第二十七章:収束する真実、加速する「∞」
27.1. 震える成層圏の静寂:進化の繭
Ⅰ. 光の海と情報の檻
漆黒の鋭利な翼を備えた最新鋭特殊飛行ユニットは、もはや地上の人間たちの喧騒や物理的な雑音が一切届かぬ、遥かなる成層圏付近の極高高度までその滑らかな巨体を静かに滑らせていた。防弾アクリルの眼下にどこまでも広がっているのは、数百万人もの人間の矮小な営みが無数の星屑のように怪しく瞬く、東アジア最大の巨大な光の海――東京という名のメガロポリス。
だが、その圧倒的な光の輝きさえも、高度二万メートルの極寒の世界と希薄な大気層によって、どこか現実味を欠いた無機質なジオラマのようにしか見えなかった。
機内のコックピットを冷徹に支配しているのは、重力制御(G-Diffuser)ユニットが絶えず発する微かな低周波のハミング音と、膨大なリアルタイム演算処理を並列で行う量子コンピュータの冷却ファンが静かに回る、ひどく乾いた機械音だけだ。シホは、厚さ五センチを超える強化複合防弾ガラスの向こう側の暗黒を見つめたまま、膝の上に置いた自分の指先が、まるで凍り付いたかのように冷たくなっていることに気がついた。
つい先ほどまで己の死線を彷徨っていたはずの、東名高速道路でのあの狂気じみた戦闘の熱狂が、今ではまるで遠い前世の出来事のように現実感を失っている。
隣のパイロットシートに深く腰掛け、計器を操作する千姫の美しい横顔には、戦闘に勝利した余韻も、危機を脱した安らぎの感情も一切存在しなかった。コンソールのディスプレイが放つ淡いブルーの冷たい光が、彼女の極めて整った、しかし血の通わぬ大理石の彫刻のような完璧な相貌を闇の中に浮き彫りにしている。
「……リクト君は、今どこの場所にいるの? 彼は一体どこで……あんな身体で戦っているの?」
シホの掠れた喉から絞り出された声は、機内を充満する冷たい静寂の壁に一瞬で吸い込まれそうであった。千姫は自らの視線を正面の航法ホログラムディスプレイに向けたまま、一切の感情の起伏を完璧に排除した、老練な「男」の硬質な声音で静かに答えた。
「防衛省科学研究所(DSRI)の地下最深部、通称『第零区』。その最奥に位置する附属病院内の、レベル4バイオハザード対応・最高警戒隔離施設の中です。現在、彼の肉体は物理的な特殊障壁のみならず、あらゆる電磁波や外部の走査を完璧に遮断する巨大なファラデーケージと、何重にも多重化された国家最高機密の量子暗号ファイアウォールによって、外界のあらゆるネットワークから完全にスタンドアローンで遮断されています。情報的にも、物理的にも、現在の彼はこの世界に最初から存在しないことになっている」
Ⅱ. 有機と無機の融合反応
千姫は自らの手元のホログラム操作パネルを無造作にスワイプし、リクトの生体からリアルタイムで送信されている最新のモニタリングデータを、コックピット中央の空間へ3Dプロジェクションとして鮮明に投影した。
そこに青白く浮かび上がったのは、かつてシホが一般的な医学書や報道の場で見たことのあるような、ありきたりな「人体」の解剖図などでは決してなかった。
複雑に変転し続ける記号と数値、異常な振幅で激しく波打ち続ける脳波図、そして――本来の生物学的なアプローチならば絶対に相容れないはずの、デジタル機械的なクロック周波数と生体のパルスリズムが、完璧な同調性をもって冷徹に時を刻む、異形の合成波形。
「リクトの意識は、依然として深い昏睡状態の底にあります。ですが、その身体組織そのものは、もはや現代の医学的範疇や再生医療といったレベルを遥かに超越した、冒涜的なまでの変貌を今この瞬間も遂げつつある。……見てください。彼の全身体組織のじつに九十四パーセントまでが、プロメテウスの残した未知のナノマシン生命体――アビス・ラ細胞との完全な分子レベルでの融合を完了してしまいました」
「九十四パーセント……。そんな、それじゃあ、リクト君の体はもう、人としての構造を保っていないって言うの……?」
「ええ。物理的な、あるいは分子生物学的な意味に限定すれば、その通りです。かつて彼の生体組織に移植されていたチタン合金の超硬質骨格、人工カーボン筋肉、そして末梢神経を代替していた超高速神経束ファイバー。かつてノア・メディカルが『テロス・ギア』と呼んで彼に施した冷徹な無機質のパーツ群が、今やアビス・ラ細胞という未知の変革物質を媒介とすることで、有機的に再構成され始めている。金属の装甲は細胞レベルで自律的な『代謝』を開始し、人工ファイバーは生きた『神経そのもの』へと内側から書き換えられた。彼は今、人間と機械、そして超古代の失われたオーバーテクノロジー生命技術が一つに溶け合う、進化の繭の最深部に囚われているのです」
Ⅲ. 抑制ロジックの限界
千姫の細い指先が、ホログラム上に赤く明滅する「緊急抑制プロトコル」を示すインジケーターの羅列に触れる。その美しい指先が、ほんの一瞬だけ、微かな震えを見せた。それは一人の女性としての恐怖の震えなどではない。自身の持つすべての全知を尽くしてもなお、完全に制御不能な未踏の事象に直面してしまった一人の技術者としての、あるいは数多の戦場を統べる武将としての根源的な戦慄であった。
「秋吉博士による最新の電脳解析結果によれば、このままリクトが繭の中で完全に覚醒することは、単なる『強大な戦闘個体』が目を覚ますというレベルの話を意味しません。それは、アビス・ラ細胞が本来持っている、次元の壁すら超える『情報伝達能力』が、地球上のあらゆる電子ネットワーク、さらには物理的空間と直接接続され、世界そのものの物理法則や因果の理を瞬時に塗り替えてしまう破滅的な危機の引き金になりかねないのです。……そのため、現在は高濃度の分子ナノ鎮静剤の絶え間ない投与と、彼のNCU(神経接続ユニット)へのダイレクトな情報干渉介入によって、意識の覚醒を強制的に力ずくで抑制していますが……」
千姫はそこで一度冷酷に言葉を切り、成層圏の窓の向こうに広がる深い、底なしの闇を見つめた。
「それらの超技術を用いた足止めも、もはや時間的に限界だ。彼の肉体と精神の『進化』の速度は、我々が用意し得る最新の抑制論理ロジックを、幾何級数的な速度を以て上回り始めている。繭は今、まさにその内側から彼自身の力によって食い破られようとしているのだ」
シホは、自身の膝の上でガタガタと震え続ける両手を、肉に爪が食い込むほど強く握りしめた。
リクトがかつて、あの激しい雨の降る薄暗い研究所の屋上で、自らの胸の中を掻き毟るようにして漏らした、あの中を抉られるような「僕は、ロボットじゃない……人だ」というあの悲痛な魂の叫び。
彼の孤独な魂は今、この瞬間も、人ではない不気味な何かへと自らの存在が急速に変質していく圧倒的な恐怖と、誰の声も届かない名状しがたい絶対的な孤独の底で、じっと耐え続けているに違いないのだ。
そのあまりにも残酷な進化の孤独を、自分はただ、この遙か上空の高度二万メートルという安全な特等席から静観を決め込み、眺めることしかできないというのか。
シホの胸の奥は、張り裂けんばかりの強烈な無力感と、彼をなんとしてでも一つの「人」の領域へと繋ぎ止めたいという、切実なまでの願いによって激しく締め付けられていた。
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27.2. 外事三課の地下深奥:禁忌のパズル
Ⅰ. 鉄紺の防護壁の向こう側
漆黒の特殊飛行ユニットは、深夜の都心の一等地に位置する外務局秘密管理施設の屋上ヘリポートへと、既存の物理法則を完全に無視したような圧倒的な静粛性をもって、滑り込むように滑らかに着陸を果たした。機体の側面ハッチが静かに開放された瞬間、成層圏から持ち帰った極寒の冷気と、大都会の重苦しい排気ガスを孕んだ夜風が不快に混じり合う。
シホは全身を駆け巡る滑走時の激しい痛みを、自らの隣を歩く白虎の巨大な装甲の揺るぎない足取りに対して預けるようにして、ヘリポートの周囲を厳重に固めていたフル装備の、外事局管轄の警備要員たちの鋭い視線の間を足早に通り抜けた。
「……無駄話をしている暇はない、急ぐぞ。運命の時間は我々の側には残されていない」
千姫の低く響く声は、深夜の都会の静寂を容赦なく切り裂く一本の鋭利なナイフのように冷たく鋭かった。三人は警備員に導かれ、施設中枢へと繋がる専用の高速油圧エレベーターの内部へと勢いよく飛び込んだ。網膜による虹彩認証、十指の指紋照合、そして個人のNCU(神経接続ユニット)による固有生体信号の多重暗号照合がコンマ数秒で瞬時に行われ、金属のケージは強烈なGを伴って地下深奥へと一気に加速していく。
地下三階。周囲を分厚い鉛の防護壁と電磁遮蔽プレートで完全に覆われた重厚な自動気密扉の先にあったのは、ただ「外事三課」という簡素で無機質なアクリルプレートだけが静かに掲げられた、窓が一つも存在しない広大なタクティカルルームであった。
そこは、この国の表の法律や倫理が一切及ばない、暗黒の情報深淵の最前線だ。
ルームの内部に足を踏み入れると、そこには既に千姫チームの先遣である青龍と朱雀の二人が直立しており、そして何台もの大型高解像度モニターが連なる中央演算プロセッサユニットの前で、まるで狂ったように超高速でキーボードを叩き続け、画面と対話し続ける秋吉博子の後ろ姿があった。
秋吉の横顔は白磁の陶器のように青白く血の気が引いており、その両目の下には、何日間も一睡もしていないことを物語る消し去ることのできない濃い、深い隈が痛々しく刻まれている。彼女の細い身体からは、自らの限界を幾度も越えた者だけが周囲に放つ、研ぎ澄まされた――しかし今にも糸が切れて崩れ落ちそうな、危うい狂気の覇気が陽炎のように立ち昇っていた。
「シホさん……。……無事で、本当によかった。私への報告は後でいい、まずはその資料の、システムへの確保入力を最優先にして」
秋吉は自らの高速なタイピングの手を一切止めず、彼らに対して背中を向けたまま、掠れた声で短いねぎらいの言葉を機械的に投げた。彼女の網膜の焦点は、モニター上に膨大な速度でスクロールし続ける、滝のようなソースコードの激流を狂狂と追い続けている。
Ⅱ. 禁忌の設計図:雷門玄一の遺産
「秋吉博士、これを。……八代編集長が、自らの命という最も重い対価と引き換えにして、プロメテウスの猟犬たちから最期まで守り抜いたものです」
千姫が、シホから受け取っていた血痕の残る八代の遺品資料を秋吉のデスクの横へと差し出した。それは、かつて数十年前に世界を震撼させた天才科学者・雷門玄一がこの世に残し、ノア・メディカルとその背後に潜む巨大な世界財団が、血眼になって何年もの間隠蔽し、抹殺し続けてきた「禁忌の設計図」の、最も重要な失われた最後の欠片そのものであった。
秋吉は、その古びた資料を自らの手で受け取った瞬間、自身の指先が微かに、しかし止めることができないほどに震えていることに気がついた。彼女は資料の内容をすぐさま卓上の高解像度スキャナーへと滑り込ませ、自身がこれまでに構築してきた最新の『アビス・ラ』動的解析モデルとのリアルタイムでの強制照合を開始した。
そのすぐ隣では、朱雀が大型モニターに次々と不気味に展開されていく、中世の古色蒼然とした魔術陣式を模したような特殊なアルゴリズムの配置図と、現代のプログラミング言語では決して記述すること不可能な非ユークリッド幾何学的な、ある種の数理プログラムコードを、極めて厳しい険しい表情で見つめ、脳内で精査していく。
再び、ルーム全体を押し潰すような重苦しい、窒息しそうな沈黙が支配した。
室内に聞こえるのは、オーバークロックされたプロセッサの冷却ファンが悲鳴を上げるように回る高周波の駆動音と、秋吉と朱雀の間でミリ秒単位で交わされる、断片的な、しかし人類にとって致命的な意味を持つ高度な専門用語の冷たい応酬だけだ。
「……基底第六層における細胞の融合係数が、事前シミュレーションの予測値からⅠ.02ポイントも大きく乖離しています。これでは、覚醒のインパルスに耐えきれずリクト君のNCUの物理回路が瞬時に焼き切れてしまう」
「待ちなさい、諦めるのは早いわ。第十七領域のこの特異な干渉波形を見て。……この雷門玄一の生前の記述によれば、アビス・ラ細胞は自らの自己増殖のプロセスの中で、この異常な波形をあらかじめ計算された『バッファ』として利用している形跡があるわ。……ここに、我々の側から外部強制介入用のコードキーを直接差し込むことができれば……」
Ⅲ. 特異点の完成
数十分、あるいは当事者たちにとっては数時間、数日にも感じられた緊迫した時間の果て。
秋吉博子が自らの肺の最深部から大きく熱い息を吐き出し、まるで自らのすべての魂を注ぎ込み終えた楽器をそっと机に置くかのように、キーボードの鍵盤からゆっくりと両手を離した。
壁一面の大型モニター群には、リクトの生体情報バイタルデータと、八代が遺した資料から得られた決定的な「解」が、黄金色のノイズを伴う美しい二重螺旋の幾何学となって、一つの画面上で完璧に統合されていた。
「……終わったわ。……すべての、すべてのパズルが、これで完全に埋まった」
秋吉の口から漏れた声はひどく小さかったが、そこには確かに科学としての完全な勝利の響きと、それ以上に重い、これから始まるであろう凄惨な未来の戦いを予感させる悲壮なまでの覚悟が込められていた。
千姫が、その黄金の輝きを放つモニターの画面を食い入るように見つめる。彼女――その女性の肉体に深く宿る、数々の滅びの戦乱を乗り越えてきた老練な武将の脳は、この瞬間に完成した「新たなる概念兵器」が持つ真の戦術的意味を瞬時に理解していた。
「……これこそが、リクトを化物としてではなく、一つの『人』としてこの現世に繋ぎ止めるための、絶対的なる鉄の楔か。……あるいは、プロメテウス財団そのものを根底から滅ぼし尽くすための、我々に残された最後の一撃の刃か」
「その両方よ、千姫。……これこそが、あの雷門玄一が自らの人生の最期に夢見ていた、機械のテクノロジーと生命の『真なる調和』の究極の答え。……さあ、リクト君を私たちの元へと迎えに行きましょう。彼の肉体と精神が、完全に彼自身のものでいられなくなって、境界の彼方へ消え去ってしまう前に」
秋吉の放った冷徹な言葉は、外事三課の冷たいコンクリートの壁に幾重にも反響し、シホの胸の最深部に鋭い希望の光と、それと同じほど巨大な底なしの不安を同時に突き刺した。
ついに、運命の歯車は冷酷に噛み合った。
加速し続ける「∞(無限)」のカウントダウンの果てに、彼女たちを待ち受けるのは世界の救済か、それとも完全なる破滅か。
彼女たちは、その両極端の未来の答えを自らの手の中に強く握りしめ、リクトが囚われている防衛省の最高警戒隔離施設へと向かって、一斉にその足を進め始めた。
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27.3. 「陸 x 拾弐 ≒ ∞」の真実:神への演算、人への未練
Ⅰ. 数式に刻まれた「バグ」の正体
外事三課の地下深奥。大型サーバーの冷却ファンが放つ低い唸り声だけが延々と響く重苦しい沈黙を破り、秋吉博子が自らの震える指先でメインコントロールモニターの画面をパッと切り替えた。
そこに大きく青白く浮かび上がったのは、一般の数学者では一瞥しただけで精神を病むほどの膨大な多次元変数群と、非ユークリッド幾何学の複雑な多層トポロジーモデル、そしてそのすべての混沌の中心にぽつんと座す、あまりにも暴力的なまでに簡潔に記述された、一行の「呪われた数式」であった。
陸 ✖ 壱弐 ≒ ∞
「八代編集長が、自らの貴重な命という最大最悪の対価を支払ってまで猟犬たちから守り抜いたこの秘匿資料……。そこに明確に記されていたもの。それこそが、ノア・メディカルが開発を進めてきたNCUの最終覚醒段階、コードネーム『ブレイク・ネクサス』の真の姿。人類が歴史上、絶対に足を踏み込んではならなかった、神の領域の設計図そのものです」
秋吉は、青白く冷たく発光する画面上の一点――リクトの脳幹部の最深部に物理的に位置している、NCUの精緻な概念図のコアを指し示した。
「我々現代の科学者が、これまでにリクト君のNCUの内部コードを解析しようとする際に、どうしても突破できずに突き当たっていた巨大な論理の壁……。現代の最高性能の量子計算機を以てしても一切の解析が不可能であり、これまでは単なるプログラムの記述ミス、あるいは回路のバグとして処理されていた『未知の三パーセントの術式領域』。……八代さんの資料によれば、これはバグでも設計のミスでもありませんでした。これは、リクト(陸)というこの世界における極小の一つの個体を、この宇宙というシステムそのものに遍在する十二の『高次元法則(拾弐)』へと物理的に、かつダイレクトに接続するための、次元特異点インターフェースそのものだったのです」
Ⅱ. 十二の理と、意志を持つ「現象」
「『陸 x 拾弐 ≒ ∞』……。秋吉さん、一体それがこの恐ろしい数式の持つ本当の意味なの? リクト君の身体の中で、今何が起きようとしているの?」
シホの喉から絞り出された声は、先ほどの成層圏の物理的な寒気とは全く異なる、魂の根源から湧き上がるような絶対的な恐怖にガタガタと震えていた。秋吉は深く、その沈痛な面持ちをさらに歪めて重く頷く。
「この数式における『拾弐』とは、この三次元宇宙という巨大なプログラムのOSとも呼ぶべき、絶対的な基本物理定数の数々。時間、空間、因果律、エントロピーの方向性、強い相互作用、弱い相互作用……。この世界のすべての現実の理を裏から構成している、十二の基底法則のことです。NCUが完全に覚醒を遂げ、体内のアビス・ラ細胞との融合反応が百分率で完遂されたとき、リクト君の脳は、これらの宇宙の基本法則を直接自らの思考で『直接演算』し、自らの意志のままに任意に書き換える最高管理者権限を得ることになります。それは、確率統計の支配を完全に離れ、彼がその瞳で観測した瞬間に、自らが望む独善的な結果を現実の物理空間としてそのまま出力する、実質的な『無限(∞)』の力の行使を意味するのです」
「……そんなの、そんなのもう、人間じゃなくてただの神様じゃない」
「いいえ、それは違うわ、青龍。人類の宗教が都合よく生み出した神よりも、はるかに質が悪い。……彼は自らの明確な意志を持ったままの『物理現象』そのものへと化すのです」
秋吉の冷酷な言葉が、冷たい鋼の刃のようにルームの隅々にまで鋭く響き渡る。
「もしリクト君が目覚めたとき、彼の脳の奥にある剥き出しの『生存本能』が、この絶大すぎる破壊の力と直結してしまったらどうなるか。……周囲の状況への恐怖に駆られた彼が、その心の中でほんの一瞬でも『目の前の敵を消し去りたい』と願ったその刹那、宇宙の因果律は瞬時に書き換えられ、対象の人間はこの宇宙に最初から存在した痕跡ごと、過去に遡って完全に消去される。そして、彼の肉体の中に流れるアビス・ラ細胞の狂暴な生命力は、その『破壊の意志』の実行をナノ秒単位の速度でさらに加速させるでしょう。彼は、自分自身の内に残る最後の人間としての優しささえも、進化のための『ノアのノイズ』として冷徹に最適化し、結果として地球上のすべての既存の文明を完全にリセット(初期化)してしまう。……それこそが、プロメテウス財団がその裏で夢見続けてきた、人類の強制進化の地獄の終着点なのです」
Ⅲ. 最後のトリガー:共鳴の博打
「それを止めるための具体的な方法は、もう我々には残されていないのか? ……秋吉博士、お前は我々に、あの少年をこの手で討てと、そう命じるつもりなのか」
青龍が、自らの腰に帯びた長大な得物の柄に手をかけながら、地を這うような低い、鋭い声で問い詰めた。そのすぐ横で、千姫は自らの両腕を固く組み、冷徹な指揮官の冷ややかな眼差しを崩さずにモニターの画面を見つめ続けていた。
千姫(コックピットシートからの通信):「……『殺害』という原始的な手段は、もはや戦術的な選択肢には入らん。彼の存在が完全に『物理現象』化してしまったその瞬間に、我々が放つあらゆる物理的・力学的干渉は無効化され、ただの空振りに終わる。我々に残された唯一の勝利への道筋は、その無限の演算の主導権を、プロメテウスの財団側から力ずくで奪い返すことだけだ」
秋吉は、画面に対してさらに新しいシミュレーションの進捗――リクトの現在の精神安定度と人間性の残存率を示す一本のグラフを表示した。
「唯一の、本当に万に一つだけの希望は、リクト君がその絶望の土際で今も必死に踏み止まっている『人間としての倫理と未練』です。NCUが世界のすべての法則を完全に掌握し尽くしてしまう前に、その膨大な演算能力のベクトルを、彼自身の『人としての強い意志』の制御下に完全に置かせること。……しかし、現在の彼の細胞融合率九十四パーセントという極限の数値では、彼が目覚めて覚醒した瞬間にそのまま暴走して世界を消し去る確率は、非情にも九十パーセントを遥かに超えています」
秋吉は、ついにキーボードから完全に両手を離し、室内のシホの姿を真っ直ぐに、射抜くような視線で見つめた。その瞳の奥には、科学を愛する者としての完全な敗北の悔しさと、それ以上に一人の無力な女性としての、奇跡を願う祈りの感情が不気味に混在していた。
「シホさん。……あのリクト君を、化物としてではなく一つの『人』として正常に目覚めさせるための最後のトリガーは、我々が外側から行ういかなる薬物投与でも、制御プログラムの強制介入コードでもありません。……彼がかつて絶望の淵に立たされていた中で、この世界で唯一信頼し、自分を化物としてではなく、ただの不器用な『人』として正面から見てくれた人物との、魂の『共鳴』。それだけが、あの呪われた数式の不等号の向きを根底からひっくり返すことができる、我々に残された唯一の不確定変数なんです」
シホは、自らの手の中に残る、八代編集長のあの血と油で汚れた資料の古びた紙の感触を、自らの手のひらで確かめるようにして、その拳を骨が白くなるほど固く、固く握りしめた。
リクトをその深淵から救い出すことは、この世界が明日も、明後日も、これまでと同じように当たり前に存在することを守るのと、全く同じ意味を持つのだ。そして、その世界の運命の天秤を左右する決定的な鍵を、今、自分というこの世界のどこにでもいる、ちっぽけな三流記者が握っている。
(……リクト君。そこで少しだけ待ってて。……あんたのことを、あの暗い情報の底に一人きりにはさせない。絶対に、私がそこまで手を伸ばしてみせるから)
「……やりましょう。……迷っている暇はないわ、彼を今すぐ迎えに行くわよ。……それこそが、死んでいった八代さんが私に対してこの重要な資料を命懸けで託した、本当の理由だと思うから」
外事三課の地下深奥、窓のない冷徹なルーム。
全人類の運命を左右する、歴史上最も無謀で最も巨大な最後の大博打が、静かに、しかし二度と引き返すことのできない決定的な熱量を持って、今まさにその幕を開けようとしていた。
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27.4. 解析の深淵:テロス・ギアの「変質」と崩壊する境界線
Ⅰ. 電脳の伽藍と凍てつく呼吸
外事三課の地下施設。そこは、世界中から集められた天文学的な情報の奔流が物理的な熱量そのものへと変換され、現実の空気を不気味に歪ませている、冷徹極まる電脳の伽藍そのものであった。何十台もの最新鋭スーパーコンピュータの巨大なサーバーユニットが、重厚な鉛の防護壁の向こう側で絶え間なく発し続けている低周波の重いハミング音は、地下深くに眠る巨大な異形の獣の唸り声のように、ルーム全体の空間を常に不快に振動させている。
高度な液体窒素冷却システムが、過熱し続ける演算素子群を熱暴走から守るために絶えず周囲へと吐き出し続けている、凍てつくような白い霧が、重力に惹かれるようにしてコンクリートの床の上を低く這い回り、シホのライダースーツの足首を、まるで死神の冷たい指先のように冷酷に撫で回していた。
秋吉博子の細い指先が、空間の空中に静止して明滅する何重もの立体ホログラムパネルを、まるで美しいピアノの鍵盤を奏でるような――しかし、その操作の実態は、完全に停止してしまった人間の心臓を素手で直接マッサージする、極限の外科手術に近い悲壮な緊張感を全身に孕んだ動きで叩き続ける。画面に大きく表示されたリクトの全身透過三次元グラフィックは、数時間前、あの東名高速のハイウェイでの激しい戦闘時に見せていた姿とは、明らかに根本から異質で、ある種の冒涜的なまでの恐るべき変貌を遂げていた。
「……見て。これはもう、私たちがこれまでの歴史で積み上げてきた『義体技術』の科学的範疇を、とうの昔に通り越してしまっているわ。義体とは本来、人間の不確実な魂をこの現世の物理空間に繋ぎ止めるための便宜的な『器』であり、社会的な意味での『人の形』を維持するための高度な道具であるはずのもの。けれど、今、リクト君の体内で起きているこの超常現象は、単なる欠損パーツの修復や新しいメカへの交換なんかではないわ。それは……『存在そのものの置換』。いいえ、もっと恐ろしい、この宇宙の物理法則そのものによる、彼の肉体への直接的な『侵食』よ」
Ⅱ. 「神への階梯」と倫理の破棄
秋吉は自らの手元を操作し、リクトの脳幹部へとその視点を一気にズームアップさせた。そこには、本来の医学ならば完全に独立しているはずの生体肉体組織と末梢神経束、そして人工的なチタンファイバーが、もはや個別の境界を判別することが不可能なほど精緻に、かつ暴力的に噛み合って食い込んでいる、NCUの核心部が赤黒く映し出されていた。
「NCUの本来のシステム的な役割は、機械が持つ絶対的な演算の精密さと、人間という生物が持つ不確定で柔軟な思考の揺らぎを滑らかに繋ぎ、調和させるための精神インターフェースでした。けれど、今の彼のNCUは、その体内に溢れかえっているアビス・ラ細胞という未知の超高度生命エネルギーそのものを、自らの直接的な『演算資源』として内側から貪り喰らっている。スーツの制御AIは、その制御コードの最深部、わずか三パーセントの領域に存在するあの『解析不能な術式コード』――あの雷門玄一がこの世界に対して仕掛けた、神への階梯へと至るための禁忌のプログラムを、自らの生存と今後の進化のための、唯一の『絶対的な正解(最適解)』だとバグ判定して定義してしまったのよ」
その秋吉の戦慄の解説と共に、モニター上のリクトの全身の神経網が、黄金色の激しいデジタルノイズを伴って激しく明滅を繰り返した。
「その悲惨な計算の結果として、制御AIは自らにあらかじめ課されていたはずの最優先の倫理プログラム……人を決して殺めてはならない、自己の人間としての同一性を保たねばならないという、あの『人としての足かせ』を、これ以上の演算を進める上でのただの『非効率なゴミ』として冷酷に破棄してしまったわ。今、彼の内部にあるプログラムは、一秒間に数億回、数兆回という、生身の人間には絶対に知覚不可能な超速度で自己の記述コードを自ら書き換え続け、幾何級数的に加速している。リクト君がこうして今も目覚めないのは、彼の脳が死んでいるからなんかじゃない。……彼の意識が、その無限に続く、光さえも絶対に届かない演算の濁流……情報という名の底なしの深海に完全に飲み込まれ、その情報の水圧の中で今も窒息しかけているからなのよ。彼は今、この世界の誰の声も、届くはずのない、絶対的な孤独の底で、たった独りきりで、延々と溺れ続けているの……」
Ⅲ. 情報の深海、拒絶の痙攣
シホはその秋吉の言葉を自らの鼓膜に直接受け止めながら、自身の心臓が内側から冷たく凍りついていくような、強烈な錯覚に陥っていた。
情報という名の、底なしの深海。
そこは、彼がかつてあの激しい雨の降る薄暗い屋上で、自らの喉を潰さんばかりに叫ぶように漏らした「僕は、ロボットじゃない……人だ」という、あの血を吐くような魂の底からの叫びさえも、一瞬にして無機質な電子の塵へと分解され、白く漂白されて消し去られてしまうような、そんな冷酷な場所なのだろうか。
その時、大型モニターの中央に映し出されていたリクトの透過図の指先が、かすかに、しかし確実に、何かに抗うように痙攣したのをシホの瞳は見逃さなかった。
それは、情報の濁流の底へと沈みゆく者が、最後に一筋の光が差し込む水面へと向かって、必死に救いを求めるために伸ばした掌のようにも見えたし。
あるいは、自分をこのような見るも無惨な「怪物」の姿へと勝度に変容させてしまったこの世界そのものの理を、断固として拒絶しようとする、呪いの表現のようにも見えた。
秋吉博士は、その画面上の指先の痙攣を数値の微かな乱れとして記録しながら、悲痛な表情で自らの唇を血が滲むほど強く噛み締めた。
「彼のNCUが完全に自律的な自己改変をすべて終えたとき……つまり、その最深部の三パーセントの禁忌の術式が、この現実世界と100%完全に同期してしまったその時、リクト君という一人の『個人』の魂は完全にこの世から消滅し、彼はただこの壊れた世界を一度リセットするためだけの、冷徹な『現象』へと姿を変える。……我々に残された時間は、もう、秒単位、分単位の極限の博打よ」
千姫がその光景を、コックピットのパイロットシートから静かに振り返り、冷ややかな一瞥をくれた。その瞳の中には、かつて己が生きてきた数多の凄惨な戦場で、多くの「個」の命が「全」の目的のために冷酷に消え去っていくのを幾度も見届けてきた、老練な戦士としての深い諦念と、それに対する激しい怒りの感情が複雑に同居していた。
千姫(通信音):「……ふん。神を人の手で造り出すにしろ、物理現象を造り出すにしろ、プロメテウスの連中は随分と趣味の悪い設計図を描いたものだ。秋吉、感傷に浸る準備はもうできているな。……シホ。お前のその不格好な『共鳴』が、この電子情報の深海に囚われたあの子の脳まで本当に届くという科学的な証拠は、この世界のどこにも存在しない。……だが、たとえそれが地獄の最底辺であろうとも、その底まで手を伸ばすという無謀な覚悟が本当にあると言うなら、我々はこの外事三課の伽藍のすべてを、お前のただ一人のためだけの戦場に変えてやる」
千姫の、その麗しい女性の肉体からはおよそ想像もつかないほど重厚で、かつ圧倒的な冷徹さを孕んだ「男」の絶対的な意志が込められた声が、凍てつく白い霧が這うルームの中に力強く響き渡った。
シホは、リクトのあの痙攣した指先の残像を自らの脳裏に強く焼き付け、手の中にある八代編集長の資料――この長きにわたる物語の、最後の扉を開くための鍵を、自らの骨の音が鈍く鳴るほど強く握りしめた。
人と機械、現実と虚構を隔てる境界線は今、完全に音を立てて崩壊しようとしていた。
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27.5. 『陸 x 拾弐 ≒ ∞』:宇宙のOSを書き換える禁忌の数式
Ⅰ. 数式に刻まれた「悪魔の証明」
外事三課の地下深奥。世界中から集められた莫大な情報の熱量が完全に飽和した電脳の伽藍に、秋吉博子の震える両手によって、運命を決定づける最後の一打のキーが強く加えられた。
その瞬間、ルーム内のすべての天井照明が、メインコンピュータの演算リソースを限界まで確保するために一斉にバサリと落とされ、中央の空間に設置された巨大なホログラム・メインモニターだけが、死神が携える巨大な鎌のような青白い不気味な輝きを放ちながら、一枚の「呪われた悪魔の楽譜」を空間全体に鮮明に投影した。
それこそが、あの八代編集長が自らの命を犠牲にしてまで守り抜いた資料の、最も深い核心。プロメテウス財団とノア・メディカルの狂信的な科学者たちが、数千億円の莫大な資本と数万人もの人間の尊い犠牲の屍の上に築き上げてしまった、人類史上最悪の知の到達点。
陸 ✖ 壱弐 ≒ ∞
「この遺品資料の最深部の解析により……被験体『陸』という一人の少年の存在の、本当の設計定義が完全に判明しました。彼は最初から、この世界における『拾弐』の物理法則へと直接干渉し、それを内側から食い破って世界を再構築するための『鍵』として、この世界に意図的に設計され、育成されていたのです。……この数式における『拾弐』とは、単なるオカルトや宗教的な象徴数字などではありません。それは、この三次元宇宙という巨大な構造システムを、安定した『確固たる現実』として成立させている、十二の物理的・数学的基本定数――すなわち、因果の指向性、時空の曲率、質量保存の法則、熱力学におけるエントロピー増大の法則、強い相互作用、弱い相互作用……。それら、この世界のあらゆる『理』そのもののシステムコードを指しているのです」
秋吉の瞳の奥には、かつて世界の真理をどこまでも追い求めようとしていた純粋な一人の科学者としての渇望の光を、目の前の現実に直面した絶望的な戦慄の影が、今や完全に塗り潰してしまっていた。
Ⅱ. 主観的未来による「管理者権限」の執行
「『陸 x 拾弐 ≒ ∞』(リクト・バイ・トウェルブ・イズ・ニアリー・インフィニティ)。このあまりにも簡潔な数式が導き出す残酷極まる結論。それは、個体としてのリクト(6)という特異点が、世界の基底法則(12)と完全に100%同期して掛け合わされた(x)とき、そのシステム出力は既存の物理学や数学が定義するすべての『有限』の壁を突破し、絶対的な無限(∞)の領域へと到達するという、悪魔の証明そのものなのよ」
秋吉は自らの手を動かし、ホログラム上のリクトの神経網のグラフィックが、世界の理を示す十二の不気味な幾何学的な紋様と完全に重なり合い、融合していく様子を拡大表示した。
「もし彼が繭の中で完全に目覚め、その無限の力が完全に覚醒を遂げてしまえば、この宇宙において『確率統計』という人類の拠り所となる概念は完全に死に絶えることになります。……例えば、彼が自らの肉体の『死』を主観的な思考で断固として否定すれば、エントロピーの局所的逆転現象により、彼の細胞組織は即座に時間を過去へと巻き戻して再生・修復される。彼が目的地までの『物理的距離』をその心の中で否定すれば、三次元空間の宇宙曲率は無限大へと強制偏向し、目的地までの距離は一瞬でゼロへと収縮する。リクト君という一つの個体が見つめる、極めて個人的で主観的な未来のビジョンが、我々全人類が共有している客観的な現実の物理法則に対して常に優先され、その場に『強制執行』される……。それは、この宇宙という巨大なOSの根幹を司る、実質的な『最高管理者権限(ルート権限)』をその片手に手にするのと全く同義なのよ。……ノア・メディカルは、一人の脆弱な少年の脳を苗床にすることで、この世界そのものを自分たちの完全な所有物として乗っ取ろうとしているの」
それは、物理学という人類が数千年の歴史の中で積み上げてきた唯一の客観的な拠り所を、一個人の「主観的な意志」という最大の不確定要素によって力ずくで上書きしてしまうという、神に対する最大級の冒涜的な計画であった。
Ⅲ. 揺らぐ秩序、震える戦士
「……ふん。人間の手で、この世に神を直接造り出そうとしている、というわけか。だが、その造り出される神の頭脳には、我々生身の人間の温かい意志など一片も宿ってはいない。そこにあるのは、ただあらかじめプログラミングされた『世界の破壊と再構築』をナノ秒単位で繰り返すだけの、どこまでも冷徹で無機質な演算機だ」
青龍が、自らの腰に帯びた日本刀の柄を、革がミシミシと軋むほどに強く握り締め、苦々しげに床へと唾を吐き捨てるようにして呟いた。彼の言葉の端々には、人知を遥かに超えた絶対的な暴力に対する、一人の古風な武人としての根源的な嫌悪の感情が色濃く滲み出ている。
一方、その隣に立つ白虎は何も言わず、ただ無言のまま、その場に巨大な漆黒の石像のように立ち尽くしていた。だが、漆黒のコマンドスーツの細い装甲の隙間から微かに見えるその頑強な拳は、彼のこれまでの軍人としての歴史の中で、かつてないほどに激しく、小刻みに震え続けていた。
彼が、そしてこの「千姫チーム」の全員がこれまでの人生で命を懸けて守り抜いてきた、この日本という国の「確固たる秩序」。法律と圧倒的な武力によってこれまできわどく保たれてきた、平穏という名の防壁が、一人の少年という形をとって現れた「無限」の暴威を前にしては、あまりにも脆く、あまりにも無力な一枚の紙屑に過ぎないという残酷すぎる現実に直面し、彼の誇り高き戦士としての魂が恐怖と屈辱で打ち震えていたのだ。
千姫は、そのルームを支配する重苦しい沈黙の中、コックピットのパイロットシートから静かにこちらへと振り返った。その冷徹な瞳は、女性の美しい皮を被りながらも、過去の歴史の中で数多の国々の滅びを自らの眼で予見してきた、老練なる「指揮官」としての冷ややかな色彩を微塵も失ってはいなかった。
千姫(通信音)「……白虎。そんな瑣末な現実の前に動揺するな。既存の秩序がただの紙屑だと言うなら、我々がこれからその『無限』という名の真っ白な余白の上に、我々の手で新たな規律の文字を書き込んでやるまでだ。……秋吉。机上のデータシミュレーションはもう十分だ、画面を閉じろ。……我々の世界の『最高管理者』を、プロメテウスの手からこの手に力ずくで取り戻しに行くぞ。全機、これより最終戦闘配置へ移行せよ」
千姫のその凛とした声には、一人の女性としての柔らかな優しさなど最初から一欠片も存在しなかった。そこにあるのは、たとえ宇宙の物理法則の崩壊という最悪の絶望を前にしてもなお、それを自らの戦場の一部として冷酷に受け入れる、徹底して男性的な苛烈さと絶対的な統率力。
東京の地下深く、人類がこれまでの歴史という名の砂の上で築き上げてきたOSが完全に崩壊を始めるその寸前で、一人の少年を巡る最後の人類最大の博打が、静かに、しかし爆発的な熱量を持って、今まさにその幕を開けようとしていた。
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27.6. ブレイク・ネクサスの真相:相乗と相反が招く「臨界点」
Ⅰ. 秩序と混沌の悪魔的共振
外事三課の地下深奥、窓のない電脳の伽藍に低く漂う凍てつくような窒素の霧は、今や限界を超えて駆動し続ける大型サーバーユニット群が吐き出し続ける猛烈な熱気によって、不気味に歪んだ情報の陽炎へとその姿を変貌させていた。秋吉博子がメインモニターの画面に新たに提示した一本の折れ線グラフには、見る者の精神を内側から蝕むような、禍々しくもどこか美しい幾何学的な波形がくっきりと刻まれていた。
それは、冷徹な青い光のラインで描かれた「NCUによる論理演算の規則性(秩序)」と、生き物のようにドクドクと脈動する赤い霧のような「アビス・ラ細胞の圧倒的な生命力(混沌)」が、互いの存在を激しく喰らい合い、破壊しながら、螺旋状に上昇して一点の未来へと収束していく、破滅的なフィードバック・ループの軌跡そのものであった。
「……さらに最悪なのは、この数式が導き出す絶大な破壊の力が、アビス・ラ細胞という、そもそも人類の既存の科学の理解を完全に拒絶している『混沌の原始生命体』を、自らの直接的な動力源として利用していることなのよ」
秋吉の細い指先が、空間のその波形の頂点の一点を静かになぞる。そこでは、人類の近代物理学における鉄則である「熱力学第二法則」が、無惨にも完膚なきまでに蹂躙されていた。
「通常、機械のテクノロジーが司る『絶対的な論理(秩序)』と、原始の生命体が本来持っている『無限の自己増殖性(混沌)』という二つの概念は、水と油のように互いに激しく反発し合い、最終的にはそのシステム系そのものを自壊させます。しかし、リクト君の体内に埋め込まれたあのNCUの特殊回路は、アビス・ラ細胞が周囲に放つ無指向性の狂暴な生命エネルギーを、特定の現実の事象を改変するための『指向性演算資源』へと強制的、かつ完璧な統制下で変換しているの。そしてアビス・ラ細胞の側も、NCUという完璧な論理の制御系を得ることで、自らの増殖速度そのものをデジタル演算のエネルギーへと変換し、NCUの基盤に対して『永久に尽きることのない出力』を裏から供給し続けているのよ。……この二つの要素による悪魔的な『相乗効果』が、計算上の絶対的な臨界点へと達してしまったその瞬間……」
秋吉はそこで一度、言葉を喉に詰まらせた。彼女の怯えた瞳は、モニターに映し出されている「地獄の設計図」の数値を直視することすら、本能的に拒んでいるかのようであった。
「リクト君という物理的な肉体の『器』と、この私たちが生きている現実世界をきわどく繋ぎ止めている、因果律の接続点が、物理的・空間的に完全に崩壊する。……これこそが、ノア・メディカルがその裏で進めてきた計画の本当の名前。――『ブレイク・ネクサス』という作戦名の、本当の正体なのよ」
Ⅱ. 物理法則の消失と「最適化された地獄」
秋吉は、自らの震える声を精一杯に絞り出し、科学者として本来ならば最も口にしたくない、しかし直視せねばならない最悪の論理的結論を静かに紡ぎ出した。
「そのブレイクの瞬間、この世界の局所空間において一体何が起きるか。……それは、ダイナマイトの爆発のような単なる物理的な爆発などでは決してないわ。この宇宙における物理法則そのものの、局所的な『完全な消失』よ。……重力はそのベクトルを完全に失って上下に反転し、時間はその指向性を失って過去へと逆流を始め、周囲のあらゆる物質は自らの分子構造を維持することができずにその原型を完全に喪失する。それはこの宇宙という巨大な演算プログラムのOSに穿たれた、修正不可能な永久的な『致命的バグ』となって、周囲のまともな現実を次々と飲み込みながら、無限に拡大していくのよ。……工程の最後には、既存のすべての文明や生命をアビス・ラという名の一つの情報の海へと完全に溶かし込み、リクト君の脳の最深部にある深層意識(無意識)だけが唯一の絶対法として支配する、生と死、存在と非存在の区別すら一切つかない『最適化された地獄』へと、世界を内側から作り変えてしまう。……それこそが、ノア・メディカルが盲信的に掲げている、新世界の夜明けのビジョンなのよ」
それは、宗教における神による光に満ちた創世の再演などでは決してなく、一人の少年のあまりにも深い孤独な無意識のビジョンが、全人類がこれまで共有してきた現実のすべてを冷酷に塗り潰してしまうという、極めて独善的で悲惨な終末の形であった。
「そんなことのために……。リクト君は、あんな……あんなに子供の頃から誰にも言えない孤独な思いをして、今までたった独りきりで生きてきたっていうの……?」
シホの喉から放たれた問いは、激しい震えを伴う哭音となってルームのコンクリートの壁に幾重にも反響した。だが、そのあまりにも切実な問いに対して、室内の誰も明確な言葉を返すことはできなかった。青龍は自らの刀の柄をギリギリと軋ませ、白虎は無言のまま冷たい床の一点を凝視し続け、千姫はただ一点、正面モニターの奥にある「無限の闇」をその瞳で見据えていた。
Ⅲ. 科学者の原罪と、冷徹な軍略
秋吉博士の怯えた瞳から、ついに耐えきれずに溢れ出た一筋の涙が、青白い彼女の頬のラインを伝って静かに床へとこぼれ落ちた。
彼女は、世界の真理の知を誰よりも愛する一人の純粋な科学者として。
この「究極の進化」という数式が目の前に提示する、宇宙のすべての理を遥かに凌駕する悪魔的なまでの美しさに、一瞬だけでもその心を奪われそうになってしまった自分自身の原罪を、激しい自己嫌悪の感情と共に、自らの理性で懸命に、そして残酷なまでに律していた。
「……リクト君という一人の少年の命を、ただの都合の良い機械の部品として消費し尽くし、その果てにこの世界をすべて滅ぼそうなんて……。そんな開発、そんな数式は、絶対に、絶対に間違っているわ……!」
シホの小さな拳は、爪が手のひらの肉に深く食い込み、そこから赤い血がジワリと滲み出るほどに強く、強く握り締められていた。
千姫はそのルームに立ち込める重苦しい感傷の沈黙を、自らの硬質な言葉によって容赦なく切り裂いた。彼女――その身体の最深部に宿る老練な武将の頭脳は、秋吉の流した涙さえも、現在の戦況を冷静に判断するための、ただの一つの「感情の変数」として冷徹に処理していたのだ。
千姫(通信音):「……秋吉。無駄な感傷は今すぐ捨てろ。科学者としてのお前の本当の責任の取り方は、ここで子供のように泣くことではなく、その穿たれたプログラムの『バグ』を物理的に修正するためのパッチコードを、一秒でも早く現場で完成させることだ。……白虎。周辺海域のデータおよび防衛省施設への最終突入ルートの座標を完全に固定せよ。……シホ。お前が今言った通り、プロメテウスの描いたこの設計図は明確な間違いだ。そして世界の間違いというものは、いつの時代だって、それを上回る圧倒的な実力を以て正さねばならない」
千姫の声には、一人の女性としての温かい優しさなど微塵も存在しなかった。そこにあるのは、宇宙の崩壊という最悪の絶望のシナリオを目の前に突きつけられてもなお、それを打破するための具体的な「戦術」を組み立てることを決して止めようとはしない、男性的な苛烈さと鋼の意志の塊。
千姫:「我々は、これから神を殺しに行くのではない。一人の迷子の少年を、その情報の深海の底から自らの手で力ずくで引きずり出しにいくのだ。……全機、これより最終抜錨。作戦の最終目標は『ブレイク・ネクサス』の物理的・精神的な完全遮断。……一人として足を引っ張るな、遅れるなよ」
東京の地下深く、人類が共有してきた客観的な現実という名の、脆い砂上の楼閣が音を立てて崩れ始めるその寸前で、一人の少年を一つの「人」の領域へと繋ぎ止めるための、歴史上最も無謀で、そして最も凄惨な最終作戦が、今まさに開始されようとしていた。
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27.7. 究極の解決策「上位BRAIN」:十パーセント未満の聖戦
Ⅰ. 倫理という名の「楔」
外事三課の地下深奥。情報の暴風が吹き荒れる電脳の伽藍には、もはや人間の呼吸を許さないほどに重苦しく、窒息しそうなほどの絶望の気配が完全に支配していた。秋吉博子は、自らの震える両手で自身の青白い顔を一度強く覆った後、意を決したようにルームのシホの瞳を真っ直ぐに、正面から見つめ返した。
その秋吉の瞳の奥には、純粋な知性を司る一人の科学者としての完全な敗北を認め、自分たちには扱えない世界のすべてを、一人の非力な人間に託そうとする者の、悲壮なまでの覚悟の光が宿っていた。
「……この暴走しゆくシステムを止めるための具体的な方法は、もはや外側から爆薬を仕掛けるような物理的な破壊の手段では不可能なのわ。リクト君という宇宙の『特異点』の内側に対して、崩壊しゆく世界を肯定するための、強力な精神の楔を直接打ち込むこと。……シホさん、あなたの相棒であるALICEのデータコアの中には、これまであなたが一人の記者としてリクト君と接してきた長い時間の中で培われてきた、かけがえのない『人間の倫理と温かさ』がすべて蓄積されているはずよ。それは、彼に街角で安物のアイスを食べさせ、研究所の屋上で何気ない夕焼けの光を共に静かに眺めた、あの記憶……。現代のどんなプログラミング言語を以てしても絶対に記述不可能な、重層的なクオリアの断片そのものなの」
秋吉はシホの元へとゆっくり一歩歩み寄り、冷たくなって震えている彼女の肩を、自らの両手で強く、強く掴みしめた。
「リクト君の覚醒しゆくNCUのコアに対して、ALICEがこれまでに蓄積してきたその全倫理フィルターを直接強制介入させ、彼の無限に近い宇宙演算能力のベクトルを、『世界の破壊』ではなく『世界の守護』のために強制的に再定義させるの。……それこそが、私たちが科学的に到達し得る唯一の臨界点。コードネーム『上位BRAIN』への到達試験の本当の姿よ。……でも、よく聞いて。NCUの未知の三パーセント――あの雷門玄一が残した『神の領域の術式』は、外部からやってくるあらゆる精神干渉のコードを、自らを脅かす『外敵』として自動認識し、容赦なく粉砕して排除する、強力な精神免疫システムをその内に持っているわ」
秋吉の放ったその言葉は、まるで逃れられない死の宣告のようにルーム全体に重く響き渡った。
「もし、ALICEがその神の深淵に触れたその瞬間に、システムから拒絶されてしまえば……。ALICEの持つすべての構成データは一瞬にして情報の特異点へと吸い込まれて消滅・蒸発し、さらにそのリンク回路と直接繋がっているあなた自身の生身の脳も、無限の演算負荷による超高熱によって、物理的に内側から焼き切られることになるわ。この作戦の成功確率は、現在の数値をどれだけ控えめに見積もったとしても、十パーセントにすら満たない……。これは文字通り、あなた自身の『魂』の存在すべてをチップとして卓上に差し出した、全人類の運命を賭けた最悪のギャンブルなのよ」
Ⅱ. 三流記者の特ダネ、あるいは無償の愛
シホは、青白く空間に光るメインモニターの透過図の中で静かに眠り続けている、あの少年の幼い横顔をそっと見つめた。
人工呼吸器の酸素マスクの下で、彼の薄い唇は今もわずかに震え、現実の世界に対して音にならない言葉を必死に呟こうとしているようにシホの眼には見えた。
彼はその心の奥底で「誰か、僕を助けて」と泣き叫んでいるのか。
それとも、「もう手遅れになる前に、僕というこの怪物を今すぐ殺して」と、そう願っているのだろうか。
(……普段から会社で上司に叩かれている、しがない三流記者が手にする一生に一度の特ダネの代償としては、これくらい理不尽で危険な方が、ちょうどいいバランスかもしれないわね……)
シホは自らの胸の中で自嘲気味に、しかし驚くほどに清々しい思いでそう静かに考えを巡らせていた。
だが、現在の彼女の心の最深部で静かに燃え上がっていた感情の正体は、ジャーナリストとしての安っぽい使命感や、世界を救うといった正義感などという、他人に説明するための美しい言葉で飾れるような高尚なものでは決してなかった。もっと人間の泥臭さに満ちていて、不格好で、言葉にしてしまえば指の間からサラサラとこぼれ落ちてしまうような、名前も持たないただの情愛の塊。
初めてあの灰色の研究所の部屋で出会った時の、あらゆる感情を忘れてしまっていた彼の無機質な死んだ瞳。
商店街の安物のアイスの冷たさに、驚いたようにその丸い目を丸くしていた彼の不器用な表情。
研究所の薄暗い屋上で、水平線へと沈みゆく夕焼けの赤い光を一緒に見て「綺麗だね」と呟いた、あの今にも壊れてしまいそうだった彼の繊細な横顔。
あの不器用な「人間」を、この冷酷な計算式と冷たい電子の塵だけが延々と舞い散る情報の海の底に、たった独りきりで置いていくわけにはいかないのだ。
「……成功確率が十パーセントもあると言うなら、ギャンブラーとしては十分すぎる数値よ。……世間を震え上がらせる特ダネっていうものは、いつの時代だってそれくらいの危うい綱渡りの暗闇の中にこそ隠れているものよ。それに、もしここで私が尻尾を巻いて逃げ出したりしたら……たぶん私は、これからの残りの人生で一生、自分自身のことを許すことができなくなる気がするの」
シホは自らの震える唇を無理やり両端へと吊り上げ、いつもの取材現場の時のように、不敵な笑みを秋吉の前に浮かべてみせた。
「秋吉博士、グズグズしないで今すぐダイブの準備を。……しがない三流記者の執念というやつが、プロメテウスの神様が計算した完璧な計算式をどれだけ派手に狂わせてみせるか……その特等席で、特ダネの瞬間をじっくりと見せてあげるわ」
朱雀が、いつの間にかシホの背中の後ろへとそっと歩み寄り、自身の温かい、戦士の手を彼女の背中へと置いた。その朱雀の掌の熱からは、同じ過酷な時代を生きる一人の女性としての、そしてこれまでに何度も死線を共に越えてきた戦友としての、静かな、しかし最大限の敬意の感情がシホの身体へと真っ直ぐに伝わってきた。
「シホ。……貴女のその、今にもパキリと折れてしまいそうな生身の『弱さ』が、今の私には、どんな最先端の義体兵器や高周波ブレードよりも鋭い、世界を切り裂く剣に見えるわ。……必ず、あの子を私たちの元へと連れ戻して。私たちの、大切な、大切な『陸』をね」
Ⅲ. 精神の深淵、ダイブ・トキシック
外事三課の地下深奥の空間に、運命のカウントダウンを切り裂くような、高周波の不気味なシステム起動音が激しく鳴り響いた。
シホは冷たい金属質の神経接続シートの上へと自らの身を静かに横たえ、自身のNCUを介して相棒であるALICEとの、全感覚のディープ同期を開始した。
「ALICE、……準備はいい? 私のせいで、これから貴女にとても怖い思いをさせてしまうかもしれないけれど」
『……システムより肯定的回答を出力。シホ様、あなたの現在のバイタルサインの数値をリアルタイムで確認。鼓動のテンポが通常時より大きく速くなっていますが、思考の最深部に迷いのシグナルは一切検知されません。……精神共鳴率一二〇パーセントを突破。精神防壁、これより全解除。……ダイブ・シーケンスを開始します。私たちの目指すべき最終目的地は、光すら届かない情報の最果てです』
その瞬間、何万色もの光の奔流が一気に弾け飛び、シホの視界のすべてを、意識のすべてを、そして彼女の生きる世界そのものを真っ白な光の海へと染め上げた。
彼女の意識のゴーストは、重力を持つ生身の肉体の檻を完全に離れ、今まさに神の領域へと堕ちていこうとしているリクトの、果てしない精神の深淵の暗闇へと向かって、一筋の光の矢となって放たれた。
それは、たった一人の生身の人間が、この宇宙という巨大なシステムが構築した法則そのものに対して真っ向から戦いを挑む、あまりにも無謀で、しかしどこまでも聖なる旅路の始まり。
シホは、どこまでも続く電子の荒野を一人で駆け抜け、ただ一人の少年の魂の温もりを探して、光さえ届かない暗闇のその先へと、まっさかさまに飛び込んでいった。
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