第八章 井戸の底で、時間はあなたを試す
第八章 井戸の底で、時間はあなたを試す
井戸の口は、夜の目みたいに開いていた。
覗き込むと水が青い。深い青。
あの鈴の色と同じだ。
ラシードが縄を結ぶ。
「降りるのは俺だけでいい」
「わたしも行く」
声が震えない。震えない自分に驚く。
井戸の中は冷たい。
湿った石が鼻を刺す。
水滴が首筋に落ちて、背筋が跳ねる。
底で、布包みを見つけた。
開くと写本の断片。
文字が美しい。星図がある。
わたしの胸が熱くなる。
——戻るための地図だ。
その瞬間、上から声。
「それだよ」
サイード。
彼は井戸の縁に、もうひとつの鈴を落とした。
リン。
金属音が落ちてくる。
わたしの掌の青い鈴が勝手に震える。
空気が裂ける。
時間が布のように引かれる。
「鳴らせ!」
サイードが叫ぶ。
「弟に会える。君の後悔は終わる!」
終わる。
その言葉が、胸の奥で光った。
でも、光は眩しすぎて、目を焼く。
ラシードが写本を抱えたまま、苦しそうに言った。
「紗良、俺は嘘をついた」
「……何を」
「青の鈴は、喪失を抱えた者を選ぶ。選んで、試す。——戻りたい欲望に勝てるか」
勝てるわけがない。
弟の笑顔が、今もわたしの中で生きている。
でも。
勝てないからこそ、選ぶ必要がある。
選ばなければ、未来は裂ける。
裂けた未来は、弟が生きても“世界”として死ぬかもしれない。
わたしは鈴を口元へ持っていった。
息が震える。
鳴らせば戻れる。
鳴らさなければ、ここに残るかもしれない。
ラシードを失うかもしれない。
「紗良さん!」
サイードが笑いながら言う。
「優等生はいつも後悔する!」
後悔。
わたしは後悔でできている。
でも、後悔を消すために誰かの未来を裂くのは違う。
弟は、そんなことを望まない。
——弟は、わたしに生きてほしかった。
そう思った瞬間、胸の奥が痛みと一緒に温かくなった。




