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『ブレイク・ネクサス』改訂版  作者: 嵗(sai)
第一部 フェイク・ファクター

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第四章:留置場のトリオと漆黒のハッキング

4.1. 留置場:三流記者と国家の使者


Ⅰ. 地下の静寂と「異物」の侵入


ニュージャージー州警察署の地下最深部。


そこは、地上の喧騒から完全に切り離された、漂白剤の鋭い刺激臭と錆びついた鉄格子の酸化臭が混じり合う、無機質で湿ったコンクリートの墓場だった。天井の剥き出しの蛍光灯が、周期的な高周波の不快なハム音を立てながら、不規則に明滅している。


西野シホは、冷え切ったコンクリートの壁に背を預け、両手首に赤黒く残る手錠の擦過痕を無意識に親指でさすっていた。FBIによる、執拗で威圧的な尋問の余韻が耳の奥で脈打っている。この独房に文字通り放り込まれてからというもの、時間は粘り気を持ったヘドロのように停滞し、感覚を麻痺させていった。


その絶対的な静寂を、突如として硬い靴音が切り裂いた。


鉄格子の向こう側、薄暗い通路の奥から響く足音は、二体制。それは、この警察署の怠惰な看守たちが響かせる足音とは、明らかに一線を画していた。足音の主は、制服を着た地元の治安官などではない。


まず現れたのは、漆黒のカスタム仕立てのパンツスーツを完璧に着こなし、短く切り揃えられた漆黒の髪の下から、すべてを見透かすような絶対零度の瞳を光らせる人物。いや、そのあまりにも均整の取れた無駄のない佇まいは、女性という生物学的枠組み、あるいは性別という概念そのものを完全に拒絶し、一振りの抜かれた軍刀のような鋭利さを放っていた。


もう一人は、その背後に控える、知的なブロータイプの眼鏡をかけた女性。そのレンズの奥には、感情の揺らぎを一切排した、スーパーコンピュータの高速演算結果のような鋭利な光が宿っていた。若く、繊細でどこか都会的な顔立ちでありながら、その手元は冷徹なプロフェッショナルのそれだ。


シホは、その二人が放つ尋常ならざる「プロ」の、そして「国家の暴力」の気配を本能的に察知し、体中の細胞を硬直させた。


「日本の外務省から参りました、千姫せんひめと申します。そしてこちらが、同行の内閣情報調査局所属、秋吉博子」


千姫と呼ばれた人物が口を開いた瞬間、シホの全身に強烈な鳥肌が立った。


その整った唇から発せられたのは、外見の流麗さからは到底想像もつかない、驚くほど低く、地を這うように重厚で、幾多の死線を潜り抜けてきた老練な男性の強固な意志を感じさせる「声」だった。


「……内調? 日本の、国家機関が……こんなニュージャージーの掃き溜めに何の用よ?」


シホは喉の震えを必死に押し殺し、長年の記者生活で培った虚勢を張り直して言い返した。


「私がアメリカの公道を引っかき回して、日本の恥を晒した三流ゴシップ記者だからって、口封じにでも来たわけ? それとも、親切にスパイ容疑で本国に強制送還するプライベートジェットでも用意してくれたの?」


Ⅱ. 漆黒の交渉:千姫の断定


千姫は、シホの必死の挑発を完全に一蹴し、鉄格子の前に音もなく進み出た。その重心の置き方、微動だにしない四肢のバランスは、いつ何時、いかなる状況からでも相手の喉笛を最小の動作で掻き切れる暗殺者のそれそのものだった。


「俺たちは、お前を阻止しに来たのではない。……協力の要請に参った」


千姫の声には、およそ外交官が用いるような交渉の媚びも、女性らしい柔らかさも微塵もなかった。ただ、確定した事実を冷徹に突きつける、絶対的な指揮官の響きがある。


「西野シホ。お前がここで拘束された表向きの理由は、テロ事件に関与している不審者としてだ。連邦捜査局のデータベースには、既に『制御不能な妨害者』としてお前のドシエが刻まれている。……だが、俺たちの情報網は、お前の行動の裏にある別の側面を示している。お前は、無謀なまでに、そして破滅的なまでに『真実』を追っているな?」


千姫は、シホの瞳の奥の動揺を射抜くように言葉を重ねた。


「現在、この北米大陸で発生している二つの異常事態。西海岸カリフォルニアで起きている、高熱を伴う少年の脱走騒乱。そして、この東海岸を不気味な静寂で包み込む、極低温による分子崩壊の惨劇。……一方は『患者の保護』という甘ったるい茶番劇の報道で塗り潰され、一方は『国家の脅威』として軍の特殊部隊に追われている。このあまりにも不自然で、対極的な認識の乖離。……お前は、この世界規模の違和感の正体に、自力で指をかけようとしたな」


シホは思わず息を飲んだ。自分の脳内でバラバラに散らばり、誰にも信じてもらえなかった陰謀のピースを、この「女の形をした怪物」は、いとも容易く、残酷なまでに正確な一枚の地図へと繋ぎ合わせてみせたのだ。


Ⅲ. 分析官の論理:秋吉博子の追求


千姫の背後から、秋吉博子が静かに、しかし有無を言わさない機械的な足取りで一歩前に出た。


彼女の手元には、一般市場には流通していない内調専用の最新型暗号化携帯端末が青白く発光しており、そこにはシホがアメリカに入国してからのこの数週間の「足跡」が、残酷なまでに精密なグラフと位置情報ログとなって表示されていた。


「西野さん。私は、あなたの渡米後の全行動記録、およびあらゆる通信ログ、ホテルのWi-Fiのセッション履歴にいたるまでを完全解析しました」


博子の声は、千姫の持つ暴力的な威圧感とは別の意味で、凍りつくように冷たかった。それは、感情という不確定要素を完全に排除し、純粋な論理のみで眼前の標本を解体しようとする外科医のメスのような響きだった。


「あなたは西海岸のリクトの現場で、ノア・メディカルが展開した局所的電磁波シールドの特殊周波数を独自に検知しようとし、その後、この東海岸ではプロメテウス財団の極秘プライベートサーバーへ、極めて稚拙ながらも執念深い手口でハッキングを試みています。……公式な権限も、専門的な軍事訓練も受けていない一人の雑誌記者が、なぜ命を賭けてまで、これほど危険な国家の最高機密区域に侵入し続けるのですか?」


博子のフレームの奥の視線が、シホが必死に保っていた心理的防壁の亀裂を的確に突き崩そうとする。


「あなたのこれまでの行動は、統計学的計算上、生存率5%以下の明白な自殺行為です。合理的な利害関係、あるいは相応の動機がなければ、論理的な説明がつきません」


Ⅳ. 三流記者の叫び:隠蔽への義憤


独房の重苦しく、漂白剤の匂いが充満する空気の中で、シホは一瞬沈黙した。


彼女の脳裏に、ノア・メディカルの冷徹な裏門から垣間見えた、リクトという名の少年の、世界を拒絶するような、それでいてあまりにも悲しげな瞳が鮮烈に浮かび上がった。そして、彼を取り囲んでいた、感情を持たない兵士たちの黒い銃口。


「……疑っているからよ」


シホは、乾いた喉の奥から絞り出すように答えた。その声には、恐怖を完全に塗りつぶすほどの、ジャーナリストとしての、否、一人の人間としての純粋な義憤が宿っていた。


「ノア・メディカルが、あのリクトという少年を、報道されているような『単なる難病患者』として扱っていないことを。……脱走後の、あの異常な規模の包囲網を見た? 州兵まで動員して、街一帯を完全にロックダウンして。あれのどこが『保護』だって言うのよ。あれは『回収』か、あるいはデータが他所に漏れる前の『廃棄』よ」


シホは冷たい鉄格子を両手で強く掴み、博子の無機質な瞳を真っ直ぐに睨み返した。


「彼は、兵器として作り替えられたのよ。……全身義体なんて、最先端の綺麗な言葉で本質を隠しているけど、あの子は人間の心を残したまま、巨大な軍事利権の道具にされた。倫理も、法律も、一人の子供の未来さえも、国家権力と巨万の金で踏みにじって、すべてを暗闇に『隠蔽』しようとしている。……私は、その反吐が出るような欺瞞が許せないの。私が真実を暴かない限り、あの子は永遠に『高熱を出す怪物』として、歴史の闇で殺されるのよ!」


シホの言葉には、秋吉博子が愛用する統計データにも、千姫が駆使する国家戦略論にも決して現れることのない、泥臭く、しかし強烈な「人間」の熱がこもっていた。


博子は一瞬だけ、その計算不可能な「非合理な熱量」に気圧されたように、わずかに目を伏せた。


Ⅴ. 奇妙な連帯への序章


千姫は、シホの魂の叫びとも言える返答を聞くと、満足げに鼻を鳴らした。その不敵な仕草すらも、戦場での前線兵力の値踏みを終えた指揮官のように雄々しく、力強いものだった。


「いい面構えだ。……『三流』と侮られる者の執念こそが、時にエリートどもの精密な計算を根底から狂わせる」


千姫はスーツの懐から、アメリカ連邦警察の権限さえも一瞬で沈黙させる、外務省最深部の特権外交認識カードを取り出し、独房の電子ロックシステムに翳した。


「西野シホ。お前のその身勝手な義憤、俺たちが有効活用してやる。……お前が地を這って掴んだ『現場の生の情報』と、博子の持つ国家規模の『解析能力』、そして俺の持つ『執行力』。これら三つのピースを組み合わせれば、あの傲慢な設計者の描いた破滅の設計図を、根こそぎ奪い取れる」


ピッ、という無機質な電子音と共にロックが解除され、重厚な鉄の扉が、ゆっくりと、しかし確実に開かれた。


「来い。ここからは、ただのテロリストの協力者としてではなく、日本の国家の影として動いてもらう。……真実の裏側、世界の深淵を見たいなら、地獄の底まで俺たちに付き合え」


シホは、開かれた扉の向こうに並び立つ、二人の異質な「国家の使者」を見つめた。


ここから先に逃げ道などない。だが、初めて自分と同じ方向、欺瞞の壁の向こう側を見つめる、圧倒的な「力」を手に入れたのだ。


シホは手首の痛みを忘れ、拳を強く握りしめると、独房の闇から一歩、光の届かない新たな戦場へと踏み出した。


三流記者、天才分析官、そして性別を超越した死神。


不揃いな三人の共闘が、世界を覆う漆黒の欺瞞を切り裂くべく、今ここに血塗られた幕を開けた。


________________________________________


4.2. 千姫の交渉と釈放


Ⅰ. 沈黙の天秤:冷徹なる取引の開始


シホが吐き出した「義憤」の言葉が、冷たい独房の湿った空気に溶けて消えるのを待つように、千姫せんひめはしばらくの間、一片の感情も交えずに彼女を見つめていた。


そのアゲートのような瞳には、シホが内心で期待したかもしれない人道的な同情も、あるいは国家機関に対する不遜な反発への怒りも存在しなかった。そこにあるのは、ただ作戦に組み込む有用なパーツの耐久性と出力を品定めするような、工学的な観察眼だけだった。


「……あなたの情熱とやら、その発露の理由については理解した」


千姫が再び口を開いた。その声は、やはり女性の細い喉から響いているとは到底信じられないほどに重低音で、部屋のコンクリートを微細に振動させるほどの威厳を湛えている。


「だが、感情だけで真実は暴けん。お前のこれまでの無秩序で無計画な追跡は、今後も我々の高度な国家捜査活動に対する『ノイズ』としてしか機能しない。このままFBIの秘密独房で一生を終えるか、あるいは――」


千姫は、鉄格子の隙間に黒い手袋に包まれた指をかけ、音もなく距離を詰めた。そのごくわずかな動作一つにすら、数多の戦場で敵の生命を奪ってきた熟練の兵士が放つ「本物の殺気の残り香」が濃厚に漂っている。


「お前が泥を啜り、法の網を潜り抜けて集めてきた現場の『生の情報』。それが、我々の持つ高度な国家級演算能力をもってしても導き出し得なかった、予期せぬ戦術的突破口になる可能性を、俺は完全には否定しない。故に、秋吉博子の合理的進言を容れ、お前に『交渉』の席を用意してやる」


Ⅱ. 漆黒の三箇条:逃げ道のない契約


千姫は、まるで戦場での圧倒的な戦力差を背景にした降伏勧告を行うかのように、簡潔に、そして一切の反論を許さないトーンで三つの条件を提示した。


「第一に、この留置場からの即時釈放。お前の身柄はこれより俺が全面的に接収し、引き取る。第二に、お前は今後、二十四時間体制で我々の完全な監視下に置かれる。プライバシーも通信の秘密も、この瞬間からお前という個人には一切存在しないと思え」


シホがその高圧的な条件に何か言いかけようとするのを、千姫は鋭い眼光の一瞥だけで完全に制圧した。


「第三に、我々二人の命令に従い、お前が隠し持っている情報の共有と、実地での作戦協力を全面的に行うこと。……以上の条件をすべて、無条件で飲むならば、お前がこの事件に関わり続けることを国家の影として『許可』してやる。お前が命をかけてでも望む、最前線の真実に触れさせてやる。ただし、我々の命令系統オーダーは絶対だ。一度でも背けば、その瞬間に貴様の存在を社会的に、物理的に抹消する」


それは、釈放という名の「超法規的拘束」であり、自由の対価としての「絶対的隷属」の要求に他ならなかった。


隣でその苛烈な交渉を見守っていた秋吉博子は、無機質な表情を一切崩さぬまま、シホの脳波パターンの乱れや微細な表情筋の収縮を、手元の端末の生体センサーでスキャンし続けている。博子にとっても、この合理性の枠外で動く三流記者は非常に興味深い「観測対象」であり、論理の限界を超えた先にある真実へ至るための「触媒」として機能するはずだった。


Ⅲ. 記者の誇りと、狂気の直感


西野シホは、ジーンズのポケットの中で握りしめた拳の震えを必死に抑え込んでいた。


提示されたのは、実質的に拒否権の存在しない究極の選択肢。ここでプライドを優先して断れば、数時間後にはFBIのさらに奥奥、公式には存在しない海外秘密収容施設ブラック・サイトへ移送され、二度と日本の地を踏むことも、リクトという少年の名前を耳にすることすら叶わなくなるだろう。


(……この人たちは、本物だわ。国家の、一番暗い部分を歩いている)


シホのジャーナリストとしての長年の本能が、脳内で激しく警報を鳴らし続けていた。


目の前の「麗しき死神」と、その背後に控える冷徹な天才分析官。彼女たちと行動を共にすれば、これまで自分が正義感ぶって追ってきたものが、如何に稚拙で、生ぬるいおままごとであったかを思い知らされるに違いない。


だが同時に、この「漆黒の招待状」を受け入れ、その手を握りさえすれば、世界を根底からひっくり返すような、絶対に歴史に刻まれるべき大スクープの、その拍動する心臓部に直接手を伸ばすことができるのだ。


「……わかったわ。その条件、全部飲むわよ」


シホは、深く息を吸い込んで顔を上げ、千姫の底知れない冷たい瞳を真っ直ぐに見据えた。


「ただし、これだけはあらかじめ言っておくわ。私はあくまでジャーナリスト。あなたたちの都合のいい飼い犬になったつもりは毛頭ないから。最終的に、私が真実の核心に辿り着いた時、……たとえあなたたちが国家の利益とかいう名目でそれを隠蔽しようとしても、私は絶対に止まらない。その時は、すべてを世界中にぶちまけてやるから」


「ふん。承知した」


千姫の薄い口角が、わずかに、獲物を完全に罠に嵌めた肉食獣のように吊り上がった。その表情には女性らしい艶など微塵もなく、ただ強固な意思を認めた戦士の不敵な敬意があった。


「それで結構だ。協定成立。……せいぜい、その真実に辿り着く前に、犬死にするなよ、西野シホ」


Ⅳ. 情報の書き換え:一秒の釈放劇


千姫は懐から取り出した外務省特殊案件専用のスマートフォン型端末で、完全に暗号化された一行のコマンドを送信した。


「こちら千姫。認識番号104(シホ)の身柄をこれより接収する。連邦政府、州警察、および関連するすべてのデータベースから彼女の名前と逮捕履歴をパージしろ。……そうだ、最初から存在しなかったことにしろ。猶予は一分だ」


その淡々とした指示は、通常の法的手続きや地方裁判所の命令をすべて文字通り飛び越えた、国家の最深部、あるいは国際政治の裏舞台のみが持つ「神の特権」の行使だった。


数分後、重厚な電子ロックが再び解除され、鉄格子の扉が跳ね上がった。


独房の前に現れた看守の目は、先ほどまでシホに対して浴びせていた高圧的な態度は完全に消え失せ、まるで現実の認識を書き換えられた幽霊でも見ているかのような、虚ろで焦点の合わないものに変貌していた。西野シホという記者がこの街で逮捕されたという事実、指紋データ、監視カメラのデジタル映像――そのすべてが、秋吉博子の操作する内調のサーバーの裏側で、電子の塵となって一瞬で消去されたのである。


Ⅴ. 境界を越えるトリオ


独房から出たシホを待っていたのは、逮捕時に一時押収されていた愛用のデジタルカメラとボイスレコーダー、そして彼女の全私物が入ったプラスチックの袋だった。


千姫はそれを無造作にシホの胸元へ叩きつけると、一瞥もくれずに踵を返して地下通路の出口へと歩き出した。


「……さて、分析官。次の戦術ポイントは?」


千姫が歩きながら問うと、背後を進む博子は、眼鏡の奥で既に次の膨大な演算を完了させていた。


「シホさんのカメラに残されている現場の生映像データと、リクトの最新の移動予測経路の照合を即座に開始します。……おそらく、私たちが当初想定していたよりも、事態の破滅へのクロック数は加速しています。設計者・雷門玄一の遺した『設計図』は、既に不可逆的な第三段階フェーズ・スリーへと移行している可能性が極めて高いです」


博子の淡々とした、しかし冷酷な言葉に、シホはゴクリと息を飲んだ。


リクト、そしてアビス・ラ。東西からこの大国を挟み撃ちにするように迫りくる、毛色の違う二つの災厄。


それらすべてを裏で操る「設計者」の、あまりにも巨大な影。


「行きなさい、シホさん。ここから先は、もう戻るための境界線なんて存在しないわ」


博子の淡々とした、しかし有無を言わさない声が、シホの背中を強く押す。


警察署の重い自動ドアが左右に開き、深夜のニュージャージーの、湿った冷気が三人の身体を包み込んだ。


形式上は釈放され、自由の身になったはずのシホは、しかし、それまでよりも遥かに重い「真実」という名の、目に見えない強固な枷をその身に背負っていることを痛烈に自覚していた。


三流記者、天才分析官、 Bradleyを超えた死神。


不揃いな三人のシルエットが、深夜のハイウェイの夜の闇へと溶け込み、世界を欺く巨大な陰謀の核心へと加速していく。


西野シホの公式な拘束記録はこの世界から消えた。だが、彼女たちの血塗られた戦いは、今この瞬間から、世界の裏の「伝説」へと書き換えられようとしていた。


________________________________________


4.3. モーテル:情報分析官の嘆き


Ⅰ. 静かなる戦場への移設


ニュージャージー州警察署の無機質な喧騒を背後に、千姫がハンドルを握る漆黒のV8エンジン搭載のSUVは、ライトを消したまま夜の闇を切り裂いて北へと疾走した。


目的地は、主要な幹線道路沿いにひっそりと佇む、完全に時代に取り残されたようなうらぶれた安モーテルだった。ネオンサインのペンキが剥げた看板が不気味なノイズと共にチカチカと明滅し、湿った夜風が近くの工業地帯の排気ガスと重油の匂いを運んでくる。


シホ、千姫、そして博子の三人は、そのモーテルの最も奥にある、誰も寄り付かない一室を仮の拠点セーフハウスとして確保した。


室内は、破れた合成皮革のソファと、埃を厚く被った旧式のブラウン管テレビが据え置かれているだけの、ひどく殺風景でカビ臭い空間だった。だが、秋吉博子がその華奢な身体を滑り込ませた瞬間、そこは国家間の情報戦の「最前線コマンドセンター」へと変貌を遂げた。


「(深く長いためいき)……ハァ、本当に信じられない。こんな、軍事級の電磁シールドさえまともに機能していない、バックボーンのロクな光回線すら通っていない場末のモーテルで、一体どこまでのサイバー戦をやれるというんですか。霞が関の、内調専用地下サーバー群の環境と比べたら、まるで石器時代に素手で放り出された気分ですよ」


博子は、部屋に入るなりベッドの上に特殊なミリタリースペックのポータブルAI端末『IZANAGI』を素早く展開し、コンパクトな超指向性衛星通信アンテナを窓際のアジャスターに手際よく設置した。


彼女の細い指先は、口から不満を絶え間なく漏らしながらも、驚異的な、目にも留まらぬ速度でキーボードを叩き続けている。端末から触手のように伸びる無数の防磁シールドケーブルが、モーテルの貧弱な電源コンセントを完全に占拠し、IZANAGIの冷却ファンの駆動音と青白いLEDの光が、室内の煤けたカビ臭い壁を不気味に、鋭く照らし出した。


千姫は、備え付けの汚れた旧式コーヒーメーカーを使い、驚くほど無駄のない手際で泥のように濃いブラックコーヒーを淹れながら、ハッキングの準備を進める博子の背中に低い声をかけた。


「現場で泣き言を言うな、秋吉さん。我々が今アメリカ国内で使えるのは、公式な外交足跡を一切残さない、外務省独自の非公式・多層暗号化回線のみだ。……限られた最悪の現場環境で、常に最大限の戦術的パフォーマンスを発揮することこそが、お前がその優秀すぎる頭脳に課された『呪い』だろう」


千姫の声は低く、そして耳を疑うほどに合理的だった。彼女は湯気を立てるコーヒーカップを博子のキーボードの横に置くと、自身の重心を常に低く保ったまま、カーテンの隙間から室外の動線の監視を微塵も怠らなかった。


Ⅱ. 28時間の空白と「潜伏」の正体


博子は、淹れられたコーヒーに口をつける猶予すら惜しむように、現在の戦況マップを IZANAGIのマルチモニターに映し出した。


「……シホさんがニュージャージーで局所拘束されてから、そして私たちがこの東海岸の地に極秘裏に降り立ってから、正確に約28時間が経過しました。ですが、見てください。この間の全米のデジタルデータの推移を」


博子が画面に示したのは、全米の警察無線、州兵の通信ログ、および国防総省のオープンソース通信を傍受・可視化した複雑な折れ線グラフだった。


「リクトの推定逃走経路からも、アビス・ラによるあの凄惨な極低温の分子崩壊現場からも、新たな目撃情報や交戦記録が、この28時間、パタリと途絶えています。公式な捜査進展は、文字通りゼロ。……これをただの小康状態だと思いますか? 不気味すぎると思いませんか? まるで、巨大なカテゴリー5のハリケーンが直撃する直前の、鼓膜が痛くなるような、あの不自然な静寂そのものです」


シホが、博子の華奢な肩越しに、青白く光るモニターを食い入るように覗き込んだ。


「それって……その静寂って、まさかあの子たちが……リクト君たちが、もう軍かどこかに捕まって、殺されちゃったってこと?」


「いいえ。論理的には完全にその逆です」


博子は眼鏡のブリッジを人差し指でクイと押し上げ、冷徹に断定した。


「これは、二つの神話級の脅威が『次の段階フェーズ・フォー』へと進化・移行するための、エネルギー充填期間……すなわち、戦略的潜伏期間と考えるべきです。彼らの潜伏が長ければ長いほど、次に彼らが表舞台に現れた時の破壊規模と因果律の改変度は、指数関数的に増大する」


博子は、キーを一つ叩いて画面を切り替えた。そこに表示されたのは、複雑怪奇に絡み合った光の三次元網目――リクトが脱走した『ノア・メディカル・センター』の最深部ネットワーク・アーキテクチャ図だった。


「このままここで指をくわえて待機していても、事態が物理的に動き出してからでは、私たちの戦力では100%手遅れになります。……唯一、この『28時間の空白』の正体を解き明かすための鍵、隠された手がかりが眠っている場所が、世界に一箇所だけあります」


博子の白く細い指先が、3Dグラフィックの中心で赤く明滅する『中央医療データベース・第一コア』を明確に指し示した。


「ノア・メディカルは、リクトの全身義体技術および脳制御システムを開発した、この陰謀の中核施設。彼らのメインメインサーバーには、リクトの初期調整データ、そして、あの中の『設計者』がシステムの遺伝子レベルに仕込んだであろう、隠された絶対命令バックドア・コードが必ず眠っているはずです。ここを電子的に叩き割るしか、もう道はありません」


Ⅲ. 分析官の矜持と「紙切れ」の国際法


千姫は、博子が提示した戦術的意図を、その軍事的な直感によって瞬時に、完全に理解した。


「……なるほどな。表の物理的な捜査網が使い物にならないなら、裏の電子の門を無理やりこじ開けて、その臓物の中身を“覗き見る”というわけか」


その言葉を耳にした瞬間、それまで冷徹だった秋吉博子の顔が、公務員としての激しい屈辱と法的な葛藤によって激しく歪んだ。


「……それは、単なる超法規的ハッキングじゃないですか! 私は日本政府の、内閣情報調査局の公式な情報分析官ですよ?! 他国の、しかも同盟国である米国の民間重要医療施設に対して直接サイバー攻撃を仕掛けるなんて……! 倫理的にも、国際法上も、そして我が国のサイバーセキュリティ基本法に照らしても、完全に最悪の犯罪行為です。私は分析官アナリストであって、国家に雇われたクラッカー(犯罪者)ではありません!」


博子の張り詰めた声は、彼女がこれまで積み上げてきたプロとしての自尊心と、長年頑なに守り続けてきた厳格な国家公務員としての規範意識が上げる、悲痛な悲鳴だった。


だが、千姫はそんな博子の内面的な葛藤を、冷笑を浮かべることさえなく、ただ淡々と一蹴した。


「国際法だと? ……そんなものは、冷酷な国益の前では、そしてこの世界を破滅から救うための真実の追求の前では、ただの黒いインクの汚れが付着した、燃えやすい紙切れに過ぎん」


千姫は、タイピングを止めた博子のすぐ横に歩み寄り、その耳元で、圧倒的な男性的な威圧感を孕んだ、低く地を這うような声で静かに囁いた。


「秋吉さん。国際問題になる心配など、今更無用だ。すべては、この俺が責任を持って外務省の『裏ルート』と、軍の機密費で完全に処理する。証拠は残さん。ログの跡も残さん。……今、お前が本当に欲しているのは、辞表を書いてまで現実から逃げようとした先の、生ぬるい『平穏』か? それとも、お前の最愛の家族を理不尽に奪い去った、あの世界の闇の正体へと繋がる『真実』か?」


博子は、その言葉に完全に言葉を失った。


千姫の手が、博子の細く強張った肩を、まるで油圧万力のような、拒絶を許さない力でガシリと掴む。


「真実を追う綺麗な者には、常に血に汚れた盾が必要だ。俺がその汚名を被る盾になってやる。お前は、その優秀な脳髄を、ただ目的のためだけに使い切れ」


Ⅳ. 漆黒のタイピング:一線を越える指先


秋吉博子は、自分のキーボードの上に置かれた指先が、微かに、しかし確かに震えているのを感じていた。


それは、国家の法を犯すことへの恐怖なのか。それとも、自らの頭脳のすべてを解放し、禁忌の領域へと侵入する瞬間の、抑制された倒錯的な快楽によるものなのか。


彼女は、デスクの隅に置かれていた、すでに完全に冷え切った苦いコーヒーを一気に喉へと流し込むと、レンズの奥の瞳を鋭く細め、キーボードの上に再びその十指を配置した。


「……承知しました。ただし、何度も繰り返します。これは私の独断による暴走ではなく、組織の、……いえ、外務省特務班、あなたからの絶対的な命令によるものです」


「…あぁ。責任の所在など、地獄の墓場までこの俺がすべて持って行ってやる」


千姫が不敵に言い放つと同時に、博子の指が、まるで独自の狂暴な生命を宿したかのように、凄まじい速度でキーボードを叩き付け始めた。


タタタタン、という激しい打鍵音が安モーテルの薄い壁に反響し、画面一面に、ノア・メディカルの多層防壁ファイアウォールが次々と音を立てて突破されていく、深紅のクラックログが激流のように流れ始める。


博子の瞳は、もはや一介の公務員のそれではなく、データの膨大な奔流をすべて呑み込んでいく深淵のような漆黒へと染まり、ギラギラとした光を放っていた。


「ノア・メディカル、第一層から第三層のセキュリティカーネルまで同時クラックを開始。ハッシュ値の正規照合を完全にスキップし、IZANAGIから生成したダミーパケットで彼らの監視サーバーを一時的に飽和させます。……メインコア侵入開始まで、カウントダウン180秒」


秋吉博子の分析官としての頑なな矜持は、今この瞬間、世界の真実を暴くという名の、甘美な狂気によって完全に塗り替えられた。


横でその息を呑むような光景を呆然と見守るシホは、国家の闇の最深部で繰り広げられる「漆黒のハッキング」の圧倒的な躍動感と速度に完全に言葉を失い、自らの職業を忘れ、シャッターを切ることさえ忘れて立ち尽くしていた。


嵐の前の不気味な静けさは、今、博子の指先から発せられる電脳世界へのサイバー攻撃の轟音によって、完全に終わりを告げようとしていた。


設計者・雷門玄一の冷徹な影が潜む、禁断の中央データベースへと、彼女たちの意識は深く、暗く、底なしの深淵へと沈み込んでいく。


________________________________________


4.4. 漆黒の侵入:強固な壁の突破


Ⅰ. 電脳の最前線:内調モジュール起動


湿り気とカビの臭いを帯びた安モーテルの狭い空気の中で、秋吉博子の瞳はAI端末『IZANAGI』が放つ、高輝度の青白いバックライトを完全に反射し、まるで絶対零度の銀色へと凍りついているかのようだった。


彼女がシステムの中枢で起動したのは、内閣情報調査局(内調)の極秘サイバー班が、数百億の国家予算と数年の歳月を投じ、他国の重要軍事インフラへの隠密侵入用に独自開発した、政府最高機密指定のサイバー兵器モジュール『スサノオ・プロトコル』である。


「……始めます。ノア・メディカルのセキュリティグリッドは、並の民間の医療機関とは根本的に訳が違います。システムのバックボーンには、国防総省ペンタゴンの最上位サーバー群と同じ、1024ビットの次世代暗号アルゴリズムが組み込まれている。外部のトリプル・ファイアウォールから、物理的に隔離された内部の多層防御ハニカムシステムまで、すべてが電子の難攻不落の城塞です」


博子の両手は、まるで複雑難解な現代協奏曲を狂気的に奏でるピアニストのように、あるいはミリ単位の脳神経手術を執刀する執刀医のように、ミリ秒単位の正確さでキーボード上を滑り、踊り続けた。


メインモニター上には、数万行に及ぶ未知の暗号コードの羅列と、侵入を拒絶するセキュリティプログラムの警告ログが、人間の動体視力の限界を遥かに超越した速度で、光の滝のように下へと流れ落ちていく。


「第一、第二ゲートをほぼ同時に完全突破。……やはりね。基本の通信プロトコルが、リクトの全身義体の遠隔生命維持監視システムと常時同期している。……予想通りだわ。彼らはあの子を『一人の患者』としてではなく、ネットワークに接続された『一個のハードウェアデバイス』として、常時接続オンライン状態で徹底管理している。これが、彼らの隠蔽工作の動かぬ電子証拠だわ」


博子は、ノア・メディカルが誇る強固なセキュリティ網の隙間を、まるでその電子的な巨大迷路を数千メートル上空から完全俯瞰するように、あるいは複雑に絡み合った絹糸の結び目を一本ずつ丁寧に解きほぐしていくかのように、次々と確実に無力化していった。その表情からは、先ほどまで彼女を縛っていた国家公務員としての倫理的な迷いは完全に消失し、ただ純粋な「解析の怪物」としての、背徳的な法悦の光すら浮かんでいた。


Ⅱ. 異質な称賛と不釣り合いな冗談


その人間の処理能力を超越した電脳の職人技を背後で見守っていた千姫せんひめは、微動だにせず、その重厚な低音の声を響かせ、冷徹な、しかし確かな称賛を分析官へと送った。


「さすがは、内調が霞が関の奥底で飼い慣らしている最高の頭脳だ。このモーテルの細く劣悪な野良通信環境下で、米軍事レベルの暗号システムをリアルタイムで解体・無効化できるのは、世界中を見渡してもお前くらいのものだろうな」


千姫の声には、純粋な称賛と同時に、獲物を確実に逃げ場のない袋小路へと追い詰めていく、一流の狩人特有の冷酷な確信が混じり合っていた。


一方、その現実離れした超絶的なハッキング作業をすぐ真横で凝視していた西野シホは、全身から湧き上がるジャーナリストとしての興奮と、これまで自分が必死に追ってきた「世界の真実」が、如何に巨大な国家システムの氷山の一角に過ぎなかったかを知り、半ばヤケクソ気味な輝かしい笑顔を浮かべて博子に提案した。


「ちょっと博子さん、あなた、本当にすごすぎるわ!


これ、日本の官僚組織の税金で飼い殺しにしておくには、あまりにももったいなさすぎるスキルよ! ねえ、内調なんて堅苦しいところ今すぐ辞めて、私と一緒に世界最高峰の独立した『情報屋』にでもならない? あなたが電子の海から極秘データを盗み出して、私がそれを極上の記事として執筆するの。二人なら、世界中を何度だってひっくり返せるわよ!」


博子の白皙の額から、緊迫感による一筋の冷たい汗が流れ落ち、顎のラインを伝った。


彼女の全神経と脳の処理能力は今、一秒間に数億回という天文学的な演算を行うIZANAGIのAIコアと完全にシンクロしており、外界から届くシホの軽口は、システムの同期を乱す不快な不協和音でしかなかった。


「静かにして……ッ! 今、システムの中で一番分厚くて硬い、第四層のカーネルプロテクト防壁を直接叩いているの! くだらない冗談を言っている暇も、あなたと呑気な未来の計画を語るための脳のリソースも、今の私には一ビットだって残っていないわ!」


博子の、普段の冷静さからは想像もつかない苛立ちを含んだ鋭い声が、狭く湿ったモーテルの部屋に鋭く響き渡る。


その直後、IZANAGIのメイン画面の配色が、警告の赤色から、完全なアクセス許可を示す深い緑色へと一瞬で反転した。


ノア・メディカルが誇るメインサーバーの最深部――そこには、通常の医療記録の体を全く成していない、極めて巨大で、かつ複雑な幾何学暗号化が施された、真の秘匿データ群が鎮座していた。


「……見つけた。これよ。これこそが……『極秘プロジェクト:ネクサス』のオリジナルファイル。ノア・メディカルが、リクトの全身義体から得られた生体データをすべて隠蔽し、軍事目的の別の『何か』へ転用しようとしていた、決定的な不法証拠よ」


Ⅲ. 時間との勝負:逆探知の咆哮


だが、世界の真実へと繋がる禁断の扉を強引に開け放った代償は、即座に、かつ容赦なく彼女たちへと支払われることとなった。


ベッドの上に据え置かれたAI端末『IZANAGI』が、それまでの駆動音を一変させ、けたたましい高周波の警告音と共に、部屋全体を深紅の光で明滅させた。


「まずい……ッ! ノア・メディカル側に常駐している自動AI守護プログラム(ガーディアン)が、外部からのこの不正アクセスを完全に検知したわ! 破られた防壁を自己修復セルフヒーリングさせながら、こっちの衛星接続元へ向けて、超高速の逆探知バックトレースを強力に開始した! ……時間が、もうないわ!」


博子の声に、これまでにない本気の焦燥と恐怖が滲む。


しかし、千姫は一歩もその場から引くことなく、獲物を限界まで追い詰める凶暴な獣の瞳で、博子の画面を見つめたまま問いかけた。


「逆探知の電子シグナルが、この部屋のルーターに完了するまでの猶予時間は?」


「せいぜい数分……いえ、もう百二十秒を完全に切ったわ! このモーテルが踏み台にしている仮想IPのアドレスを完全に突き止められれば、数分後には近隣に展開しているCIAの特殊環境部隊か、あるいはノア・メディカルが雇っている民間の武装クリーナー(始末屋)が、この部屋を物理的に包囲してハチの巣にする!」


「百二十秒か、十分だ。秋吉、手を止めるな。抜き取れ。サーバーの臓物、すべてをな」


千姫は恐ろしいほど冷静に次の戦術指示を出しながら、同時にスーツの懐のホルスターから、愛用している漆黒のカスタムハンドガンを音もなく引き抜き、スライドを引いて初弾を薬室に送り込み、残弾を確認した。その一切の無駄を削ぎ落とした流麗なガンハンドリングの動作は、彼女の外見的な美しさとは完全に乖離した、ただ効率的に標的の命を奪うためだけに調整された「人間兵器」そのものの冷徹さを放っていた。


博子は自身の全身の神経、そして毛細血管の血流のすべてを、キーボードを叩く両の指先に極限まで集束させた。


画面の向こうから引き出す秘匿データの総容量は、数テラバイトという膨大な単位に及んでいた。モーテルが提供している細く脆弱な野良通信回線では、通常であれば絶望的な数字。しかし、彼女はIZANAGIのすべてのシステムリソース、およびスサノオ・プロトコルの全パケット圧縮機能を転送効率の最大最適化へと回し、強引にデータの奔流をこちらのストレージへと吸い上げ始めた。


残り、30秒――。


画面上のダウンロード進捗を示すプログレスバーが、生と死の境界線を越えるように90%の領域を突破する。


モーテルの薄い窓の外、はるか遠くのハイウェイの彼方から、複数のパトカー、あるいは特殊車両のサイレンの音がかすかに聞こえたような気がして、シホの顔面は完全に血の気を失い、青ざめていった。


残り、5秒――。


敵の強力な逆探知の電子シグナルが、このモーテルが位置するエリアの最寄りのデータ交換局を次々と強制通過し、この部屋の無線ルーターの物理マックアドレスを捉えようとした、まさにその刹那。


「100%……ダウンロード、成功!!」


博子は勝利の咆哮を上げると同時に、光速に近い反射速度で、キーボードのエンターキーを親指で強く強打した。


物理的なセッション接続を完全に遮断する、IZANAGIの強制パージコマンド。


青白かった画面が一瞬で完全に暗転し、その直後、自分たちのアクセス痕跡のすべてを、特殊な自己消滅プロトコルによって電子の海から完全に抹消したことを示す、無機質な緑色の文字列が静かに並んだ。


Ⅳ. 深淵への入り口


訪れる、完全な沈黙。


安モーテルの薄暗い一室に、今しがた死線を潜り抜けた三人の、荒く乱れた呼吸音だけが重なり合い、響いていた。


千姫は静かにハンドガンをホルスターへと収めると、博子の汗ばんだ細い肩を、一度だけ、労うように強く叩いた。


博子はキーボードから震える指をゆっくりと離し、肺の中の空気をすべて吐き出すような深い、深い溜め息と共に、IZANAGIのメイン端末をパタンと閉じた。


「……ですが、ここで安堵するのは、まだあまりにも早すぎます。……本当の地獄は、これから始まるんですから」


彼女は、端末の余熱が残る部屋の中で、自分を凝視するシホと千姫の二人に向かって、氷のように冷たく、かつ知的な目で言い放った。


「私たちが命がけでダウンロードしたこの膨大なデータは、ノア・メディカルのセキュリティレベルのさらに上……おそらく、あの設計者・雷門玄一という男が、個人的に設計しシステムに施した、独自の変則的な量子暗号化ファイルによって完全にロックされています。この IZANAGIを用いた暗号解読デコードがすべて完了しない限り、このデータの中身はただの電子のゴミ同然。……私たちの本当の命がけの仕事は、今、この瞬間から始まるんです」


博子は眼鏡をかけ直し、再び端末のサイドスイッチを起動して、モニターに複雑な多角形の格子状に組み合わさった、不気味に脈動する暗号ファイルの構造を展開した。


ニュージャージーの幹線道路沿いにある、寂れた安モーテルの薄暗く狭い一室は、もはや単なる逃亡者たちの隠れ家ではなかった。


それは、世界を裏側から揺るがす国際的な大規模陰謀と、死を全く厭わない冷徹な最高峰の技術戦が交錯する、最前線の秘密指令部へと、完全にその姿を変貌させたのだ。


雷門玄一という、人類の進化を歪める巨悪が遺した、底知れない「黒いブラックボックス」。その禁断の蓋が今、三人の女性――否、世界の欺瞞を許さない三つの強固な意志の前に、静かに、しかし確実にその暗い口を開こうとしていた。


[EOF]


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