」
ツゲの声に、ルノの指に止まった小鳥が飛び立った。
「あ……驚かしちまったか」
ルノがクスクス笑い、おはようございますと三人で挨拶を交わした。ヤマトがひょいと立ち上がると、今のひと幕でほとんど皆が目を覚ましていたようだった。
「ヤマト君、さっきの凄いね。どうやったの?」
泉で顔を洗ったアオイが、髪を後ろで結わえながら振り向いた。隣でセタが目を輝かせ、かぶせるように同じことを聞いてきた。
「ヤマト兄ちゃん、ね、ね、どうやったの?」
「イメラさんに教えてもらった練習をしてたら……」
「おい、俺はあんなこと出来ないぞ」
後ろからイメラが困惑気味のヤマトの頭に手を置いた。
「双極廻舞のやり方自体は俺と同じだから、あれはお前だけの何かだろう。何より雰囲気が千年樹様にそっくりだった」
「やっぱりそれだよな。ヤマトの不思議はそこに行きつく」
ツゲが頷く。脇で話を聞いていたセタが、期待に目を輝かせてヤマトの手を取った。
「ねえ、セタも出来るかな?」
「……イメラさんの練習をやっていれば、ひょっとしたら」
口を濁したヤマトだったが、セタはひと飛びにイメラに突撃していった。
「イメラししょー! 練習しよっ?」
「あはは、イメラ、付き合ってやれよ」
ツゲが、苦笑いを浮かべたイメラを見て笑った。
「それじゃ、ヤマトは俺と立ち合いでもするか。アオイ、朝飯の支度を任しちゃっていい?」
「はいはい、残った女性陣で美味しいの作ってあげる。ナギもユウスゲとキスゲに修業を付けてもらいなさいよ」
ナギが絶好の機会に飛びつくようにユウスゲとキスゲに頭を下げ、そうして一行は修練組と料理組に分かれていった。
早朝の修練を適度に切り上げ、朝食を食べ終えた一行は、再びふもとの村を目指して歩き出した。
ツゲとの激しい打ち合いで何かを掴みかけたヤマトだったが、さすがに移動中は武器を収め、霊力の循環の修練に戻っていた。隣ではセタもイメラの指導を元に、霊力で二つの輪を描こうとぶつぶつ言っている。イメラ曰く筋は良いようだが、ヤマトのようにすぐには出来ずに苦労しているようだ。霊力の流れが見えるルノが時折アドバイスを入れている。ヤマトにもひょっとしたら見えるのかもしれないが、まだそこまで明確に見えている訳ではない。ヤマトはまずは自分の修業に集中しながら、一行と共に歩いて行った。
「何かが来ます!」
木々の天蓋の上で太陽がちょうど中天に差し掛かろうかという頃、列の先頭を油断なく歩いていたユウスゲが警戒の声を上げた。殿を歩いていたツゲとイメラが見事な反応速度で左右に分かれ、荷車を囲むように歩いていた女性陣の前に位置を取った。先頭のユウスゲとほぼ同時に気配を察知していたヤマトも、流れるような一挙動で背中の両手杖を手に取り、ルノとセタを荷車ごと背後に庇うようにその場で身構えた。
前方の林の向こうから、ゆっくりとこちらへ近づく大きな気配がある。まだかなり遠いが、この距離でこれだけ感じられるということは、かなりの気を放っているということだ。ヤマトの双極廻舞による生命感知には、林の向こうに見え隠れする巨大な光源として映っている。
「おい、まさかこれって……」
ツゲがゴクリと生唾を飲み込んだ。
「……精霊様」
ルノが一団の先頭に進み出て、その場にひざまずいた。
イメラも、
「分かるか、ヤマト? 千年樹様と同格か、それに近い存在だ」
小声でそう囁いてヤマトとセタの腕を引っ張るように前に進み、ルノの隣で片膝をつき、恭しく頭を下げた。
それはヤマトにもはっきりと理解できる。近付いて来るのはとてつもない存在だ。穏やかな千年樹とは違い、神々しさと猛々しさが混じった畏怖すべき存在。だが、不思議と恐怖はなかった。ヤマトは圧倒されつつも、呆然と立ち尽くしてそれが近付いて来るのを眺めていた。
どれほどの時が経っただろうか。いや、実際にはそこまで時間はかかっていないはずだった。神とも思えるその存在は着実にヤマト達に近付き、やがて木立の中からその姿を現した。
それは、王者の風格をまとった、双尾の白い虎。絶対的強者の威風と、氷山のような気高さを併せ持った稀有な存在だった。
純白の毛皮を奔放に網羅する黒縞に、深く輝く黄金色の瞳。力強く伸びた体躯の奥で、二本の太い尾が悠然と揺れている。森の王者は真っ直ぐに木立の中から歩み出ると、呆然と己を見詰めるヤマトの前で脚を止めた。
――迎えに来たぞ、精霊の森の新たなる主よ。
年を経た深い声が、ヤマトの頭に割れ鐘のように響いた。




