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第九章 青い鈴を沈める手、抱きしめる手
第九章 青い鈴を沈める手、抱きしめる手
わたしは鈴を水へ沈めた。
青い水が、鈴を飲み込む。
リン、とは鳴らない。
代わりに、水面が一度だけ光った。
サイードの叫びが遠ざかる。
時間の裂け目が閉じていく。
ラシードが息を吐き、写本をわたしへ差し出した。
「欠けた一行を戻せ」
「わたしが?」
「お前が選んだ痛みは、お前の手で縫え」
わたしは震える指で、写本の余白に一行を書く。
——戻りたい者は、戻るな。
——戻らない選択が、誰かの朝を守る。
文字を書いた瞬間、写本が熱を帯びた。
紙が生き物みたいに脈打つ。
井戸の底の空気が、ふっと軽くなる。
ラシードが言った。
「未来が、縫われた」
そのとき、わたしの身体が浮いた。
足元がほどける。
また落ちる感覚。
「ラシード!」
わたしは彼の布を掴んだ。
彼も掴み返す。
熱い。
泣きそうになる。
「紗良、覚えていろ」
「何を」
「お前が沈めたのは鈴じゃない。——“戻りたい”の暴力だ」
視界が白くなる。
彼の熱だけが、指先に残る。




