壱
真っ白な花が、風に乗って廊下を吹きぬけていく。ある春の日の放課後。
羽足乃麻は、流れる黒髪を軽くかき上げる。柔らかな風に、すれ違う生徒は思わずその背中を眼で追ってしまう。紺のスカートの裾が、静かに揺れる。
「羽足さん、羽足さあん」
二人の女生徒が、パタパタと彼女の後を追って駆け寄ってくる。少女は立ち止まり、穏やかな微笑でそれを迎える。
「どうしたの?」
えっとね、言いかけて、女生徒たちは思わず二の句に詰まる。晩昼の光の中で、彼女の大人びた笑顔は、まるで一枚の絵であった。同じ歳の自分たちが、少し惨めになってしまうほどに。
「あ、あのさ、」
「一緒に、これから……街の方遊びに行かない? こないだ言ってた、新しく出来たケーキ屋さんとか、」
「あら、楽しそう」
乃麻は軽く小首を傾げて、少し考えるようにする。しかし間もなく、申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「でもごめんなさい、私これから生徒会の資料、先生に届けないと。また今度、お願い」
小さく手を振って、少女は踵を返し、階段を早足に駆け下りていく。残された女生徒は二人、お互いの顔を見合わせて嘆息した。
「嫌になっちゃうわ」
「なんで同じ十七歳なのに、こうも違うんだろうねえ」
「あんたなんか未だに中学生と間違われるもんね」
言いながら、一人が相方の少し丸っこい鼻を突っつく。
「あんたもそうでしょ」
お返しとばかりに、相手のほうもそばかす混じりのほおをつまむ。そして人形のようなすらりと通った鼻筋と、真っ白な肌をふと思い浮かべ、もう一度同時に、ため息。
羽足乃麻、と聞けばこの学園の生徒の大部分は、すぐにその姿を思い浮かべることが出来るだろう。
黒く長い艶やかな髪、すらりと伸びた上背に、穏やかな微笑。この春からは生徒会長を務め、成績は当然優秀、テニスを始めスポーツも得意……「実はロボットなんじゃないか」などと陰口が叩かれるのも、むべなるかなと言うべきか。
さらに詳しい者なら、彼女が町外れの豪壮な洋館に暮らしていること、その父親がロボット工学の第一人者と呼ばれた天才科学者・羽足林太郎博士であること――そしてその父親が三年前に謎の失踪を遂げたことなどもすらすらと口をついて出るだろう。先の荒唐無稽な陰口も、この事実を思うと「まさか」という気になってしまうから不思議なものだ。
実際ある時、一人の女生徒が彼女自身にこの噂について尋ねたことがあったという。彼女は一言――「もしそうだったらどうする?」と呟いて、じっと質問者を覗き込んだ……ここまで来ると、少々出来すぎた話という感がある。
「それでは先生、これが次回の定例会議用の会議です」
「ああ、ご苦労さん」
教師はぱらり、ぱらりと出来上がった資料に目を通した。いつもながら、とても高校生が作ったものとは思われないその整った内容に、思わず唸ってしまう。
「どうかされましたか」
「あ、いや」
乃麻と目が合った瞬間、教師は戸惑ったように視線を逸らした。彼女の黒目がちな瞳――不用意な干渉を拒むような深く暗い瞳に見据えられると、件の噂でもないが、つい相手が二回り以上も年下の女子高生であることを忘れそうになる。
「……いや、お疲れさま。もう帰っていいよ」
「分かりました。それではまた明日」
一礼して、乃麻は職員室を後にする。遠慮がちに会釈してくる生徒たちに微笑を返しながら、廊下を歩いていく。
小さく、肩を落としてみせる。ロボット、ねえ。
「……千明、いるんでしょう。出てきなさい」
カッ、硬い音を立てて背後から、人影の一つ、現れる。
「お呼びですか、お嬢さま」
いつの間にか、人気のない旧校舎に出ていた。夕方の日射しが、廊下を包んでいる。しかし乃麻は、さっきまでが嘘のような、無愛想で冷たい表情。
「今日は教科書多くて鞄重いの。持って」
「……はあ」
「早く」
声色までが、つい先刻の柔らかさからは想像もつかない、きついそれに変わっている。
一方それに応えて駆け寄ってくるのは、一人の少年。黒の学ラン……は他の生徒と変わらないにしても、指定にない揃いの学帽、同じく揃いのマント、黒ずくめの中に、純白の手袋が映えている。白黒の世界から抜け出してきたかのような、時代錯誤なその装い、大正浪漫もかくやの立ち姿。さっと吹く春風に、マントの金モールが揺れる。少年――日柄千明はため息混じりに、ずっしりと重たい学生鞄を受け取る。
「うぅ、重い……たまには自分で持ってくださいよお嬢さま」
「お黙り、居候」
「居候じゃありません、書生です」
「どちらでも同じことよ。ただ飯食べさせてあげてるんだから。その分しゃきしゃき働きなさい」
「……そのご飯も僕が作ってるんですけどね」
「何か言った?」
「いいえ」
曳鞠島はA県のある湾に浮かぶ、人工の島である。
二十世紀の末までは、この沿岸一帯は県下最大の工業地域としてかなりの繁栄を見せていた。海沿いにずらりと立ち並ぶ巨大な工場の、誇らかに黒煙を上げる天突く煙突塔――それは戦後日本の発展を象徴する姿であったといえよう。
ところが、環境意識の高まりやら産業構造の変化やら、とにもかくにもいろいろの波がこの辺境の地にも訪れると、公害を垂れ流すこの時代遅れな工場群はたちまち批判の的になった。工場は一つ、また一つと操業を停止し、久々に覗いた青空の下、汚れた海だけが残された。
その海の浄化のため――隠蔽などと口さがないことを言うものもあったが――三十年ほど前、埋め立てにより作られたのがこの島、曳鞠島。「本土」とは一本の鉄橋で結ばれているが、肝心の本土の方にはいまや廃工場ぐらいしか残っておらず、出入りはほとんどない。
その島の中心部から少し外れたところに、一戸の古びた洋館がある。大正の建造だという、周囲の建物と明らかに年季が違うその外観は、この埋立地の平板な光景の中で異彩を放っている。元々は本土の政治家の邸宅で、その建築に惚れ込んだ乃麻の父、即ち先に述べた羽足林太郎博士が移築したのだという。
そう、これが乃麻と「書生」の千明が暮らす羽足邸なのである。




