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第十章 写本が戻ると、代わりに名前が消える
第十章 写本が戻ると、代わりに名前が消える
わたしは博物館の床に倒れていた。
消毒液の匂い。蛍光灯の白。現代の音。
係員が駆け寄り、サイードも来た。
いつもの笑顔。
でも、その笑顔は“何も知らない”笑顔だった。
彼は記憶を持ち帰れていない。
未来は裂けていない。
写本は縫われた。
わたしは手のひらを見る。
青い鈴はない。
代わりに、粗い布の感触だけが残っている。
収蔵庫のガラスケース。
そこに、前日までなかった展示札がある。
「青の写本断片(複製)——欠けた一行が補われた痕跡あり」
わたしは息を止めた。
痕跡。
“なかったはずのもの”が、ここにある。
展示札の下に、小さな追記があった。
まるで誰かが、こっそり書き足したみたいな字で。
『紗良へ。朝は戻らない。だから守れる。——R』
R。
ラシード。
喉の奥が熱くなる。
涙が落ちた。
落ちた涙が床に当たる音は、小さく、でも確かだった。




