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人魚の楽園(掌編)

作者: 燈子
掲載日:2026/10/27

 この国の海にはかつて、人魚がいた。しかし一人の人魚の娘が王子への片恋に敗れ、海の泡と消えた。それを嘆いた海の王はこの海を去った。それからこの海では海産物がほとんどとれなくなり、動物の肉しか食べられなくなった。


「と、伝えられております」

「ほう」

 いつも通りの真面目な口調で教師が告げた言葉に、私も真面目に頷いた。

「我が国は随分と長く魚介類を食していないのだな」

「開国王の時代と言われておりますので、ざっと三百年ほど前からですね。海藻は豊富ですし、貝類などは食べることもありますが、いわゆる魚というものはほとんど食べられておりません。私も国外に留学した際に食べたくらいでございます」

 私は口元を掌で隠して、動揺を誤魔化しながら尋ねた。

「他国ではそんなに魚を食べているのか」

「一般的な食品です。水辺の土地では特に。我が国のように島国で魚を食べないというのは、珍しいでしょう」

「なるほど、勉強になったよ。ますます世界を見に行かねばと言う気持ちになった。学ぶことは多い」

「ご留学をご希望とお伺いいたしました。お役に立てたのでしたらよろしゅうございます」

「実に助かったよ。我が国には外を知るものがほとんどいないが、留学経験があり漂流者保護に努めている君は、驚くほど博識だ。君からの教えは、非常に学びが多いよ」

 感謝を述べる私に、教師は喜ばしそうに唇を緩めて頷いた。

「それはよろしゅうございました、殿下」


 コツコツと靴音をさせながら、私は長い回廊を歩いていた。王族だけが許された王城の奥、海の守り神をまつった神殿への道だ。二十九番目の扉の前で、私は声をかけた。

「大お婆様、第一王子ラーンでございます。入ってもよろしいでしょうか」

「……おはいりなさい」

 涼やかな応えの声に、私はゆっくりと扉を開ける。そして、扉の中で暮らす、この国で最も尊い方に笑いかけた。

「ご無沙汰しており申し訳のうございます」

「本当にひさしぶりね、ラーン。また背が伸びたのではなくて?」

「十代の男は、半年もあればだいぶ背が伸びますよ」

 鈴を転がすような声の揶揄いに、私は苦笑して頷く。

「大お婆様はお変わりなく、今日もお美しゅうございますね」

「あの小さな王子様がお世辞を!あなたもすぐ成長して、私を置いて行ってしまうのね」

 コロコロと楽し気に笑うのは、初めて会った時とまるで変わらない、美しい少女のような人。

「今日、開国王の時代を学びました」

「あら」

 私の短い言葉に察したのか、彼女は笑ったままゆっくり瞬いた。

「大お婆様は片恋に破れたのですか?」

「恋は実ったわ。愛が生まれなかっただけ」

 こつん、と水槽を指の背で叩きながら彼女は笑う。

「あの人は恋に溺れぬ為政者でしたもの。私が人魚だと知るや、あの人は私をここに閉じ込めた。せっかく手に入れた足の腱を切って」

 だらんと垂れ下がる足を指し示しながら、美しい人は青い目を伏せた。

「あの人は私を、この国の永遠の守護者として歓迎したの」

 国で一番美しく豪奢なこの部屋で、しずかに暮らす少女めいた人に、私はかすれ声で尋ねた。

「海の王は今どこに?」

「変わらず海底に。私を守るため、余所者がこの島国へ来るのを防いでくれている」

「海産物がとれなくなったのは?」

「私への義理立てで、あの人が海の生き物は採らない、食べないと決めたの」

 過去を懐かしむような眼差しに、私はひそかに胸を痛める

「採ろうと思えばいくらでも採れるでしょうね。この国の周りは海の王が守る、彼らの楽園だから。でも食べちゃ駄目。共食いはよくないわ」

「共食い?」

「そうよ」

 眉を寄せる私に、十代にしか見えない美しいひとは魅惑的に笑いかけた。

「あなたは私の子孫。人魚の血が流れているのだもの」

 すっと撫でられた頬は、水に濡れたような感覚がした。撫でおろされる掌が下肢に向かい、私はうっとりと目を伏せる。足。地上を歩くためだけにある二本の棒。いつの間にかまくり上げられた下衣の中で、冷たい手が優しく足の皮膚を上下する。

「そろそろ海の水が恋しいでしょう?さあ、この水槽にお入りなさい。王位?国のことは私に任せておけば平気よ。海の王が守るこの島に、近づけるものなどないのだから」

 我が国の未来を断言する静謐な笑みに、絶対的な安心感を抱き、私は頷く。

「……そうですね」

 足を失った父たちが楽し気に泳ぐ水の中へ、私も笑って飛び込んだ。


「余計なことを考える子たちは、海に戻りなさい。この国は魚(わたし)たちの楽園なのだから」


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