01話 旅立ち
――で、これからどうするのだ?
声ならぬ声を受けて、少年が顔を上げた。
うららかな春の日、見晴らしの良い丘の上、まばらな木立の下。
真新しい墓の前で少年は膝をついていた。年の頃は十二か十三、一見華奢にも見えるが、若い牝鹿のような瞬発力を感じさせるしなやかな体つきをしている。
黒髪、うっすらと日に焼けた白い肌。思慮深そうな大きな青灰色の瞳には深い悲しみが湛えられている。
穏やかな微風が、優しく少年の髪を揺らす。
少年の名はヤマト。
墓の主は少年の育ての親。長患いをしていたが、先日、ついに帰らぬ人となった。
ヤマトはなんとか独りで墓を作り、昨日ようやく埋葬を済ませることができた。
だが、それはつまり、ヤマトが名実共に一人きりになったことを意味する。
「……ソヨゴのところ……行く……」
ヤマトは声ならぬ声に答えた。人と話すのは苦手だったが、それはもう決めたことだった。見上げる先は、巨大な樹。
――我は、ついては行けぬぞ。
「一人で……大丈夫」
そう言うとヤマトは立ち上がり、巨木に歩み寄った。ごつごつしたその幹にそっと手を添える。
「……ありがとう……これまで、千年樹様のお陰」
巨木の名前は千年樹。想像もつかない歳月の間この地にそびえ立ち、いつしか神性を持つようになった存在。周囲一帯の森の成長を助け、見守っている森の主。
赤子だったヤマトと乳母代わりのメレネを引き合わせ、自らの森の最奥で保護し、時に食糧を世話してくれた。
メレネは病で世を去ってしまったものの、魔獣が跋扈し人の生命が軽いこの世界で、ここまで安全に暮らしてこれたのはひとえに千年樹の加護の賜物だった。
――我が友の頼みじゃ。お主に礼を言われることではない。
巨木の声は深く穏やかで、慈しみすら感じられた。遥か上の方で枝が揺れる。
「でも……ありがとう……父さんと母さんいない……寂しくなかった……千年樹様とメレネの……お陰」
今、メレネは目前の真新しい墓の中で永遠の眠りについており、その事実にヤマトの胸はズキリと痛む。
メレネは長患いで日に日にやつれていったが、その優しい微笑みは最後まで陰ることはなかった。先月ヤマトが十二歳の誕生日を迎え、二人でささやかな成人のお祝いをした晩、無理にはしゃぐメレネの軽口が今も胸に残っている。
「里に下りても……メレネとの約束……お嫁さん……貰えるか分からないけど――」
ヤマトは少し恥ずかしそうに口ごもり、その長いまつ毛を伏せた。
「色んなところ……見てみたい」
――そうだな。お主は父親と同じことを言う。あやつの姿が目に浮かぶようじゃ。
巨木はそう言うと、しばらくの間、微風に枝をなびかせた。
穏やかな沈黙が辺りを包み、やがて巨木はいつ出発するつもりか少年に尋ねた。
「これから……片付け……明日……行く」
伏し目がちに答えるヤマトに、巨木は静かに告げた。
――ならば明日の朝、もう一度ここに来ると良い。渡す物がある。
ヤマトは頷き、そっと巨木を抱きしめると、小屋に向かって歩き出した。
その日の午後一杯を使って、ヤマトはメレネと暮らした小屋を片付けていった。
小さく粗末な小屋だったが、細かい生活道具ひとつひとつにメレネとの思い出が詰まっており、何度も途中で手を止めて涙を拭った。二人で作った素焼きの器、獣皮を縫い合わせて作った寝具、魔術の練習に使った魔石――あれだけメレネが根気よく教えてくれたのに、ついに魔法を習得することは出来なかった。
メレネが言うには、あとは放出するだけとのことだったが、どう頑張ってもヤマトにはそれが出来なかった。魔法が使えれば危険も減り、生活も安定する。自分の死期を悟ったメレネは自分の体調も顧みず、起きている時間のほぼ全てを使って粘り強く教え続けてくれた。
ヤマトも暇さえあれば自身の中で魔力を高めて練り上げ、練習に励んでいた。ただ、練り上げるところまでは良いのだが、結局、それを現象として体外に発現することは遂に叶わなかった。どうにか放出しようとあれこれ試し続けたお陰で体内での魔力制御能力は上達し、持ち前の魔力の多さも相まって、皮肉なことに気配だけは熟練の魔法使いとなってしまったが。
ヤマトは手に取った魔石を箱にしまい、メレネを思い出しながら最後にもう一度、いつものように魔力を練ってみた。周囲に漂うマナを取り込み、自身の魔力と合わせて増幅させる。体内で大きな力が形成され――やはり放出は出来ない。
ヤマトは小さく首を振ると、いつものように練った魔力をじんわりと霧散させていく。魔力を塊として、現象を作るほど一気に放出することは出来ないが、こうして少しずつならヤマトにも放出できるのだ。体内でうねる魔力があらかた無くなった頃、ヤマトは自身の中のもう一つのうねりに気が付いた。それは千年樹が言うところの霊力、千年樹に触れたり、長く傍にいると特に刺激を受けるものだったが、今日も例に漏れずヤマトの中の霊力は大いに活性化されていた。
ヤマトはあまり深くは考えずに、なんとなしに放出を続ける魔力に活性化された霊力を少し混ぜ込んでみた。
すると、普段はけして混ざることなく、どちらかというと反発する二つの力だったが今回は違った。体の奥底でカッと光が生じたような感覚と共に、残された魔力が一気に放出されたのだ。
小屋の中では、風が渦を巻いて吹き荒れている。
「……魔法が……できた?」
呆然とするヤマト。風は唐突に収まり、やがて一筋の涙が立ち尽くすヤマトの頬を伝った。
「メレネ……できたよ……できたよ……もう、心配……いらない……」
以前に増して散らかってしまった小屋が片付いたのは、夕闇が近づいた頃だった。
見慣れないガランとした空間に胸を締め付けられたヤマトは、片隅で体を小さく丸め、眠りがやってくるのを待った。
ソヨゴのところ……大丈夫、だよね……。
寝る体勢を整えたものの、ヤマトになかなか眠りは訪れなかった。色々な事が頭に浮かんでは消えていく。
これから訪ねようとしているソヨゴは、メレネの古い知り合いで、千年樹の実を貰いに来がてらふた月に一度はここに訪れている人物だ。
ソヨゴは自由民で、魔獣を狩ったり頼まれ事を請け負ったりして暮らしを立てているらしい。来る度に何日か滞在して、小屋を直したり色々と力仕事をしていってくれる。本人曰く、実を貰うための千年樹との交換条件とのことで、千年樹の実は治癒の効果があり、高値で売れるそうだ。
毎回ヤマトにお土産を持ってきてくれ、弓と狩りを始め、色々なことを教えてくれた。人との会話が苦手なヤマトだが、ソヨゴは優しかった。
いつでも俺のところに来ていいんだぞ――ソヨゴの真剣な眼差しを思い出す。メレネが病に倒れてから、何度も二人に言ってくれた言葉だ。
始めのうちメレネが強く拒否していたが、前回ソヨゴが来た時には、次にソヨゴが来る時に一緒に行くこととなっていた。時折ふもとの村に買い物に行く以外はここの生活しか知らないヤマトには戸惑いしかなかったが、メレネの思い詰めたような態度に逆らうことは出来なかった。
じゃあふた月後な、そう言って帰って行くソヨゴの背を見送ったその二日後、メレネの容体が急変し、やがて息を引き取った。
ヤマトにとって幸いだったのは、いまわの際にメレネの意識が戻り、最後にわずかでも話すことができたことぐらいだ。
メレネは最後に告げた――人を、信じて、と。
メレネはいつも知らない人に怯えていて、以前ヤマトが尋ねた時に、とても酷い目にあったと言っていた。その時の怖さを忘れることができないのだ、とも。
――でも、だからと言ってヤマトまで殻に籠ることはないの。ううん、分かってる。私がヤマトを引っ張ってしまった。本当にごめんなさい……
メレネは蒼白な顔に涙を浮かべ、ヤマトの手を握りしめた。
――ヤマトに出会えて、本当に良かった。私、十二年前、死のうと思ってこの森に来たの。そうしたら、千年樹様の声がして、呼ばれて、赤ちゃんのあなたに会って。私を守ってくれる代わりに、あなたを育てるように頼まれた。
メレネは少し咽せたが、うっすらと微笑みを浮かべて話を続けた。
――あなたは千年樹様にとって、とても大切な存在だったみたい。でも、それからの私にとっては、それ以上。あなたがいたから、私は生きてこれた……
そこでまたメレネは咳き込み、目を瞑って脱力した。蒼白な顔からさらに色が抜け、吐息も弱々しい。ヤマトはすすり泣くことしか出来なかった。
――あなたには、すごく不思議な力があるわ。自分を信じて、たくさんの人と出会って、そして人を信じて、幸せになって……
それがメレネの最後の言葉だった。
メレネの埋葬を済ませた今、ヤマトとしては、ふた月後にソヨゴが来るまでここで待っていても良い。
人と話すのは苦手、町でうまく暮らせるかの不安もあり、出来るだけ先延ばししたいのが正直なところだ。千年樹には明日発つと言ったが、伸ばしても良いのではないか。
……だけど、ぼくももう成人……いつまでもここに居たら……ダメ
ヤマトは弱気な自分に心の中で言い聞かせた。
一人での旅に不安はない。毎日の狩りでこの森はヤマトの庭のようなものだし、ソヨゴの住む町まではその先三日で着く。
……僕は……強くなる……。
ヤマトはようやく眠りについた。
翌朝、旅支度を終えたヤマトは、振り返りつつも小屋を後にした。
普段着の上に獣皮のマントを羽織り、背には小さな背嚢と小ぶりの弓。いつも狩りに行く恰好より少し荷物が多いだけの身軽な旅支度。
初めての長旅だが、ふもとの村まで一日、そこから身を寄せるソヨゴの住む町まで三日ほどの行程だ。
大きく息を吸い、千年樹の下へ足を向ける。
――来たか。
いつもと同じ、深く穏やかな声で千年樹がヤマトを迎えた。
今日まで常変わらぬ愛情で自分を見守り、育ててくれたといっても間違いではない相手。いつもと同じ落ち着いた声の下に、秘めた寂寥感があるのをヤマトは敏感に感じ取っていた。
いくら存在自体が根本から異なるとはいえ、その相手を置いて自分は離れていく。
ヤマトは込み上げてくる思いをどうすることもできずに、ゆっくりと巨木を見上げた。
――そんな目で見るな。全てのものは移り変わっていくのが定め。まずはその実を持っていくが良い。何かの足しになるじゃろう。
一拍置いて視線を下げたヤマトは、傍らに積まれた千年樹の実を見やる。真っ赤に熟れたこぶしほどの実には、いつもより力が多く込められている気がした。大抵の怪我ならこれ一つで治せてしまうレベルだ。
――そして、もうひとつ、ささやかながら我の力を授けよう。この場を動けぬ我の、せめてもの餞別じゃ。さ、頭を垂れよ。
千年樹の声には有無を言わせぬ何かがあり、言われるがまま巨木の前でひざまずくヤマト。その全身を、柔かな光が包んだ。
そして、天に向けて語りかけるような千年樹の声が辺りに漂う。
――我が名は千年樹。見守り、育てる者なり。
――我が長きに亘って慈しみ、力を注ぎ、育てたこのマレビトの仔に、我の力を分け与えん。
ヤマトを包む光が徐々に強さを増し、そして消えた。
陽だまりのような心地よさに包まれていたヤマトは、はっとして顔を上げた。
ひらり、ひらりと千年樹から葉が舞い落ち、遠くから厳かな声が聞こえてくる。
――ヤマトよ、お主に我が力を授けた。お主が心の底から守りたいと思う相手、そして心から信じる仲間が出来た時、この力は役に立つじゃろう。これがこの場を動けぬ我のせめてもの餞別じゃ。
――お主と共にいたこの年月、あっという間じゃったが、お主は立派な成人となった。生きていくに充分な力も身に付いているようじゃ。そしてなにより、お主は誇り高きマレビトの仔、これ以上ここに縛られることはない。
――この先も常に己を磨け。そして、その力に奢らず、強く生きよ。
――さあ、まだ話し足りぬが、少々力を使い過ぎたようじゃ。何年か眠りにつかねばならぬ。さ、ヤマトよ、お主の未来に向かって、行け!
一面の落葉と共に、急速に遠ざかっていく千年樹の気配。
待って!――ヤマトが叫ぼうとした時には、いつもの穏やかな気配はなくなっていた。目の前には、物言わぬただの巨木がそびえ立っているだけだ。
春だというのに静かに舞い落ちる葉々。
ヤマトはしばし呆然としゃがみ込んでいたが、やがてゆっくりと立ち上がった。その青灰色の瞳には決意の色が浮かんでいる。
「……本当に……ありがとう」
傍らに残された真っ赤な果実をそっと背嚢にしまい、すっかり葉を落とした裸の巨木を目に焼き付けるように、ヤマトはゆっくりと後ずさった。
「……行ってきます!」
最後の一瞥と共にそう告げると、ヤマトはくるりと振り返り、前に向かって歩き出した。