07 嫉妬と、風刃
中庭の入口で、マリエッタが逃げ道を塞ぐように立っていた。
春風がそっと吹き抜ける。
緩く巻かれた碧の髪がさらりと揺れ、けれどその瞳だけは、熱を帯びてフィリアを射抜いている。
フィリアは無意識に、腕に抱えた上着を抱き直した。
深い黒緑の布地。アステリア公爵家の紋章が刻まれた翠の魔石の留め具。
紛れもなく、彼のもの。
図書館でうたた寝していた自分の肩に、何気なく掛けられた上着。
ふわりと漂う、柑橘系とシダーウッドが溶け合った深い森の香り。
胸の奥が、ざわりと揺れた。
彼は優しいから。
誰にでも、そうするだけ——。
「私、エルヴィン様から“いい風だね”って褒められましたの」
マリエッタの声が脳裏をよぎる。
きっと、そうなのだ。
そう思い込もうとした瞬間。
「……そちら、エルヴィン様のものでは?」
冷えた声が落ちた。
視線は、フィリアの腕の中へ。
中庭の空気が、ぴんと張り詰める。
ここには魔力を遮る結界はない。
「えぇ、お返ししようと——」
言い終える前に、空気が裂けた。
シュッ——!
圧縮された風刃がフィリアの横を掠める。
オーロラ色の髪が光を弾き、一房がはらりと舞い落ちた。
中位魔法。
頬を撫でるように通過したそれは、
明らかに警告だった。
背後の木の幹が深く抉られ、木屑が舞う。
思考が、一瞬止まる。
「……なぜ」
「警告を守らなかったからですわ」
低く、冷たい声。
「その汚い手から、エルヴィン様の上着を……
離していただけます?」
——最終警告。
エルヴィンから手を引けば、それで済む話。
「……嫌です。私から、お返しします」
まっすぐな拒絶。
マリエッタの瞳に苛立ちが走る。
中位魔法を見せつけたはずなのに。
怯えもせず、まっすぐ自分を見返す平民の娘。
それでもわからないというの?
いいわ。
格の違いというものを、教えてあげますわ。
扇子が鋭くフィリアを指した。
「後悔しても遅くてよ!」
詠唱が始まる。
「天穹を巡る清風よ、
秩序を乱すものに断罪を。
圧せし大気を鋼の刃へ——」
フィリアは静かに息を吐く。
(直進型。圧縮一点集中。回転は弱い)
右手を突き出す。
掌の前に淡い風の初級魔法陣が展開した。
「切り刻みなさい、ウィンドカッター!」
見えぬ刃が陽光を歪ませ、一直線に走る。
魔法陣に触れた瞬間、流れがわずかに傾いだ。
刃は芯を失い、風の粒となって霧散する。
あまりにも、容易く。
石畳の端が削れ、白い粉塵が舞った。
その事実が、マリエッタの誇りを粉々に砕いた。
「なぜ……」
扇子が軋むほど強く握り締められる。
「なぜ、平民で、魔法も使えなかったあなたが……!」
重ねられる風刃。
鋭く、執拗に。
フィリアは最小限の魔力で逸らし、受け流す。
だが、指輪の魔石が脈打つたび、母が満たしてくれた魔力が削れていく。
澄んだ青は濁り、光を失いかけていた。
(いつまで……)
防ぐだけで精一杯。
「どうして……!」
努力で磨いた中位魔法が、なぜ初級魔法に——。
嫉妬が膨れ上がる。
ようやく攻撃が止んだとき、二人の呼吸は荒れていた。
「……こんなこと」
「こんな無意味なこと、やめませんか」
無駄だと伝えたかった。
彼は誰のものでもない。
だから、この争いは意味がない。
「意味が……ない、ですって?」
空気が凍る。
「撤回なさい……!」
今までとは明らかに違う魔力が集束する。
風が渦を巻き、空が軋む。
「蒼穹を統べる絶対の気流よ。
穢れを抱く影を許すな。
その存在ごと、秩序へと還せ——
フェアディクト・テンペスト!」
轟音。
中庭の中央に巨大な竜巻が生まれる。
石畳が剥がれ、木々が悲鳴を上げる。
規模が違う。
——魔石の魔力は、もうわずか。
正面から受ければ、被害は中庭だけでは済まない。
(どうすれば——)
その瞬間。
空気が、落ちた。
重圧。
竜巻が、霧散する。
黒い風が、静かに舞っていた。
「……エルヴィン…様……」
そこに立っていたのは、彼だった。
いつもの穏やかな微笑み。
だが背後で渦巻く風は、夜のように黒い。
怒りを孕んだ、圧倒的な気配。
マリエッタの喉が、鳴る。
「ち、違うのです……私はただ……」
縋る声。
だが、それ以上の言葉は許されなかった。
黒い風が、じわりと空間を締め上げる。
「何が違うのかな?」
優しい声。
一歩、また一歩。
マリエッタへ近づく。
空気が薄くなる。
足が震える。
彼は囁くように、言った。
「彼女が僕の上着を持っていた。」
「それがどういう意味か……君なら分かるよね?」
顔から血の気が引く。
——知られている。
想いも、嫉妬も。
涙が零れ落ちた。
エルヴィンは振り返らない。
フィリアの元へ歩み寄る。
黒い風は消え、春のような柔らかな気配が広がった。
「僕のせいで…ごめんね」
小さな切り傷。
血が、滲んでいる。
彼はそっと、その手を取った。
親指が、傷口の縁をなぞる。
くすぐったいほど近い距離。
指先が、持ち上げられる。
唇が触れそうなほど近づいて――
吐息が、肌を撫でた。
——キス、される。
そう思った瞬間。
低い詠唱。
淡い光が指先を包み、
傷は跡形もなく消えていた。
「誰にも、君を傷つけさせない」
「君を泣かせることも、絶対に」
甘い声。
だが拒めない響き。
「だから……安心して、僕の側においで」
心臓が痛いほど鳴る。
風がそっと彼女を包む。
まるで、彼の腕のように。
そのとき。
カチッ——。
指先で、かすかな乾いた音がした。
フィリアは視線を落とす。
母からもらった指輪。
澄んだ青だった魔石は、完全に色を失っていた。
透明ですらない。
ただの、光を飲み込む灰色。
もう、何も宿していない。
胸の奥が、ひどく冷えた。
春の陽光の下で、色を失った指輪だけが、
静かに、沈黙していた。




