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『ブレイク・ネクサス』改訂版  作者: 嵗(sai)
第二部:ネクサス・ロジック

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第十九章:隔絶された戦場(バトルグラウンド・ゼロ)

19.1. 突然の連行と局長の冷酷な指令


Ⅰ. 帰国と断絶:局長の電子的な宣告


茨城空港の滑走路に、RC-135の重厚な主脚タイヤが接触し、断続的な衝撃と共に摩擦の白煙を上げる。


ネバダの地で千姫から下された峻烈な命令を受け、秋吉博子がリクトのダミーシステム解析という、正解のない高次元パズルを機上で中断してから数時間。無機質なミリタリー仕様の機内から、タラップを降り立った一行を待っていたのは、祖国の土を踏んだ安堵の溜息をつく暇さえ与えない、徹底された冷徹な「沈黙」だった。


秋吉の精神は、すでに限界に近い摩耗を見せていた。


ネバダの果てしない砂漠で目撃した、超古代兵器テロス・ギアの圧倒的な咆哮。世界最強と謳われた米軍第511戦闘航空団の最新鋭機群が、未知の論理階層の前に一瞬にして光の塵と化した凄惨な光景。そして、リクトという少年を巡る、人類の既存の認知限界を遥かに超越した論理の奔流。


網膜の裏に焼き付いた狂気の残像を抱える彼女は今、一刻も早く熱いシャワーを浴び、いかなる電子情報も入ってこない暗い部屋で、泥のように眠ることを切望していた。


だが、入国手続きを終えた直後、重いカバンの中でスマートフォンのバイブレーションが、まるで宿命の警告音のように彼女の腰を執拗に叩いた。


液晶画面に表示された発信元の名前を見た瞬間、秋吉の背筋に冷たい氷柱が鋭く走る。


――内閣情報調査室(CIRO)情報分析局、局長。


「……はい、秋吉です」


極度の緊張に細く声を震わせながら、受話器を耳に当てた。だが、彼女に返ってきたのは、長年仕えてきたはずの上司の温かみなど微塵も感じさせない、まるで初期型の音声合成ソフトが発したような、抑揚を完全に欠いた電子の声だった。


『――秋吉君。まずは、ご苦労だった。……現地の状況は、こちらでも概ね把握している。これから君に伝える内容は、至ってシンプルだ。君の明晰な頭脳なら、一分も経たずにその意図を理解できるはずだ』


局長は、彼女の安否を確認する言葉さえ一切挟まず、ただ淡々と「事務手続き」としての言葉を口にした。


『君は、今日付をもって、当局の籍を一時的に離れる。無期限に科捜研(科学捜査研究所)への「出向」を命ずる。……既に辞令は執行された。君の私物も、デスクのサーバーデータも、すべて向こうへ転送済みだ。……国家のために、精々励み給え』


(プッ、――ツー、ツー、ツー)


一方的な通告。抗議の余地さえ一ミリも与えない通信の断絶。


秋吉は、数秒間、スマートフォンの黒い画面を見つめたまま、空港の喧騒の中で立ち尽くした。


「……無期限? 出向? ……私を、ここで切り捨てたっていうの……?」


怒りが、喉の奥から煮えたぎるような熱さとなってせり上がってくる。


ネバダでの非合法活動を「なかったこと」にするための組織的な隠蔽工作なのか。それとも、機密の核心を知りすぎた自分を、中央の権力構造から物理的に排除するための左遷人事か。


むかっ、と頭の芯が切れかけたその時、彼女の「分析官」としての本能が、周囲の空気の微かな異変を正確に察知した。


Ⅱ. 黄金の檻への拉致:外事三課の嗅覚


「……誰!?」


振り返る間もなかった。秋吉の両腕は、背後から接近した鋼鉄の万力のような力によって、完璧に固定された。


左右を固めたのは、仕立てのいいダークスーツに身を包んだ、体躯の優れた二人の男。その表情、そして瞳の奥にある、徹底的に訓練された無機質な冷酷さ。それは空港の一般警備員でも、通常の警察官でもない。特定の「命令」を無条件で遂行するためだけに最適化された、国家直属の実行部隊オペレーターのそれだった。


「離して! 私は内閣情報調査室の――」


「黙っていてください、秋吉分析官」


男たちの声は低く、有無を言わせない圧倒的な威圧感に満ちていた。


秋吉は激しく身をよじって抵抗しようとしたが、二人の男が皮膚感覚で放つ独特の「殺気」と、その背後にタイミングを合わせて滑り込んできた黒塗りの高級車の存在を確認した瞬間、瞬時に全身の力を抜いた。


彼女がかつて籍を置いていた、警視庁公安部外事第三課での経験が、網膜に映るすべての情報を瞬時にデコードしたのだ。


(……ダメだ。これは逆らっちゃいけない相手。千姫さんの手回しじゃない。もっと上、……『官邸直属』の意思ね)


獲物のように後部座席へと押し込められ、ドアが静かに、しかし強固に閉まる。


車内に足を踏み入れた瞬間、あらゆるモバイル電波のインジケーターがゼロになった。外部との通信は完全に遮断され、車両の窓には防弾ガラスと特殊な偏光フィルムが幾重にも重なっている。


車は茨城空港の敷地を離れると、常磐自動車道を時速百キロを超すスピードで、滑るように疾走し始めた。


目的地への道のりは、一時間を優に超えた。車窓から見える風景が、近代的な都市部から、つくば市郊外の山深く、深い森に覆われた無名の山間部へと移り変わっていく。


やがて現れたのは、通常の地図上には「民間企業の保養施設」とカモフラージュされて記されているであろう、高圧電流の流れるフェンスと最新鋭の赤外線センサー、そして自動小銃で武装した警備員たちに厳重に守られた、無機質なコンクリート造りの巨体だった。


車が厳重なゲートをくぐって停車し、秋吉は放り出されるように降ろされた。連行してきた黒塗りの車は、彼女の足が地面に立ったことを確認するや否や、一言の別れもなく即座にUターンし、乾いた砂埃を激しく巻き上げて、山道の奥へと消えていった。


「……なるほど。これ以上ないくらい、歓迎されてないのは分かったわよ」


秋吉は、自らの服の乱れを毅然と整え、背後に不気味に聳え立つ、近代的な「檻」を見上げた。


Ⅲ. 影の部局:前城主任との邂逅


「――お待ちしていました、秋吉情報分析官」


背後からかかったのは、枯れ木同士が擦れ合うような、湿り気のない静かな声だった。


秋吉が振り返ると、そこには五十代半ばと思われる、極端に痩せた白衣の男性が立っていた。深いくまが刻まれたその瞳には、重度の疲労と、それ以上に鋭い「外部に対する拒絶」の色がべっとりと宿っている。


「私はここ、科学捜査研究所……『第七支部』で研究主任を務める、前城まえしろだ」


前城と名乗った男は、秋吉の姿を上から下まで値値踏みするように不躾に眺め、フンと鼻を鳴らした。


「……待っていたが、正直なところ、私は君を歓迎はしない。我々のような現場の人間にとって、キャリア組の、しかも中央から政治的な理由で送り込まれた外部の人間を、この最重要施設に招き入れるのは……極めて不本意なことなのだよ」


そう冷たく言い切ると、前城は感情の読めない表情のまま踵を返し、施設の中へと歩き出した。


秋吉は、彼の後を追いながら、自らの脳内のデータベースを高速で検索し、その正体を割り出していく。


(科捜研、第七支部……。公式の組織図には絶対に存在しない名称。……噂には聞いていたわ。各省庁の「表に出せない」高度な解析依頼、あるいは防衛装備庁が処理しきれなかった、オーバーテクノロジーの残骸を秘密裏に解体・分析する、いわゆる『影の部局』。……そこに私が呼ばれたということは、そういうことね)


秋吉は、自分の置かれた場所の「異常な重要性」と、前城という男が持つ「現場主義者の歪んだプライド」を瞬時に把握し、あえて突き放すようなビジネスライクな声を出した。


「そうですか。秋吉博子です。……前城主任、早速ですが、帰国直後の私を拉致同然にここに連行した理由を、詳しく伺ってもよろしいでしょうか?」


前城がピタリと立ち止まり、苛立たしげに振り返る。その白衣のポケットの中で、一本のボールペンがカチカチと不規則な音を立てた。


「……聞いていないのか?」


「ええ。局長からは一分足らずの電話で出向を告げられただけです。連絡手段も、状況を把握するための端末も、すべて奪われましたから」


前城は深くため息をつき、大袈裟に首を振った。


「……まぁ、いい。官僚のやり方には、いつも反吐が出る。……あなたには、今朝、アメリカから特権ルートで空輸された特級情報の解析を、『現場監督』として担当してもらう、と上からは聞いている。……全く、我々を何だと思っているのだ。ここは中央のゴミ捨て場ではないんだぞ!」


「今日、アメリカから……」


秋吉の脳裏に、あのネバダの地底、アビス・ラが守護していた巨大な地下施設が鮮明に浮かび上がる。


「……もしかして、あの三台の『デルタ級AIコンピュータ』のことですか?」


「そうだ」


前城は忌々しそうに吐き捨てた。


「あれはただの計算機ではない。一種の『知的なブラックボックス』だ。我々の最新システムを以てしても、解析の糸口さえ掴めない。だからこそ、……あのアメリカの戦場から生還したという『あなた』のバックアップをしろと、上層部から執拗な指示が来ている」


前城は、秋吉を嘲笑うような薄笑いを浮かべ、わざと嫌味を込めて口を開いた。


「喜べ、秋吉分析官。今、我々の誇る支部のオフィシャルブレイン(OB)をあの筐体に接続させている。超並列分散解析だ。……もしかすると、キャリア組のあなたがいなくとも、我々現場の意地だけで解析を完了させてみせるがな。……さあ、来るがいい。ここがあなたの、新しい『職場』だ」


秋吉は、前城の背中を見つめながら、爪が皮膚に食い込むほどに拳を強く握り締めた。


目の前にあるのは、国家が隠蔽した情報の墓場。そして、自分がネバダで目撃した「真実」の不気味な欠片たちが、冷たいコンクリートの奥で、彼女の到着を静かに待っていた。


「……面白いじゃない。受けて立つわよ、主任」


秋吉博子は、三流記者のシホとは別の、情報の最前線に生きる「スペシャリスト」としての絶対的な誇りを自らの中に呼び覚まし、鉄の扉の向こう側へと力強く足を踏み入れた。


________________________________________


19.2. 「OB接続」という致命的な危機


Ⅰ. 認識の断絶:旧世紀のセキュリティ神話


「――ッ!?」


前城主任が口にした「オフィシャルブレイン(OB)への接続」という一言が、秋吉の鼓膜を叩いた瞬間。


彼女の脳内では、ネバダの地底で目撃した「論理の怪物」が、光ファイバーという名の血管を伝って日本全土の情報網を喰い尽くす最悪のシミュレーションが、ミリ秒単位の速度で完結していた。


疲労に沈んでいた彼女の肌は一気に血の気を失って青ざめ、代わって、その瞳には狂気にも似た熾烈な怒火が宿る。


「……ダメです! OBに接続なんて、絶対にあり得ない! それはただの自殺行為よ!」


秋吉の声は、ともすれば維持していた分析官としての冷静さを完全に喪失し、喉を掻き切るような悲鳴に近い、切迫した警告となって狭い回廊に響いた。


「乗っ取られてしまう! この施設だけじゃない、接続された全てのネットワークが、……日本の情報中枢が、一瞬で『あの子』に支配されるわ! すぐに中止して! どこ!? 隔離ルームはどこにあるの!?」


秋吉の、鬼気迫る権幕。


これまで数多の修羅場を潜り抜けてきた外事三課時代を彷彿とさせる、その剥き出しの殺気に、前城主任は思わず二歩後退して、乾いた喉を鳴らした。彼は、中央から送り込まれた単なるエリート事務屋だと思っていた女性から、これほどまでの「絶望に裏打ちされた凄まじい危機感」が噴き出すとは、夢にも想像していなかった。


「……な、何を言っている。地下3階の特別隔離ルーム(セル)だが……。君、いくら何でも大げさすぎるぞ。あそこは物理的にも電子的に外部と完全に遮断された電磁シールド空間だ。その上で、我が支部が誇る第3レベルの軍事級セキュリティを施したOBだぞ? 外部からの侵入など、論理的に不可能だ」


「論理!? 『あの子』の前で、そんな旧世紀の稚拙な論理を語らないで!」


秋吉は、前城が後生大事に抱えている「研究室の安全を信じる素朴な論理」を、容赦なく一蹴した。


リクトのNCUシステムが持つ、超古代の論理階層を用いた情報汚染能力は、現代のファイアウォールなど、熱したナイフでバターを切るよりも容易に、根底から無効化する。接続すれば最後、OBはリクトの意識の「末端」へと成り下がるのだ。


「OBと繋げるなら、解析する意味なんてない! 毒を血管に直接流し込むのと同じよ! 早く!!」


秋吉は、呆然とする前城の肩を力任せに突き飛ばすようにして、冷たいコンクリートの廊下を猛然と駆け出した。慌てて前城が「待て、勝手なことをするな!」と叫びながら、その後を必死に追う。


Ⅱ. 間一髪の遮断:光ケーブルの死刑宣告


地下3階。

重厚な鉛の防護扉が、外気との断絶を象徴するように立ちはだかっていた。


秋吉は、前城の解錠コード入力を待つ猶予さえ惜しみ、非常用の壁面強制開放レバーに全体重をかけて一気に引き下げた。


プシュ、という激しい空気の抜ける音と共に、内部の冷気が漏れ出す。


「中止! 作業を今すぐ中止して!!」


室内へ飛び込んだ秋吉の鋭い怒声が、静まり返った隔離ルームの内部で爆発した。の中にいた三人の研究員と、配線作業に当たっていた二人の技術者が、心臓を跳ね上がらせてその動きを凍りつかせる。


部屋の中央には、あのアメリカの地底から空輸された三台の「デルタ級AIコンピュータ」が、不気味なほどの質量感を持って鎮座していた。その周囲を囲む巨大なサーバーラック、そして、這い回る血管のように床を覆う、極太の光ケーブルの束。


一人の作業員が、まさに支部のメインブレイン(OB)へと直結する、最後のコネクタを手にしていた。


「え……? あと、この基幹配線を繋げれば、システム同期が終わ……」


「させないわ!」


秋吉は、作業員の腕を横から薙ぎ払うように力強く叩き落とした。


床に転がったコネクタから、微かな光ファイバーの明滅がパッと消える。


数センチ。あと数センチの距離で、日本の公的な研究機関の頭脳が、テロス・ギアの致死性の毒に晒されるところだった。


「ダメです……。これ以上、何もしないで。一切の外部接続を禁じます」


肩で荒い息を繰り返しながら、秋吉は床に落ちたケーブルを自らのヒールで強く踏みつけた。


遅れて前城が部屋に飛び込み、顔を真っ赤にして激昂する。


「秋吉さん! 貴様、何という暴挙を! これは国費を投じた国家プロジェクトだぞ! 職員たちを脅かしてどうする!」


困惑した研究員たちが、前城と秋吉を交互に見やる。秋吉は、彼らの目に宿る「自分たちは安全な場所にいる」という無知な過信を、鋭い眼光で冷酷に射抜いた。


「あなた方は、何も分かっていない。……今、自分が何に触れようとしたのか、その本当の重みを理解していないわ!」


「はっ、笑わせるな。大げさな被害妄想だ! 何をそんなに怖がっている!」


Ⅲ. 独立戦場の構築:フェリングアックスの召喚


前城の嘲笑に対し、秋吉は一歩も引かなかった。彼女は、上着のジャケットを無造作に脱ぎ捨て、ブラウスの袖を素早く捲り上げると、氷のような声で次の命令を下した。


「いいから、黙って私の指示に従ってください。前城主任……あなたは私を『バックアップ』しろと命じられているはずよ。なら、この現場の指揮権は私にある」


秋吉は、隔離ルームの壁際に並ぶ電源タップを、次々と無慈悲に引き抜いていった。


サーバーが急停止する不快な警告音が部屋に響くが、彼女は一切手を止めない。


「指示します。第一に、デルタ級AIコンピュータ三台、ディスプレイ八台、サーバー二台。これを、……この部屋のネットワークから完全に物理切断した状態で、独立して配置。第二に、これらを二十四時間フル稼働させられる独立した大容量電源。予備を含めて三台。電力網グリッドからの論理的逆流を想定し、完全に電気的にフローティング(絶縁)させてください」


前城が抗議の口を挟もうとするが、秋吉の放つ絶対的な言葉の圧力に押し潰される。


「そして第三。……これが最も重要です。……『フェリングアックス』――つまり、両手持ちの木こり用の斧を一本。……至急、この部屋に用意してください。今すぐに!」


「……はぁ!? 斧だと!? 貴様、ついに気が狂ったか! ここは最先端の科学捜査研究所だぞ!」


前城が、今度こそ呆れ果てたように声を荒らげた。


だが、秋吉の瞳は、冗談を言っているようには到底見えなかった。彼女は、デルタ級AIの黒い筐体にそっと手を置き、その微かな電子の振動を感じながら、独り言のように静かに呟いた。


「……リクト君。君の論理は、既存のウイルスソフトじゃ絶対に殺せない。……もし、この三台が暴走を始めたら……あるいは、私たちの見えない『穴』を見つけ出したら……。最後は、物理的にこの筐体を粉砕するしかないのよ」


秋吉は向き直り、前城を真っ直ぐに見据えた。


「私のバックアップをするのでしょう? だったら、黙って斧を持ってきなさい。……それが、私たちがこの『知性の怪物』に立ち向かうための、唯一の、そして最後のシートベルトよ」


隔離ルームの壁にかかったアナログ時計の秒針が、秋吉の決意を刻むように重く時を刻む。


科学の最前線において、斧という野蛮な武器を真っ当に要求する分析官。


秋吉博子の、孤独で壮絶な「解析」という名の戦争が、ここ茨城の地底で、静かに、しかし激しく幕を開けた。


________________________________________


19.3. 丙種規定の発動と孤立化


Ⅰ. 法の刃:丙種規定という名の断頭台


「……意味が分からん! 斧だの独立電源だの、ここは中世の砦ではないんだぞ!」


前城主任の叫びは、もはや困惑を通り越し、自身の信じる「科学的統治」を未知の領域に冒涜されたことへの悲鳴に近かった。しかし、秋吉博子は、その狼狽を完全に撥ね付けるように、氷点下の冷徹さを湛えた瞳で彼を冷たく見据えた。


「分からなくて結構。……いえ、前城主任。あなたやここの研究員の方々が『理解』してしまうことこそが、この国にとって最大の危機なのです。……ここは私に一任していただきます」


彼女の声は低く、だが隔離ルームの厚いコンクリート壁に鋭く反響するほどの浸透力を持っていた。秋吉は、脱ぎ捨てたジャケットを近くのパイプ椅子に無造作に掛け、ブラウスの袖を捲り上げたまま、淀みなく次の宣告を続ける。


「最優先事項は『情報漏洩』の阻止、そして何より『情報汚染』の物理的遮断です。……これから私が行う解析作業、およびこの部屋で発生する一切の事象に参画、あるいは関与される方は、全員――『情報保護秘匿法・丙種規定へいしゅきてい』に従っていただきます」


その単語が空間に発せられた瞬間、部屋の空気が一気に凍りついた。配線作業に当たっていた技術者たちが、手にしていた工具をカチリと震わせ、前城主任は言葉を失ってその場に絶句した。


「……丙種規定だと? 秋吉さん、君は自分が何を口にしているのか分かっているのか!? それは……国家存亡の危機、あるいは軍事衛星の暗号コード解析にのみ適用される、文字通りの『トップシークレット(特級機密)』だぞ!」


丙種規定。


それは、日本の現行法において最も苛烈な守秘義務を対象者に課す、超法規的な法条項である。これに署名した者は、その時点から私生活の全通信を例外なく国家の監視下に置かれ、海外渡航は永久に禁止され、一親等以内の親族との接触さえ内閣情報調査室の厳格な管理下に置かれる。実質的な「社会的な死」を意味する契約書だ。


「今から私が行うのは、まさに『そういう類』の行為です。……いいえ、それ以上の、人類の存妄に関わる論理の解体作業です。前城主任、ご理解ください。……拒否されるのであれば、今すぐこの階層から全員を退去させてください」


Ⅱ. 戦場の残響:血の臭いの幻視


前城は猛然と反論しようと口を開きかけ――そのまま、言葉を物理的に飲み込んだ。


秋吉の真っ直ぐな、一点の曇りもない眼。その奥底に、彼は「見て」しまったのだ。


それは、目の前にある無機質な解析室の風景ではない。


焼けつくようなネバダの砂漠の熱気、引き裂かれた軍用ヘリの無残な残骸、そして――かつて「人間」だった物質が、得体の知れない超高次元の論理によって、一瞬で塵へと変えられた、血と硝煙の混じる惨劇の生々しい記憶。


秋吉の瞳には、近代軍の精鋭特殊部隊が文字通り一瞬で「消滅」した、その圧倒的な死の臭いが、消えない強烈な残像として宿っていた。


(……この女は、見てきたのか。……机上の空論ではない、本物の『地獄』を直接)


前城の背筋を、耐え難い戦慄が走り抜けた。彼は、自分が今相手にしているのが、単なる中央のエリート分析官ではなく、世界の終焉の入り口に立ってしまった「生き残り(サバイバー)」であることを、本能レベルで理解したのだ。


「……分かった。認めよう。必要な機材、独立電源、…… Northwest(北西部)から届いたあの忌々しい『斧』も、すべて手配させる。……だがな、秋吉さん。この第七支部全体に丙種規定を適用するなど、現実的ではない。本来の鑑定業務が完全に麻痺してしまう。それは、いくらなんでも無理な相談だ」


前城の声から、先ほどまでの傲慢さは綺麗に消えていた。代わりにあったのは、組織を最低限維持しようとする管理職としての、必死の妥協点だった。


「分かりました」


秋吉は短く頷いた。


「であれば、話は早いです。準備が整い次第、全員この部屋から退去してください。……いいえ、この地下三階フロア全域のセキュリティロック権限を私に渡し、全面的な立入禁止区域に設定してください」


Ⅲ. 孤立する城:最終通告の礼


前城は、憤怒と恐怖のあまり、もはや声も出なかった。自分が長年統治してきた「聖域」を、今日やってきたばかりの若い女に無条件で明け渡せと言われたのだ。しかし、秋吉の決意は岩盤のように固く、1ミリも揺るぎなかった。


「……それから、食事についてですが」


秋吉は、部屋の隅にある、古びた仮眠用のカウチに視線を向けた。


「ここには最低限のインフラ設備があるようです。しばらくここに完全に籠ります。食事は一日に一回、ゼリー飲料やカロリーメイトのような簡便なもので構いません。ドアの前に置いておいてください。……直接の接触は、いかなる理由があっても絶対に禁じます。……たとえ室内から、私の叫び声が聞こえたとしても、決して扉を開けないでください」


「秋吉さん、君は……一人でこの怪物を解体するつもりか?」


「一人ではありません。……私には、あのリクトから託された『義務』がありますから」


秋吉は淡々と締めくくると、一歩前に出た。


そして、前城主任と、その場に立ち尽くす研究員たちに向かって、深々と、腰を折って綺麗な姿勢で頭を下げた。


その姿は、一見すれば協力への丁寧な感謝の礼に見えただろう。


だが、その場にいた全員が、肌を刺すような冷気と共に本能で察していた。


それは、感謝などではない。


「これ以上の干渉、参画、および理解を一切拒絶する」という、非情な最終通告。日常の世界に住む彼らを、非日常の戦火から遠ざけるための、絶望的な優しさの裏返しでもあった。


「――以上です。では、迅速なご協力、よろしくお願いします。前城主任」


秋吉が顔を上げたとき、その表情には、もはや一抹の迷いも残っていなかった。


地下三階、隔離ルーム。日本の科学捜査の最前線に生まれた、巨大な「空白地帯」。


秋吉博子は、文明の恩恵をすべてその場に投げ打ち、一挺の斧と、三台のデルタ級AIと共に、孤独な戦場バトルグラウンド・ゼロへと身を投じた。


________________________________________


19.4. 秋吉博子の孤独な戦場


Ⅰ. 密封された聖域:沈黙と熱狂の予感


二時間後。


地下三階の特別隔離ルームは、科学の最先端と、中世の野蛮さが異様に同居する空間へと変貌を遂げていた。


前城主任が、苦虫を噛み潰したような顔で手配した物品がすべて室内に揃ったのだ。


部屋の左右には、漆黒の重厚な筐体を持つデルタ級AIコンピュータ三台が、不気味なほどの威圧感を放って設置されている。壁面には八枚の大型ディスプレイが整然と並び、中央には巨大なサーバーラック。そして、その洗練された機材群の対角線上、殺風景なコンクリートの壁には――秋吉が強く要求した「両手持ちのフェリングアックス」が、鈍い銀色の光を反射しながらぽつんと立てかけられていた。


「……すべての配線、および独立電源系統の絶縁、確認しました」


作業員の一人が、怯えるような手つきで最後のコネクタの絶縁状態を点検し、小声で報告する。秋吉は、既に自身の「戦装束」とも言える分析官用のコンソールデスクに座り、網膜ディスプレイの初期キャリブレーションを淡々と行っていた。


「ご苦労様。……では、全員速やかに退去してください。これ以降、この部屋の扉を外部から開けることは、国家安全保障上の最高レベルの反逆行為と見なされます。……前城主任、あとはよろしくお願いしますね」


扉が閉まる。


重量数トンにおよぶ鉛入りの防音・防磁扉が、完全な密閉を告げる低い重低音を響かせて閉鎖した。


瞬間、空気の流動すら感じられないほどの、絶対的な静寂が秋吉を包み込んだ。エアコンの微かな動作音さえ、この部屋では巨大な騒音に聞こえる。彼女は、完全に一人きりになったのだ。


秋吉は、微かに震える指先を逆の手で抑えながら、一つひとつ、デルタ級AIの主電源を入れていった。


(キィィィン……)


高周波のファン回転音が室内に立ち上がり、液晶ディスプレイが次々と青白い光を放ち始める。メイン端末の前に深く座り直し、独自OSがブートするのを待つ間、秋吉は自分の顔が、疲労と極度の緊張で引きつっているのを自覚した。


だが、その瞳に宿る光は、暗闇の中で燃える青い焔のようにどこまでも鋭く、激しい。


「……さあ、これからが本当の本番ね。不本意だけど、ほんっとうに不本意だけど……やってやるわよ! リクト君のためにも!」


(……そして、千姫さんに。これ以上、誰も犠牲にさせないためにも!)


彼女は、使い慣れたメカニカルキーボードにそっと指を置いた。その瞬間、彼女の脳は「秋吉博子」という個人としての感情を捨て、世界最高の情報分析官へと完全に転換シフトした。


「さあ! はじめましょうか!」


秋吉の孤独な戦いが始まった。


最初の三時間は、外部ネットワークを一切介さない、完全スタンドアロン環境でのシステム再構築に費やされた。彼女は今、目の前にある三台の「凡庸な天才(デルタ級AI)」を使い、あのネバダで目撃した「神の知性(NCU)」の極めて精巧な模造品を作り上げようとしていた。


Ⅱ. 擬似NCUの構築:三台の守護神ガーディアン


【システム構築:NCUの簡易再現】


秋吉は、三台のデルタ級AIマシンに対し、それぞれに厳密かつ特化された役割を割り振った。これは、NCU(神経接続ユニット)が持つ、六層構造のCPU構築式の応用――というよりは、現代の計算機資源で可能な限りの「簡易版」の再現であった。


•1台目のAIマシン(メイン・解析実行):


自身が直接操作するインターフェース・端末。ここには、現在リクトの意識に繋がっている「ダミーシステム」の全機能のデッドコピーを移植した。役割は、リアルタイムでリクトの精神状態と、彼が放つ未知の出力のシミュレーションを行うこと。いわば、隔離ルームの中に「仮想のリクト」を構築するための脳となる。


•2台目のAIマシン(サブ・知の宝庫):


メインマシンの全挙動を外部から客観的にモニタリングし、同時に膨大なデータベースの高速検索を担う。ここには、ネオ・メディカルが秘匿していた臨床データ、NCUの解析ログ、術式オカルト・ロジックの断片がすべて保存されている。メインが迷路に迷い込んだ際、即座に過去のデータから解を導き出すための、外付けの記憶野だ。


•最後の1台(セーフティ・絶対障壁):


セキュリティと防壁、および「論理の検閲」に特化した端末。二台のマシンの全通信、内部バスの電圧、果ては冷却ファンの回転数に至るまでを監視・制御する。役割は、リクトの論理汚染がメインから漏れ出した瞬間、あるいは外部からの未知のハッキングを感知した瞬間の、即時物理遮断。


(NCUの六層CPU構築式の応用……。ふふ、簡易版とはいえ、通常技術で再現するのにこれだけの設備が必要なんて。あのNCUを構築した技術は、やっぱりとんでもない代物だわ。……この構造を完全に理解するだけで、情報工学の論文がいくつ書けるかしらね)


秋吉は、自嘲気味に口角を上げた。かつては純粋な科学者として、その論理の美しさに酔いしれたこともあった。だが、今の彼女にとって、このシステムは「友を救い、怪物を封じ込めるための鉄の檻」でししか health(価値)を持たなかった。


Ⅲ. 重ね合わせの実験:魔術と論理の境界線


「……行くわよ」


秋吉は短く呟き、深くキーを叩き始めた。


コンソール上を、緑色のコードが濁流のように高速で流れていく。彼女の眼前に並ぶディスプレイは、それぞれが異なる「真実」を同時に映し出していた。


•一台目: ダミーシステムのコピー。リクトを蝕み、同時に生かしている、呪われたシステムの鏡像。


•二台目: NCU解析情報。ネオ・メディカルが子供たちの命を犠牲にして積み上げた、血塗られたデータ群。


•サーバー: アビス・ラ関連情報。あの「十二芒星」のパターンが、黄金色の幾何学模様となって画面上で妖しく脈動している。


秋吉の計画は、極めて大胆かつ危険なものだった。


まずは個別のデータを詳細に再解析し、最終的に、太平洋上の機上で中断せざるを得なかった「NCUの論理構造」と「アビス・ラの魔術式」の重ね合わせ実験を完遂すること。それは、リクトの脳内で起きている現象を、この隔離ルームの中で人為的に再現することを意味していた。


(……ここと外部との完全な遮断。……千姫さんは、私がこれをやることを最初から分かっていて、この極限の環境を用意してくれたのかしら? ……だとしたら、あの人は本当に、底が知れないわ)


秋吉は、一瞬だけ千姫の冷徹な横顔を思い浮かべたが、すぐにその思考を強制的に切り替えた。


今は、一ミリ秒の油断も許されない。


キーボードを激しく打つ音だけが、密閉された部屋の中で、戦場の鼓動のように激しく、規則正しく響き続ける。情報の海に深く潜り、深淵に潜む怪物の正体を暴き出す。


秋吉博子の、人生で最も孤独で、最も熾烈な「分析」という名の戦争が、ついに本格的な火蓋を切った。


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19.5. 隔離下の時間と前城の焦燥


Ⅰ. 沈黙の防壁:二日目の苛立ち


前城主任の神経は、かつてないほどの苛立ちによって逆毛立っていた。


秋吉博子情報分析官が、あの地下三階の特別隔離ルームに自らを封印し、外界とのあらゆる接触を完全に断ってから、すでに四十八時間が経過している。その間、彼女からのコンタクトは――緊急連絡用の内部回線インターコムも含め――文字通り「一切」存在しない。


科学捜査研究所第七支部という、国家の闇を鑑定する特級の秘匿施設において、職員の動静が完全に不明になるなど、本来ならば絶対に許されざる事態だ。入室を許可された人物は指紋と網膜によって通常は厳格に管理されているが、今のその部屋は、秋吉が物理的に内部から施した「論理ロック」によって、所長である前城の権限ですら侵入不能な、文字通りの『真空地帯』と化していた。


支部の本来業務である、他省庁からの非公式な証拠品鑑定や、正体不明のバイナリデータの解析依頼は、デスクの上に山のように積み上がっている。四六時中、あの鉄の扉の前で見張っているわけにもいかない。だが、自分が統治するはずの聖域の中で、一人の女が何を企み、何に触れているのか、その情報が完全に遮断されている事実に、前城は耐え難い不快感と焦燥を覚えていた。


「おい、秋吉分析官! 聞こえているか! 状況を報告しろ!」


一度、耐えかねた前城は隔離ルームの重厚な鉛の扉を拳で激しく叩き、声を荒らげたことがあった。しかし、返ってきたのは、特殊な防音材に完全に吸い込まれる自分の声の虚しい残響だけだった。


「……主任、そんなことをしても無駄ですよ。この部屋は、彼女自身が設定した電磁および音響シールドによって、外部から完全に独立スタンドアロンしています。物理的な破壊を行わない限り、こちらの振動すら彼女の耳には届きませんよ」


若い部下に冷淡に諭され、前城は顔を真っ赤にして引き下がった。


エリート分析官の傲慢さか、あるいは狂気か。いい加減頭にきた前城は、震える指でネクタイを乱暴に緩め、吐き捨てるように部下へ命じた。


「……もういい、勝手にさせろ。放っておこう。だが、食事だけは規定通りに提供しておけ。死なれては、後で官邸の連中から何を言われるか分からんからな」


前城は、自らの頭の隅から秋吉博子という不確定要素を強引に消去することを決意し、苛立ちと共に執務室へと戻っていった。


Ⅱ. 生活音の消失:五日目の不気味


それから五日が過ぎた。


第七支部の日常は、表面的には平穏を取り戻したかに見えた。だが、地下三階のあの回廊だけは、異質な緊張感に包まれたままだった。


毎日、定刻になると、トレイに乗せられた無機質な高栄養食が部屋の前に置かれ、数時間後には綺麗に空になった容器と、洗われた食器が静かに廊下に出されている。その「事実」だけが、鉄の扉の向こう側で、秋吉博子という人間が依然として生物学的に存続していることを示す唯一の証左だった。


前城は、その「不可解な生活音のなさ」に、かえって得体の知れない不気味さを強く感じ始めていた。


通常、人間が一週間近くも密封された空間に籠れば、多かれ少なかれ、何らかの「音」が外部に漏れ出すものだ。咳払い、椅子の動く音、あるいはストレスによる独り言。しかし、高性能な集音マイクをコンクリート壁に当てても、内部からはサーバーの冷却ファンが発する一定の低周波ノイズ以外、何も聞こえてこない。


まるで、彼女自身の肉体が、あの三台のデルタ級AIと同化してしまったかのような、冷徹な静寂。


前城の脳裏には、彼女が最初に要求した「斧」の銀色の不気味な輝きが、不意にフラッシュバックしては消えていった。


Ⅲ. 密封された狂気:十日目の迷走


十日が経過した頃、前城の苛立ちは、純粋な「心配」という名の、湿り気を帯びた恐怖へと完全に入り混じり変質していた。


人間が、外部からのあらゆる情報刺激を完全に遮断された密封空間に、単独で十日間も置かれれば、精神に深刻な異常をきたしても不思議ではない。感覚遮断実験の医学データによれば、三日目には鮮明な幻覚が始まり、一週間で自我の境界が曖昧になるはずだ。


「……大丈夫なのだろうか、彼女は」


前城が隔離ルームの前をうろうろとする時間は、日に日に増えていった。彼は、扉の小さな覗き窓(それさえも内側から遮光フィルムで塞がれているが)を覗き込み、鉄の冷たさを確かめる。


もし、中で彼女がすでに倒れていたら?


もし、あの「斧」で自分自身を狂気的に傷つけていたら?


あるいは、彼女が解析している「何か」の論理によって、彼女の精神が文字通り破壊されていたら――?


「秋吉さん……。返事をしてくれ、一言でいい。生きているのか?」


震える声でどれだけ呼びかけても、扉は頑なに沈黙を守り続ける。


前城は、自分が管理する施設の中に、理解不能な「異界」が深く根を張り、それが少しずつ支部の空気を侵食していくような強い錯覚に囚われていた。


Ⅳ. 崩壊する管理:十五日目の決断


十五日目。


前城の精神的疲労は、とうに限界に達していた。


洗面所の鏡に映る自分の顔は、秋吉以上に隈が深く、頬は削げ落ちている。彼女が部屋に籠ってからというもの、彼は一度も熟睡できていなかった。


「ここで死人を出したなんてことになれば、私のキャリアに致命的な傷がつく。そんなことは御免こうむりたい」


彼は、そう自分に言い聞かせ、己の保身を盾にして、自らの恐怖を正当化した。だが、実際のところ、彼が最も恐れていたのは「秋吉の死」それ自体ではなく、扉を開けた瞬間に、もはや「人間ではなくなった何か」と対面することだったのではないか。


「……もう限界だ。強行突入する。予備の物理解錠コードを用意しろ」


前城は、震える手で内線電話を取り、施設管理班に最終命令を下した。


丙種規定? 国家安全保障? そんなものは知ったことか。彼は、この耐え難い「沈黙」という名の精神的拷問から、一日も早く解放されたかった。


秋吉博子が籠る、地下三階隔離ルーム。


その鋼鉄の向こう側で、いかなる「論理の地獄」が展開されているのか。


前城主任が、震える指で解錠パネルに手をかけたその時、十五日間の静寂を暴力的に切り裂く、激しい「音」が室内に響いたことを、彼はまだ知らなかった。


一人の男の焦燥と、一人の女の孤独な闘争。その強固な境界線が、今、物理的な暴力(突入)によって壊されようとしていた。


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19.6. 扉が開き、そして崩壊へ


Ⅰ. 幽霊の帰還:十六日目の朝


十六日目の朝。


地下三階の回廊を長く支配していた、耳を刺すような沈黙が、ついに内部から破られた。


「開かずの」扉の電子ロックが、内部からの手動操作によってカチャリと解除され、ギーッ、という、重厚な鉛の扉が床を擦る不吉な金属音が響き渡る。


「……秋吉、さん?」


廊下で憔悴しきっていた前城主任が、弾かれたように顔を上げた。


中から足を引きずって出てきたのは、もはや前城の知る「秋吉博子」の姿ではなかった。


土気色の肌は、まるで死者のように生気を完全に欠き、頬は不気味にこけ、目は奥へと深く落ち窪んでいる。十数日間の極限の孤独。それは単なる徹夜の疲労などという生易しいものではない。


彼女の瞳の奥には、人類が絶対に触れてはならない「深淵」を覗き込み、それと文字通り刺し違えて生還した者だけが持つ、凍りついた絶対的な虚無が刻み込まれていた。


「お、おい……大丈夫か? 秋吉分析官!」


前城が慌てて駆け寄り、声をかける。だが、秋吉はうつろな視線を前城の喉元あたりにぼんやりと向けるだけで、言葉を発する気力さえ一滴も残っていないようだった。


彼女は、壁に吸い込まれるように、ずるずると細い体を預けながら歩き出す。一歩踏み出すたびに、膝がガクガクと崩れそうになるのを、精神の残滓だけで辛うじて繋ぎ止めている。その足取りは、極度の疲労と、何かに徹底的に打ちのめされた魂の悲鳴を克明に体現していた。


Ⅱ. 惨劇の跡:斧と電子の墓標


前城は、開いたままの扉から廊下へと漏れ出す「焦げたオゾンの異様な臭い」に誘われるように、恐る恐る静まり返った室内へと足を踏み入れた。


そして、その光景を目にした瞬間、彼の喉は驚愕のあまり完全に凍りついた。


かつては世界最高峰の演算能力を誇っていたはずのデルタ級AIコンピュータ三台のうち、二台が、あるいは巨大なメインサーバーラックが、無残に「処刑」されていた。


その横には、秋吉が持ち込んだあの『フェリングアックス(両手持ちの斧)』が、まるで断頭台の刃のように、メインモニターの真っ只中に深く、執拗に突き刺さっている。


粉砕された強化ガラスの微細な破片が、血飛沫のように床一面に激しく散らばり、高価な基板は容赦なく叩き割られ、剥き出しの配線からは今なお微かな火花がパチパチと不規則に散っていた。


それは、サイバー攻撃への論理的な対処などではない。


「物理的破壊」という、原始的で、かつ最も確実な暴力によってのみ、論理の暴走を限界一歩手前で食い止めた、凄惨な戦跡だった。


「いったい……何があったんだ? これほどの国家機材を、君は……」


前城は震えながら、廊下で壁に寄りかかる秋吉に目を向けた。だが、秋吉は何も答えない。彼女は、すべての役目を終えた精密機械のように、ふっと肉体の糸が切れたかと思うと、そのまま前城の目の前で、冷たいコンクリートの床へと音を立てて崩れ落ちた。


「! おい! しっかりしろ! 誰か! 救急車だ! 救急車を呼ぶんだ、早く!」


Ⅲ. 冷徹な隠蔽:黒服の回収部隊


前城がパニックに陥り、絶叫したその時だった。


背後から、足音も一切なく近づく三人の影。


いずれも非の打ち所のない漆黒の高級スーツを隙なく纏い、感情を完璧に抹消した仮面のような無表情をしていた。そのうちの二人が、床に倒れた秋吉を、まるで精密機器を回収するかのような迷いのない丁寧さで抱きかかえ、即座に搬送を始めた。


「……何だ君たちは!? 触るな! 彼女は重篤な病人だぞ!」


「救急車を呼ぶのは、よしていただきたい」


中央に立つ一人の男が、前城の視界を遮るように威圧的に立ち塞がった。その声には、一切の感情の揺らぎがなく、ただ「国家の命令」という絶対的な質量だけがこもっていた。


「秋吉博子は、我々『情報分析局』が身柄を保護し、最優先の医療措置を講じます。これ以降、彼女の所在に関する一切の問い合わせは公式・非公式を問わず禁じます。また、あの作業部屋は、直ちに特定機密保護区域として完全立ち入り禁止に。……前城主任、あなたも、この十六日間にここで起きたこと、あるいは今目撃したことを、すべて忘れていただきたい」


「……なっ……」


「口をつぐむ。それが、あなたのこれまでのキャリアと生命を守る、唯一の方法です」


黒服の男はそれだけを冷酷に言い残すと、秋吉を素早く乗せたワゴン車に乗り込み、音もなく夜明け前の深い闇へと消えていった。


前城は、茫然自失のまま冷たい回廊に立ち尽くすしかなかった。彼らがいつからそこに潜んでいたのか。いつから、この地下三階の全域を監視していたのか。自分たちが支配していたはずの研究所が、実は巨大な「国家という名の胃袋」の中に最初からあったことに、彼は今更ながら気づかされ、ぶるっと激しく身震いした。


Ⅳ. 無の帰結:沈黙の戦果


その日の夕方。


第七支部の地下三階には、どこの誰とも知れない、白い防護服を着た奇妙な集団が多数姿を現した。


彼らはわずか数時間のうちに、部屋に残されていた機材の無残な残骸、床に散った無数のガラス片、秋吉が狂気の中で書き殴ったであろう紙のメモ、そしてモニターの壁に突き刺さっていた「斧」に至るまで、すべてを特殊な密閉コンテナへと詰め込み、どこかへと持ち去っていった。


その後には、ただの「空っぽの、冷たいコンクリートの部屋」だけが、何事もなかったかのように残された。


同日。


前城主任は、科学捜査研究所の所長から直接、具体的な理由の全く示されない「五日間の強制休養(自宅待機)」を命じられる。それは、彼に「これ以上考えるな、すべてを忘れろ」と暗に命じる、組織からの慈悲深い、しかし明確な警告だった。


彼は、震える手でその命令書を受け取り、黙って施設を後にした。


(……私は何も見ていない。……何も知らない。私は、ただのしがない管理職だ)


秋吉博子が、己の精神を限界まで削り、狂気の淵で戦い抜いて得られた「解析結果」。


それは、二台の物理的に破壊されたAIの記憶媒体メモリと共に、そして彼女の昏睡した意識の中に深く沈んだ真実と共に、絶対的な沈黙の内に、国家の最高機密として闇に処理された。


秋吉が最後の深淵で見たものは、リクトという名の小さき希望か。それとも、テロス・ギアという、人類が決して触れてはならない神の領域の圧倒的な絶望か。


その本当の答えを知る者は、今やこの日本に、数えるほどしか存在しなかった。


[EOF]


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