03 空の壺と、机に置かれたキャンディ
医務室に通されると、淡い青色の髪に眼鏡をかけた知的な医師が待っていた。
クラウス・ローゼンフェルト。
王宮付きの医師にして、魔力検査の第一人者。
レオニス王子の入学に伴い、学院へ派遣された人物だ。
静かな視線が、私を射抜く。
「お話は理解しました。幼少より魔力を発動できず、魔石によって魔法を発現していたのですね」
淡々とした口調。
「入学前検査では判別できませんでしたが、先ほど改めて魔力回路を確認いたしました」
そして。
「……貴方の魔力壺には、魔力が確認できません」
心臓が、どくりと鳴る。
一拍。
「魔力は、自身で生成されていない状態です」
逃げ道のない説明。
「つまり――魔力は、ゼロです」
世界から、音が消えた。
魔力が、ゼロ。
「先生……それはつまり、私は今後、自分の力で魔法を放つことは……?」
声が、わずかに震える。
短い沈黙ののち。
「……現時点では、困難でしょう」
否定しきらない言い方が、逆に残酷だった。
王宮魔法使いになる夢は――消えた。
それどころか、一般的な魔法すら自力では使えない。
死刑宣告にも等しい現実。
だが、彼は続ける。
「ただし、魔力壺そのものは正常です。破損も欠損もありません」
顔を上げる。
「壺は空ですが、魔力の“流れ”は感じられる。……非常に珍しい状態です」
初めて、彼の声にわずかな興味が滲んだ。
「もし外部から魔力を満たし、それを維持できれば――理論上は、発現の可能性があります」
理論上。
フィリアの瞳が、かすかに揺れる。
その不安を読み取ったのか、クラウスは眼鏡の奥で静かに息を吐いた。
「魔石を用いた魔法の発現は可能ですし、四属性適性検査も誤りではなかったと確認が取れています」
声が、ほんの少しだけ柔らぐ。
「ですので……強制退学はありませんよ」
その言葉に、フィリアの肩から力が抜けた。
固く握りしめていた拳が、ゆっくりと開く。
「……本当、ですか?」
かすれるような声。
クラウスは穏やかに頷いた。
「ええ。学院の規定では、魔石による魔法使用が認められている以上、貴方は正規の生徒です」
静かに、しかし確かな保証を込めて告げる。
「変化があれば、必ず私に報告を」
診察は終わった。
⸻
◆
頭が、うまく働かない。
寮へ戻る気力もなく、気づけば図書室へ足が向いていた。
静謐な空間。
古い木製机の、わずかな温もり。
個別机に腰を下ろす。
「……魔力、ゼロだなんて」
呟いた瞬間、視界が滲んだ。
そのまま机に伏せる。
少しだけ。
ほんの少しだけ、休もう。
意識が、ゆっくりと沈んでいった。
⸻
◆
一方その頃。
マリエッタは上機嫌だった。
風魔法を見事に制御し、教師の評価も上々。
「四属性適性」と騒がれた少女が、魔法の発現すらできなかったのだから。
医務室へ向かう途中、ふらつくフィリアの姿を見かける。
不審に思い、後を追った。
図書室。
そして――聞いてしまった。
「魔力ゼロですって……?」
信じられない。
個別机の背後に身を潜め、様子を窺う。
そのとき。
ふわり、と風が流れた。
視線を上げる。
エルヴィン・アステリア。
彼は眠るフィリアを見つめ、一瞬だけ眉を寄せる。
――心配そうな表情。
普段の“春風の君”が決して見せない、切実な影が瞳に宿っていた。
⸻
◆
授業中から、彼女の様子は明らかにおかしかった。
傍目にもわかるほど、顔色が悪かった。
保健室からふらつきながら出ていく姿を見たとき、追うべきか迷った。
だが、気づけば足は動いていた。
個別机に突っ伏している彼女を見て、胸がざわつく。
泣いているのか。
それとも、まだ具合が悪いのか。
――小さな寝息。
安堵が、静かに胸を満たした。
(……よかった。ただ眠っているだけか)
起こすのは忍びない。
ポケットの中の小さな包みに触れる。
最近、女学生の間で人気だという、ミルクと果実を合わせた飴。
彼女が目を覚ましたとき、少しでも笑ってくれたら。
頬を緩め、目を細める姿を想像するだけで、胸がくすぐったくなる。
こんなふうに、誰かのことを想う日が来るとは思っていなかった。
自然と、柔らかな笑みが零れる。
そっと机にキャンディを置く。
――Eat me.
小さなメモを添えて。
近づいたとき、彼女の髪から微かに甘い香りが漂った。
熟れた桃のような、やわらかな匂い。
ほんの一瞬だけ、息を深く吸う。
そして。
「……またね」
聞こえるか聞こえないかの声で呟き、音もなく去った。
⸻
その一部始終を、死角から見ていたマリエッタは――息をのんだ。
エルヴィンの表情が、あまりにも違う。
穏やかで、優しくて、誰にも向けたことのない顔。
その対象が。
魔力ゼロの、平民の少女。
胸の奥が、どろりと煮え立つ。
(……なぜ、あの子に)
指先が震え、扇子を握りしめる。
ミシ、と小さく軋む音。
マリエッタはゆっくりと息を吐き、感情を押し殺した。
唇が、優雅に弧を描く。
「……魔力ゼロ、ですって」
独り言のように、静かに。
「ならば、ここにいる資格など……ないのですわね」
ぱちり、と扇子を閉じる音が冷たく響く。
瞳に宿るのは、静かな狂気。
「自分からいられなくして差し上げれば、よろしいのですもの」
声はあくまで柔らかい。
だが、その奥にあるのは排除の決意。
完璧な淑女の微笑みのまま、彼女は立ち上がった。




