参
「ケーキが食べたいわ」
また始まった。千明は箒片手に、一人ため息をつく。
大広間の時計が鐘を打つ。二人きりの邸宅に、高らかに響く。そろそろ外も薄暗くなってきた。
乃麻は読んでいた本を閉じ、ソファから立ち上がる。
「聞こえなかったかしら? ケ・エ・キ・が・食・べ・た・い・わ」
「……今からお夕飯作りますから、それまで我慢してください」
「分からないの? パンはケーキの代わりにならないのよ。……そういえば、街に新しいケーキ屋さんができたそうね」
乃麻は千明の顔も見ず、また先程までのきつい口調のまま――しかし子供のような、そんな駄々をこねる。
「今からまた街の方に出てたら、真っ暗になってしまいますよ」
「別にいいじゃない、夜遊びの一つや二つ。それとも何、私の言うことが聞けないのかしら?」
「そういうわけにはいきません」
少し真剣味を帯びた千明の声に、乃麻は気だるげに振り返る。
「僕は羽足博士に、お嬢さまを必ず、なんとしても、どんな手段を使っても、お守りするようにと頼まれているんです。夜遊びなんかに連れ出すわけにはいきません」
「……頼もしいボディガードだことね」
「ケーキなら明日にでも買ってきますから」
「必ずよ」
ふと、乃麻が窓の外に目をやった。つられて千明も振り向く。なんだ? 彼女の視線の方向――一台の車が、羽足邸の前で停まった。黒光りするセダン。
「お客さまね」
「誰でしょう、こんな時間に」
果たしてチャイムが鳴り、千明は玄関に走る。
「はーい、」
「ハハハ、日柄君。元気そうだね」
「あ、署長さん」
署長さん、即ち曳鞠島警察署署長・大山山太警視は豊かな口ひげを撫でつつ、人の良さそうな笑みを浮かべた。一方彼の後ろに従う背の高い青年は、少し胡散臭げな目を千明に向ける。
「署長、彼は……」
「ああ、君は初めてだったか。彼は日柄千明君、この家の居候、」
「……書生です」
「それそれ、書生。日柄君、彼は有沢刑事、わしの部下だ」
有沢は無言で頭を下げた。
「あら署長さん、ご無沙汰しています」
穏やかな微笑を浮かべ、乃麻が玄関に出てくる。署長はにっこりと相好を崩した。
「やあ乃麻ちゃん、久しぶりだね」
「今日はどうなされました?」
「いや、ちょっと耳に入れておきたいことがあってな。上がっていいかね?」
「ええ、もちろん」
警官二人は、応接間のソファにどっかと腰を降ろしている。
「千明、ちょっと」
お茶を入れ終え、廊下に出た千明を乃麻が呼び止めた。
「はい、なんでしょう」
「あなた、お客さまにお菓子一つ出さない気?」
「あ、お菓子なら、貰い物のクッキーが確か……」
「ちょっとひとっ走りケーキ買って来なさい」
「え」
「あなた一人なら早いでしょう?」
言うなり、乃麻は紅茶を載せたお盆を奪い取った。
「さ、行ってらっしゃい」
「おや、日柄君は?」
「ええ、彼には少しお使いを」
乃麻は上品な手つきで、カップを口元に運ぶ。まるで何事もなかったかのように。
「しかし乃麻ちゃんも大きくなったね。何年生だったかな?」
「この春から高校二年です」
「ほう、うーむ、道理でわしが歳をとるわけだ」
「あら、署長さんはいつまでも若々しいじゃありませんか」
「はっはっは、お気遣いありがとう。お父上がご覧になったらさぞ喜ばれるだろうになあ」
乃麻の瞳が一瞬曇る。署長はそれと気付くと、軽く咳払いを一つ。
「さて、今日来たのは他でもない」
「……事件、ですか」
「事件、なんだよ。有沢君、例の資料を」
「はっ」
有沢刑事が一冊のファイルを署長に手渡した。
「実はだねえ、ここ一週間ほど、女学生を狙った殺人事件が、この島内で立て続けに起きているのだよ」
「あら、怖い」
乃麻は(千明から見れば)大げさと思われるほどに、眉をひそめてみせる。
「うむ、夜道で若い女学生を襲い、首を絞めて殺害するという残虐非道の輩だ。しかもそれだけじゃない。犯人はどうやら、拳銃を持っているらしくてな」
「拳銃、ですか」
「拳銃、なんだよ。犯人は卑怯にも、逃げようとする被害者の足を撃って犯行に及んだというのだよ。一昨日のことだ。ここにいる有沢君がパトロール中にちょうど出くわしたんだがねえ」
若い刑事は悔しそうに横を向く。
「……まあ、結局取り逃がしてしまってな。もっとも、彼が犯人の風体を覚えていたおかげで、一人の男が捜査線上に浮かんだ」
署長は一枚の写真を机の上に置いた。
「存外若いんですね」
「鞭野則夫。十八歳。三週間前、米軍の基地から大量の銃と弾薬を盗んだ凶悪犯だ。以来全国津々浦々で発砲事件を起こしていたが、どうやらこの島に逃げ込んだらしい……そこで、乃麻君」
署長はカップを置き、威儀を正した。
「この有沢君を、君の護衛につけようと思うのだがね」
「ご心配ありがとうございます、でも」
乃麻は少し悪戯っぽく笑ってみせた。
「あいにくうちには、優秀なボディガードがおりますから」
二人の警官は、思わず顔を見合わせた。
「乃麻ちゃん、」
署長は再び咳払いをする。
「君のお父上はこの町が生んだ偉大な大科学者、この町の誇りだ。わしもずいぶんお世話になった。その博士の留守中に、一人娘の君に何かあったら、わしは腹でも切らんといかんのだよ。わしを助けると思って、な」
署長の言葉に、乃麻は少し考えるように、カップに目を落とす。ややあって、小さなため息とともに、彼女は穏やかに微笑んでみせた。
「ふふ……分かりました。署長さんを切腹させるわけにはいきませんからね。有沢さん、どうぞよろしく」
乃麻の会釈に、有沢は固い笑顔で応じた。ホッとした様子で、署長はソファに体を任せる。
「……にしても、遅いわね」
「千明君かね? といっても、今さっき出かけたばっかりだろう」
「ええ。でも、彼は特別ですから」




