06 春風と、翡翠
今日も、エルヴィン様はいらっしゃるかしら。
魔力ゼロの噂以来、いまだ友達のいないフィリアにとって、エルヴィンと過ごすひとときはかけがえのない時間だった。
公爵家の嫡男だけあって博識で、
魔法陣や魔法理論の話も飽きずに聞いてくれて、的確な助言までくれる。
……つい、話しすぎてしまうのよね。
魔法陣のこととなると、周りが見えなくなる悪い癖。
「お姉ちゃん、話が長いよ」
ルカに呆れられたことを思い出し、思わず苦笑する。
エルヴィン様も、実は退屈していなかったかしら。
ふと、先日の風魔法の話し合いを思い出す。
最小の魔力で相殺する方法について議論したあの時間。
真剣な教師のような横顔。
冗談に柔らかく笑う表情。
嫌がっている素振りなど、ひとつもなかった。
時折、近い距離で魔法陣を描いてくれた。
そのとき、ふわりと香った深い森のような落ち着く香り。
思い出しただけで、顔が熱くなる。
恥ずかしさを振り払うように、棚へ向かう。
「今日も文献をあたってみないと」
魔力が少ない場合の対処法。
基本は魔石や魔道具による増幅。
けれど高価で、現実的ではない。
それ以外は——
「精霊契約……」
精霊と契約し、不足分を補ってもらう方法。
「精霊さんかぁ……綺麗なんだろうなぁ」
挿絵をじっと眺める。
だが、ページを進めた瞬間、期待はしぼんだ。
契約には魔力の相性が必要。
そして精霊の糧は、術者の魔力。
「魔力ゼロじゃあ……ご飯をあげられないものね」
小さく呟き、本を閉じる。
一息ついたとき、ふと先日のことがよみがえった。
——エルって呼んで?
唇に触れた指先。
無意識に自分の唇へ触れる。
あの指は、驚くほど綺麗だった。
もし、あの指先が頬に触れたら。
そう考えただけで、胸の奥がひどく静かに疼く。
「フィリア」
甘く名前を呼ぶ声が、耳の奥で蘇る。
……あれ?
私、名前で呼ばれてた?
あまりにも自然で、気づかなかった。
家では幼馴染に当たり前のように名前で呼ばれていたから、違和感がなかったのだ。
「普通は……名前で呼ばない、よね?」
考えれば考えるほど、顔が熱くなる。
いや、でも。
エルヴィン様は誰にでも優しい。
きっと私が一人でいるのを不憫に思って、親しみやすいように名前で呼んでくださったのだ。
そう。きっと。
……お友達くらいには、思ってくれているわよね?
そう自分に言い聞かせ、ページをめくった。
◆
図書室の扉を静かに開ける。
西日が差し込む中、目的の姿はすぐに見つかった。
長机に頬を伏せ、すうすうと寝息を立てているフィリア。
「……」
思わず、息が緩む。
ノートは開かれたまま。
乾ききらぬインクが、彼女の努力を物語っていた。
彼女の秘密を覗くのは忍びない。
それでも、視線は止まらなかった。
――――
魔力に良い果物を摂取。
一時的にみなぎった感覚あり。
だが発動せず。補充できていたのか不明。
――――
別の頁には、
魔力回復法。
魔力効率の計算式。
精霊契約の条件。
ぎっしりと細かな文字。
「……そこまで、ひとりで」
思わず、そっと髪へ触れた。
西日に照らされ、オーロラのように色を変える髪。
さらりと指からこぼれる。
柔らかい。
こんなにも、儚い。
魔力を持たないと告げられても、
それでも前を向こうとする彼女。
胸の奥が、静かに締めつけられる。
彼女に、魔力を満たす方法はないのか。
壺が空なら——
満たせばいい。
理屈は、単純だ。
だが、どうやって。
そのとき。
指先に、微かな違和感。
翡翠色が、ふっと強く滲んだ。
……?
見間違いか。
次の瞬間には、いつもの柔らかな光に戻っている。
西日の、加減か。
——そう思おうとした。
思考を巡らせかけたところで——
「ん……」
身じろぎするフィリア。
起こすのは忍びない。
日が落ちれば冷える。
エルヴィンは上着を脱ぎ、そっと肩に掛けた。
触れぬよう、細心の注意を払いながら。
「……無防備すぎるよ、フィリア」
小さく笑う。
春風の君と呼ばれる男の、誰にも見せない表情。
もう一度だけ寝顔を見つめ、静かに図書室を後にした。
◆
「わっ……い、今何時!?」
跳ね起きた瞬間、肩から何かが落ちた。
黒に限りなく近い、深い緑の上質な布地。
アステリア家の紋章が刻まれた、翠の魔石の留め具。
「……エルヴィン様の」
胸が強く鳴る。
眠っている間に?
頬が熱くなる。
——起こしてくださればよかったのに。
慌てて荷物をまとめ、上着を抱えたまま図書室の受付へ駆け寄る。
「すみません、あの……エルヴィン様をご存じありませんか?」
司書は穏やかに微笑む。
「つい先ほどお帰りになりましたよ」
「えっ……!」
まだ間に合うかもしれない。
階段を駆け下りる。
夕暮れの光が差し込む廊下を抜け、
中庭へと続く回廊へと足を向ける。
エルヴィン様はきっと、中庭を通って寮へ戻る途中のはず。
間に合って——
中庭へ差しかかった、そのとき。
足が、止まった。
「……まあ」
春の風が、ふわりと吹き抜ける。
淡い学院制服のスカートが揺れ、
それよりも印象的に、緩く巻かれた碧の髪がさらりと肩を滑った。
夕陽を受けてきらめくその姿。
「どちらへ急いでいらっしゃるのかしら、フィリアさん?」
中庭に、マリエッタが立っていた。
逃げ場のない位置取り。
フィリアの喉が、ひくりと鳴る。
風が、ぴんと張り詰めた。




