六話「氷の蔀よ花開け」
***六話「氷の蔀よ花開け」***
朝の電車に立ったまま揺られながら、弓月は生気のない顔で溜息をついた。
昨日はあまりの出来事に一睡もできなかった。
偽物の弓月から飛び退く朱珠。その後ろへ近づく黒い影。
そして朱珠に深々と突き刺さる大鎌、飛び散る鮮血。
脳裏に焼き付いたその光景は、思い返すたび動悸が激しくなり足が震え戦慄する。
そう言えばおかしなことがあった。
あの黒髪の男が最後に"早く行け!"と言っていたのだ。
あの時の僕らはどうにでもできたはずなのに自ら飛び去った。
いや、今はそんな事どうでもいい。
弓月はそっと目を伏せた。
◇ ◇ ◇ ◇
男が山の奥へと飛び去った方を呆然と見つめていた弓月は
苦しそうに咳き込む声を聞いてはっと我に返り、足をもつらせながら朱珠へと駆け寄った。
「朱珠!!」
片膝を付き腹を押さえている朱珠の肩を掴み泣きそうな顔で叫ぶように言った。
白い着物は血に濡れて殆ど真っ赤に染まり、
紫の着物もまた赤黒く染まっており、思わず目を逸らしたくなる。
偽物の僕によって朱珠は油断してしまい、ひどい傷を受けてしまった。
これは結果としては僕の存在が朱珠を油断させてしまったのではないか。
そんなことを考えて面差しが翳る。
弓月の表情からそれを読んだのか、朱珠が血で汚れてない方の手でぽんぽんと頭を叩いた。
「またそんな顔して……大体お前の考える事わかる。俺は、大丈夫だ……」
「全然大丈夫じゃないよ……!!」
泣きながら言う弓月を、朱珠が優しくあやすように頭をぐしゃぐしゃとかき回してくる。
朱珠は最後にぽんぽんと頭を軽く叩くと、足に力を込め少しよろめきながら立ち上がった。
立っちゃ駄目だよと慌てふためく弓月は声を上げた。
「あっ!そうだちょっと待ってて!包帯買ってくる!!」
さすがに病院に行くわけにはいかないだろう。
名案だと言わんばかりに勢いよく立ち上がり踵を返そうとする弓月を、朱珠は制した。
「ありがとう」
一瞬痛みに顔を歪ませると、手を一線して風を創り弓月の体をふわりと持ち上げた。
「えっ?!」
驚いて朱珠の方を見ると、血のこびり付いた口元がふっと緩んだ。
まさかというように弓月は目を丸くした。
「降ろして!!」
叫びながらもがくが風は弓月を捉えて放さない。
「俺は少し山で休むから。お前は先に帰っててくれ」
朱珠が手をひと振りすると、風は意思を持っているかのように弓月を空高く持ち上げた。
そして手を伸ばし抵抗するも虚しく、弓月は家の方へと飛ばされていった。
◇ ◇ ◇ ◇
弓月はひとつ頭を振った。
自分が足でまといだと考えるのはやめると決めたのだ。
しかしあの時は朱珠の名を呼ぶことしか出来なかった。
――やっぱり守るための力が欲しい。
弓月は唇を噛み締めた。
ふと、乱兎が心配そうに見つめているのに気がついて、弓月はひとつ瞬きをした。
「大丈夫か……?」
はっと目を丸くし乱兎を見る。
乱兎が本気で心配している。
また顔に出ていただろうか、いや、見抜かれてしまった以前に
乱兎が本気で心配した声音で"大丈夫?"などと声をかけてきたことがあっただろうか。
弓月の表情から何となく感じ取ったのか、
今度は乱兎が目を丸くし妙に怒ったように返した。
「……っ!べ、別に心配してるわけじゃないし!
お前が暗い顔してるとこっちまで暗くなるからやめろっての!」
そっぽを向く頬が少し赤い。これがツンデレというものか。
と思ったが口に出せば大惨事なので、口には出さず代わりの言葉を口にした。
「大丈夫だよ」
言った後にしまったというように目を泳がす。
いつも通り平静を装おうと努めたが叶わず、自分でも驚く程小さく弱々しい声だったのだ。
横目で弓月の様子を確認して乱兎が些か不機嫌そうに訊ねる。
「昨日、あの後何があった?って聞いてもどうせ教えてくれないんだろ」
「ごめん……」
目を逸らしてうなだれた。
今はまだ話す気にはなれない。
「別にいいよ……」
申し訳なさそうに顔を曇らせる弓月を見た乱兎が、
ほんの少しの寂しさをにじませた声音で呟いた。
幼馴染だというのに、話してくれない寂しさ。
再びごめんと漏らしながら、弓月は窓の外に視線を移した。
朱珠の安否が気になる。
「朱珠……」
乱兎に気づかれないようにそっと呟いた。
+ + + +
弓月を風で家まで送り飛ばした朱珠は、再び崩れ落ちがくりと膝をついた。
不自然に速くなる息を整えると力なく空へ飛び上がり、
傷口を押さえながらふらふらと辻山まで飛び山積神社へ向かった。
境内の泉の傍にある木にもたれかかるとずるずると崩れ落ちるように座り込む。
慣れ親しんだ山の雰囲気に少しだけ安堵したようにほうと息を漏らした。
しかしずきりと傷が痛み、一瞬顔を歪める。
神の血を引く朱珠は人間とは比べ物にならない回復力の持ち主だ。
血は先ほどよりは止まっているが、まだじわじわと滲んでくる。
思ったより傷は深くて大きい。
「……くっ…」
油断してしまった自分が憎い。
腕についた血が乾き赤黒く変色しているが後で洗えば全く問題ないだろう。
着物も破れ血で汚れてしまったが、
これも朱珠の神通力で創り直す事ができるので問題ない。
そんな事を何となく考えていた朱珠の意識はいつの間にか落ちていった。
どれほどか経った後横に気配を感じ目を覚ますと、
少し離れたところで大山積神が佇み朱珠を静かに見つめていた。
何を考えているのか読めず、朱珠は目を瞬かせると目を逸らした。
「ふん、ざまあないだろ……」
「……」
無言は肯定か。自嘲気味の笑みを浮かべた朱珠は傷口にそっと手を当ててみた。
傷口から滲んでいた血はすっかり止まっている。これなら動けそうだ。
朱珠はそっと嘆息すると、一刻も早く弓月の元へ帰るために膝に力を込め立ち上がろうとした。
「座れ」
大山積神に静かにしかし威圧ある声音で言われ、
朱珠は金縛りにあったかのようにぴたりと動きを止めた。
次の瞬間少しふさがり始めた傷口から再び血が滲み出て、朱珠は眉根を寄せ仕方なく再び腰を下ろす。
大山積神がゆっくり近づき朱珠の前で膝を折ると、傷口に手を当てた。
手から淡い光が溢れたかと思うと一気に体が軽くなり、目を丸くした。
傷口が塞がったわけではないが、疲労は取れたようだ。
封印を抑えなければいけないというのに、わざわざ俺の疲労を取るために力を使ったのか。
放っておけばいいものを。
そう思いながらも朱珠は少し嬉しくもあった。
「すまん……」
背を向けて立ち去ろうとした大山積神は一瞬動きを止めると掻き消えるように姿を消した。
今すぐにでも弓月の元へ飛んでいきたいが大山積神の好意もあるし、
何より傷の治りきっていない弱った姿を見せては弓月が心配するにちがいない。
もう1日も休めば不自由なく動けるようになるだろう。
朱珠はもう一度目を閉じた。
* * * *
弓月はこれ以上ないほど焦っていた。
友人2人に壁際に押し迫られ、逃げ場がない状態なのだ。
冷や汗が背中を流れ落ちる。
これが壁ドンというものか、否、ダブル壁ドン!!
いやいや、そんな事を言っている暇は微塵もない。
どうにかしてこの場を切り抜けなければ。
どうする、僕。
「お前が駄目って言っても一緒に帰るから」
ぱっと乱兎の方を見る。
「オレも今日はおめぇの住んでる方にちょっと用事あるし、一緒に帰るぜ~!」
ぱっと玖遠の方を見る。
「えええ……!無理無理!僕一人で帰らせて!」
両手を顔の近くに上げながら断る弓月に、更に押し迫りながら玖遠が食いつく。
「どうしてだ~?何か用事でもあんのか?」
「え、あ、う、うん!そうだよ!」
ナイス質問!
よし、これで逃れられる、そう思ったのも束の間。
「あ、嘘だな~この顔~!おめぇほんっとわかりやすいよな、へへへ」
弓月の嘘を瞬時に見破った玖遠がにやっとする。
どんだけ自分は顔に出やすいんだ、と渋面になりながら弓月はうめく。
「ううう、よ、用事が……」
なおも言い募る弓月に乱兎が畳み掛ける。
「そんな沈んだ顔したやつ一人でほっといたら、
なんか道路に飛び出して自殺とかされそうだし」
「そーだ!そーだ!」
「えええ……」
乱兎の無茶苦茶な言い方に弓月は何も言い返せず、
2人の熱い眼力に、弓月は諦めたというように溜息をついた。
昨日の男のこともあるし、再び首飾りを狙われたという事もある。
今日の帰りに襲われないとう確証はないのでできれば一人で帰りたかったが、
心配してくれる友人の気持ちも無下には出来なかった。
もし襲われたとしても狙われるのはこの首飾り。
敵を引きつけて2人を逃がすくらいならできるだろう。
一方、苦虫を噛み潰したような顔で溜息をついた弓月を見て、乱兎と玖遠は顔を見合わせてにやっとした。
玖遠のいい考えとはこのことだったのだ。
何があったかは知らないが少しでも気が紛れるように、強引に一緒に帰る!
名付けて、強引に一緒に帰ろうぜ作戦!わーパチパチ
単純なことだが確かに一人で居るよりいいかもしれないと、乱兎は作戦にのったのだった。
* * * *
帰りの支度をして一同は一緒に教室を出た。
玄関を出るとすぐ目の前が門になっており、その道はレンガが敷き詰められている。
両脇には楠が植えられている。
その道を無言で歩いていると、学園の門を出たところに子どもが立っているのが見えて、
弓月は瞬きを一つして声をかけた。
「瑪瑙くん?こんなところで何してるの?」
「ああ、弓月さん、よかった……今朝とても思いつめたような表情をしてらしたので、大丈夫だったかなと」
「え」
弓月がきょとんとする。
そのやりとりに首をかしげたのは乱兎だ。
「ん?お前朝こいつと会ったの?」
腕を組み胡乱げに眉根を寄せてみせる乱兎を見て、弓月は首を横に振った。
「何だそれ、ストーカーみてぇだな!」
手を腰に当て面白そうに笑う玖遠を、瑪瑙は一瞥すると首をかしげた。
「すとーかー?よくわかりませんが……あの、折角なので僕もご一緒してもよろしいでしょうか?」
「別にいいけど……お前何者?」
乱兎が訝しげな表情で子どもを上から下までじろじろ見た。
よく見れば、横を通り過ぎてゆく他の生徒もじろじろと見ながらその場を去っていく。
それも無理はない。
横でゆるく一つにまとめた白髪に珊瑚色の双眸、そして濃い浅葱色の着物を着ているのだ。
どう考えてもそこらにいるような子どもではない。
そんな子どもの表情に乏しい顔が一瞬緩む。
「秘密です」
「答えになってねぇよ」
「まぁいいじゃねぇか~みんなで帰ろうぜ!」
玖遠が3人の肩に手を回しながら豪快に笑った。
かくして4人で帰ることとなった。
* * * *
「ぐっ……や、め……」
山奥に降り立った黒髪の男は頭を押さえ悶絶していた。
木にぶつかる様にもたれかかりしばらくうめいていたが、ふと動きを止めて顔を上げると
先程までの苦しみ様が嘘のように静かな表情をしていた。
その時後ろに気配を感じ、男は緩慢に振り向く。
木々の影から黒い直衣に身を包んだ陰陽師が歩み出た。
「弓月君、足でまといだってあんなに悩んでたのに、
今度は守りたいとか言って意気込んでるし……実に鬱陶しい……」
目に暗い光を灯す。
「……面白い。少しからかってやれ」
ふと表情を消し静かな声音で言いつけた。
ひと呼吸後、男は陰陽師から視線を外すと、羽を広げて空へと飛び上がった。
* * * *
電車を降りた後、取り敢えず唯一の女の子である乱兎から家に送ろうということになった。
右を見ても田んぼ、左を見ても田んぼ。遠くには畑。周りは山々山。
いつ見ても田舎だなぁと思う。
もう少し歩けば、乱兎の実家の八幡神社や古びたスーパー、民家が見えてくるのだ。
夕方の西陽が照りつける。
桜の季節もとうに過ぎ次は夏。西陽も段々と強くなっているようだ。
緑に囲まれた人気のない道に無邪気な声が響く。
隣で乱兎と玖遠が言い合い、そして逃げる玖遠を乱兎が追いかける。いつもの2人だ。
そんな様子を眺めながら弓月は小さく溜息をついた。
大体こうして一緒に帰ろうと誘ってくれたのは僕が元気がないからだ。
朱珠の事は心配だが、本人が大丈夫だというのだから大丈夫に違いない。
いつまでも自分が暗かったら2人にも申し訳ないなと、弓月は短く息をつくと隣の瑪瑙に話しかけた。
「そう言えばこの前言ってた言葉、力とは何のための力、強さとは何、だっけ?」
「ええ、はい」
「あの後考えたんだけどさ、今まで朱珠の足でまといになりたくなくて力が欲しいって思ってたけど、
よく考えたら僕の首飾りが原因で襲われてたわけだし……
だから、首飾りを守るために力が欲しい、強くなりたいなって。
まぁ言ったところで努力しないと強くなれないけどね。
・・・でも、本音を言えば、守るためとは言っても誰かを傷つけるのは本当は好きじゃない」
しかし首飾りや大切な友達が傷つけられるというのならば、闘う。
あと、昨日の黒髪の男だってまだ生きている。このままではまた悪鬼への贄を集めるだろう。
封印を守らなければ。
少し先で玖遠が乱兔につかまり締め上げられてるのを見ながら目を細めた。
「やはり貴方なら……」
「ん?何か言った?」
「いいえ、なんでもありません。守るため、いいですね」
瑪瑙が柔らかく目を細めた。
「ありがとう。……あ、そう言えばずっと気になってたんだけど、
前に力が怖いって言ってたけど……なんで?」
こんなこと聞くことではないかもしれないが、どうしても気になった弓月は疑問を口にしたのだ。
瑪瑙は立ち止まり一瞬逡巡したのちに自分の手を見つめるとそっと口を開いた。
「それは……力があっても守れず、それどころか傷つけてしまうから、怖いのです……」
瑪瑙の顔が翳る。
その横顔を見て、なんと返そうか言いあぐねていたその時。
「……っ!!」
突然ぞくりと悪寒が走り全身が総毛立った。何度も感じたこの感覚。
妖気、邪気というものがどんなものか何となくわかってきたが、慣れるものではない。
本能が危険を感じて心臓が早鐘を打ち出し、背中に冷たいものが走る。
「弓月ー?どうした?……?!」
着いて来ない弓月に気付いた乱兎が玖遠を手放し、口に手を当て弓月を呼んだ。
その乱兎も何か感じたようで怯えたようにとっさに周りを見回した。
玖遠も何事かと剣呑に眉根を寄せている。
気配を感じ弓月が背後を振り返った次の瞬間、近くの山から地面からぞろぞろと異形や怨霊が出現した。
ねっとりとした邪気が息を吸う度に喉の奥に絡みつき、息苦しさを覚える。
想像していた最悪の事態だ。
今日は一人なんだろう?とでも言うように異形が嗤っている。
兎に角3人に逃げろと言わなければ。そう思って振り返ったその時だった。
「がはっ……!」
「きゃあああっ!!」
腹部に拳を叩き込まれうずくまる玖遠、そして無造作に片手で抱きかかえられる乱兎の姿。
弓月はこれ以上ないほど目を見開いた。
乱兎を抱えているのは昨日の黒髪の男なのだ。
昨日の情景がぱっと脳裏に浮かび、無意識に足が震える。
弓月は頭が真っ白になった。
「は、放せ!!!」
乱兎が男の腕の中で暴れて悲鳴のような叫びをあげているが、全く逃れることさえできない。
その悲鳴に見向きもせずに、地を蹴って空に飛び上がった男が弓月を見下ろして蔑んだ。
「お前は仲間一人守れない」
男の冷淡な言葉に、雷を落とされたかのような衝撃が走る。
弓月は瞠目し、瞬きを忘れた固まった瞳で男を凝視する。
視線をそらすことができない。
男はふっと嗤い、そのまま後退しながら羽ばたかせて飛んでゆく。
後ろでは玖遠が腹を抑えて立ち上がり、口元についた血を手で拭いながら歯噛みして叫んだ。
「う……くそっ!待て!乱兎!乱兎!!」
「た、助け……っ助けになんか来るなよ!!!」
乱兎を抱えた男の姿はみるみるうちに小さくなっていき、
代わりに異形がじわじわと囲んでゆく。
咳き込むと殴られた腹部が痛み、押さえる手に力がこもる。
「くそっ……」
玖遠は舌打ちして歯噛みして制服の内ポケットに手を忍ばせた。
弓月は立ち尽くした。
あっという間の出来事だった。
乱兎が目の前で連れ去られたというのに、昨日の出来事に恐怖し全く動くことさえできなかった。
力があったらそれを阻止できたのか?
わからない。
兎に角、今の僕ではどうすることもできなかった。
この中で異形と闘う術は自分しか持ち合わせていないのに、
守れなかった。
前には多数の異形が行く手を阻むかのように立ちふさがっている。
乱兎を助けに行くためにはここを突破しなければ。
しかし突破する力もない。
"お前は仲間一人守れない"
男の言葉が頭の中で鳴り響いている。
守れない。
とてつもない絶望感が弓月を襲う。
――でも……!!
弓月は目をぎゅっとつぶった。
もうぐじゃぐじゃで何が何だか分からない。
守れない、守りたい。助けたい。力が欲しい。
「うわぁあああ――……!!」
叫んだその時だった。
弓月の高まった感情に呼応するかのように、首飾りの朱色の珠が燃えるように光って霊力が一気に膨れ上がった。
力に翻弄された弓月のマフラーが大きくうねる。
胸が苦しくなって胸を抑えたその刹那、
目の前が一気に明るくなり、ぱきぱきという何かが凍る音と衝撃波が襲った。
驚いて手を翳しながら薄目を開いてみると、長い白髪のぼんやりとした人影が見えた。
水色の着物と透き通る羽衣が柔らかく大きくうねり、光に照らされた髪の毛は艶やかに光りながら踊っている。
光の中に見えるその姿は神々しい。
見とれているうちに光が収まり、見ると先程まで異形の居た所一面に氷が張っていた。
異形を閉じ込めた氷は四方八方に枝を伸ばして凍っている。
光を受けて美しく輝くそれは、まるで氷の花のようだ。
こんな状況だが見とれていると、氷はぴしりと音を立てて中の異形と共に、光の粉を残しながら粉々に散っていった。
異形を凍らせた張本人が振り向いた。
淡く光を放つその姿はうっすら透けている。
息をするのも忘れていた弓月は、瞬きをひとつして首をかしげた。
「・・・?」
横髪の先だけ桃色に染まった長い白髪。右目を隠すほどの長い前髪。
憂いの見え隠れするつり上がった冷たい珊瑚色の双眸。
まじまじと見れば見るほどどこか親近感のある容姿に、弓月は首をかしげて周りを見回した。
辺りには先ほどの衝撃で地面に倒れた玖遠が腹を抱えてうめいている。
しかしもう一人見当たらない。
顔を正面に戻し、前のめりになりながらそっと訊ねた。
「……も、もしかして瑪瑙?」
「そうだ」
目をそらしながら肯定した彼のその目は嘘は言っていないようだ。
しかしまぁ。
「どういうこと……?」
一体何が起こったのか、どうして瑪瑙がこんな姿になったのか。
理解が全く追いつかない。
怪訝そうな顔をして肩につくくらい首を傾げ、頭に大量の疑問符を飛ばす。
瑪瑙はつり上がった切れ長の目をそっと伏せながら前を向き、そっと弓月を見定めた。
その真剣な雰囲気を感じて弓月は傾けた首を元に戻して、ごくりとつばを飲んだ。
「助けたいか」
透き通る落ち着いた声だが、しかし重いものを込めた声音で弓月に問う。
「え……」
「あの者を助けたいか」
「う、うん……!!」
見極めるかのようにもう一度問われ、今度は力を込めて答えた。
乱兎を助けたい。友達を守りたい。
強く願い、瑪瑙の目をじっと見据えた。
しばらく見つめあった後、瑪瑙が口を開いた。
「ならば、汝に力を貸そう」
瑪瑙はそう言うと両手を胸の前に掲げた。
すると小さな氷の結晶が現れ、手の中に吸い寄せられるようにふわりと集まり、
小さくぱきぱきと音を立てて護符へと変わっていく。
瑪瑙がそっと手を前に差し出すと、手の中で浮いていた数枚の護符は氷の結晶をまといながら
弓月の元へふわりと飛んできた。
目の前で浮かぶ護符の下に恐る恐る手を添えると、ひやりとした冷気が伝わってくる。
やがてまとった結晶が消えると、浮力を失った護符は弓月の手の中にふわりと落ちた。
「その護符を使うがいい」
「でも何で僕に力を貸してくれるの……?」
「汝のためではない。我の償いのためだ」
目を細めて言うと、瑪瑙は袖を広げ、ゆっくりと空中へ舞い上がった。
「待って瑪瑙!」
わからないことが多すぎる。弓月は手を伸ばして制止した。
「瑪瑙というのは我の仮の姿、仮の名前。我は氷神。氷花神社の祭神である」
言い終わるが先か後か、氷神と名乗った瑪瑙は氷の結晶を煌めかせながら空に消えた。
弓月は伸ばした手を降ろしながら、瑪瑙の消えた空を呆然と見つめた。
あの氷花神社の祭神だと言っていた。瑪瑙の正体は氷神。
もう片方に握られた護符にそっと目をやった時。
「弓月!弓月ーー!!!!」
少し遠くから自分を呼ぶ聞きなれた声が聞こえ、
弓月は目を大きく見開きながら勢いよく後ろを振り返った。
慌ててその姿を探して空を見上げると予想通り朱珠の姿が見え、弓月の顔がぱっと明るくなった。
昨日、男の大鎌に穿たれたのだが、弓月の目の前に降り立った朱珠は見たところ元気そうだ。
血で汚れていたはずの服も綺麗に元通りになっている。
「傷は大丈夫なの……?」
「ああ、大体はな。それより、お前の霊力が一気に膨れ上がったから、
何事かと思って飛んできたんだが……大丈夫か?」
本当のところ、回復にはまだ時間がかかり今もあまり無理はできないのだが、
弓月の心配する顔は見たくない。朱珠は平然を装って訊ねた。
大丈夫かと聞かれた弓月は今の状況を思い出し、一瞬にして顔を曇らせた。
その様子に、朱珠も顔を険しくする。
「あの黒髪の男に、乱兎が、連れ去られた……!!」
弓月は声を搾り出しながら言った。
「何……!」
朱珠は歯噛みした。
傷を負わず弓月の傍でいられたなら、乱兎も連れ去られずに住んだかもしれないというのに。
舌打ちをしたその時。
「弓月、乱兎を探すぞ!」
聞きなれた声だが、聞きなれない緊迫した語調に、弓月と朱珠は目を丸くして声の持ち主の方を見た。
玖遠が今まで見たことのない真剣な表情で、乱兎の消えて行った空を見上げていた。
「二手に別れよう、深追いはするんじゃねぇぞ。俺はこっちの方探すから、お前はそっちを!」
「ちょっと待って!!」
弓月の制止も聞かずに、と言うより聞こえていないのか
玖遠は指を指すと山道の方へと走って行ってしまった。
どうやら男のほうが姿を現していたようで、久遠も男の姿は見えているようだ。
しかし自分は氷神から護符ももらったし少しなら対抗できるが、玖遠は普通の人間なのだ。
異形に対抗する術など持ち合わせてはいない。
朱珠の方を向くと玖遠の消えて行った方を指差して言った。
「僕は一人で大丈夫だから朱珠は玖遠を助けてあげて!」
「いや、あいつは大丈夫だ」
「何言ってるんだよ。いいから!早く!!」
自分の意見を押し通すべく、弓月は朱珠の胸を押した。
朱珠は何か言いたそうな顔をしつつ、しぶしぶといった体で玖遠の後を追って山道を疾走していった。
「はやく乱兎見つけ出さないと……!!」
弓月もまた山奥へと繋がる山道をかけていった。
*
「面白くなってきたね」
その少年の後ろ姿を山の木々から見つめる影があった。
黒い直衣に身を包んだ陰陽師はにやりと笑う。
「さ、楽しませてくれよ」