人魚の楽園(掌編)
この国の海にはかつて、人魚がいた。しかし一人の人魚の娘が王子への片恋に敗れ、海の泡と消えた。それを嘆いた海の王はこの海を去った。それからこの海では海産物がほとんどとれなくなり、動物の肉しか食べられなくなった。
「と、伝えられております」
「ほう」
いつも通りの真面目な口調で教師が告げた言葉に、私も真面目に頷いた。
「我が国は随分と長く魚介類を食していないのだな」
「開国王の時代と言われておりますので、ざっと三百年ほど前からですね。海藻は豊富ですし、貝類などは食べることもありますが、いわゆる魚というものはほとんど食べられておりません。私も国外に留学した際に食べたくらいでございます」
私は口元を掌で隠して、動揺を誤魔化しながら尋ねた。
「他国ではそんなに魚を食べているのか」
「一般的な食品です。水辺の土地では特に。我が国のように島国で魚を食べないというのは、珍しいでしょう」
「なるほど、勉強になったよ。ますます世界を見に行かねばと言う気持ちになった。学ぶことは多い」
「ご留学をご希望とお伺いいたしました。お役に立てたのでしたらよろしゅうございます」
「実に助かったよ。我が国には外を知るものがほとんどいないが、留学経験があり漂流者保護に努めている君は、驚くほど博識だ。君からの教えは、非常に学びが多いよ」
感謝を述べる私に、教師は喜ばしそうに唇を緩めて頷いた。
「それはよろしゅうございました、殿下」
コツコツと靴音をさせながら、私は長い回廊を歩いていた。王族だけが許された王城の奥、海の守り神をまつった神殿への道だ。二十九番目の扉の前で、私は声をかけた。
「大お婆様、第一王子ラーンでございます。入ってもよろしいでしょうか」
「……おはいりなさい」
涼やかな応えの声に、私はゆっくりと扉を開ける。そして、扉の中で暮らす、この国で最も尊い方に笑いかけた。
「ご無沙汰しており申し訳のうございます」
「本当にひさしぶりね、ラーン。また背が伸びたのではなくて?」
「十代の男は、半年もあればだいぶ背が伸びますよ」
鈴を転がすような声の揶揄いに、私は苦笑して頷く。
「大お婆様はお変わりなく、今日もお美しゅうございますね」
「あの小さな王子様がお世辞を!あなたもすぐ成長して、私を置いて行ってしまうのね」
コロコロと楽し気に笑うのは、初めて会った時とまるで変わらない、美しい少女のような人。
「今日、開国王の時代を学びました」
「あら」
私の短い言葉に察したのか、彼女は笑ったままゆっくり瞬いた。
「大お婆様は片恋に破れたのですか?」
「恋は実ったわ。愛が生まれなかっただけ」
こつん、と水槽を指の背で叩きながら彼女は笑う。
「あの人は恋に溺れぬ為政者でしたもの。私が人魚だと知るや、あの人は私をここに閉じ込めた。せっかく手に入れた足の腱を切って」
だらんと垂れ下がる足を指し示しながら、美しい人は青い目を伏せた。
「あの人は私を、この国の永遠の守護者として歓迎したの」
国で一番美しく豪奢なこの部屋で、しずかに暮らす少女めいた人に、私はかすれ声で尋ねた。
「海の王は今どこに?」
「変わらず海底に。私を守るため、余所者がこの島国へ来るのを防いでくれている」
「海産物がとれなくなったのは?」
「私への義理立てで、あの人が海の生き物は採らない、食べないと決めたの」
過去を懐かしむような眼差しに、私はひそかに胸を痛める
「採ろうと思えばいくらでも採れるでしょうね。この国の周りは海の王が守る、彼らの楽園だから。でも食べちゃ駄目。共食いはよくないわ」
「共食い?」
「そうよ」
眉を寄せる私に、十代にしか見えない美しいひとは魅惑的に笑いかけた。
「あなたは私の子孫。人魚の血が流れているのだもの」
すっと撫でられた頬は、水に濡れたような感覚がした。撫でおろされる掌が下肢に向かい、私はうっとりと目を伏せる。足。地上を歩くためだけにある二本の棒。いつの間にかまくり上げられた下衣の中で、冷たい手が優しく足の皮膚を上下する。
「そろそろ海の水が恋しいでしょう?さあ、この水槽にお入りなさい。王位?国のことは私に任せておけば平気よ。海の王が守るこの島に、近づけるものなどないのだから」
我が国の未来を断言する静謐な笑みに、絶対的な安心感を抱き、私は頷く。
「……そうですね」
足を失った父たちが楽し気に泳ぐ水の中へ、私も笑って飛び込んだ。
「余計なことを考える子たちは、海に戻りなさい。この国は魚たちの楽園なのだから」




