12 揺れる青と、翡翠の独占
暗闇の中、シクシクと小さな泣き声が響く。
静かで、胸の奥に染み入るような、儚い音。
声のする方へそっと歩み寄ると、ひとりの少年が膝を抱えてうずくまっていた。
「大丈夫?」
声をかけると、少年がゆっくり顔を上げる。
黒い瞳が、こちらを捉える。
「……ルルティア?」
期待が一瞬だけ灯り、すぐに消える。
「……ごめん。違う人みたいだね」
また俯くその姿が、ひどく寂しそうで、フィリアの胸が締め付けられた。
「よかったら、話聞くよ?」
フィリアは少年の隣に腰を下ろした。
「私はフィリア。あなたは?」
「……僕はノクト。
ここで、待ってるんだ」
「…待つのって、つらいよね」
闇だけが広がる空間を、二人で見つめる。
「うん。でも、必ず迎えに来てくれるから」
信じている。
けれど、その瞳の奥に揺れる不安は、隠しきれていなかった。
――フィリア!
遠くから、懐かしい声が呼ぶ。
「お姉さんのお迎えが来たみたいだよ」
「一緒に来ない?」
ノクトは小さく首を振った。
「ルルティアが、きっと来てくれるから」
小さく手を振る。
光が満ちていく。
そして、目が覚めた。
◆
「……ここは?」
今まで寝たことのないほど柔らかいマットレス。
触り心地の良い掛け布団。
棚の上に置かれた花瓶には、一本の茎から無数の白い花が連なるように咲き、甘美で濃厚な香りを漂わせている。
――月下香。
部屋全体が上質なもので埋め尽くされていて、フィリアは呆然とするしかなかった。
まるで天国に迷い込んだような錯覚に陥る。
「あら、目が覚めたのね」
柔らかな声。
振り返ると、メイド服の女性が微笑んでいた。
「あの……ここは……?」
「王立付属病院の特別室よ。
あなた、すごく愛されてるのね」
そう言ってくすりと笑う。
遠くから、トットッと足早に近づく足音が聞こえてきた。
「あなたが倒れてから、学院に行く前と放課後に毎日会いに来てくれてるの。ふふっ、ごゆっくりね」
ドアが開く。
そこに立っていたのは、
目を見開いたエルヴィンだった。
みるみるうちに表情が崩れ、破顔する。
駆け寄り、フィリアを強く抱きしめた。
「目が覚めてくれて……よかった」
その指先が、カタカタと震えている。
「君を守るだなんて言ってたのに。
間に合わなくて、本当にごめんね」
今にも泣き出しそうな声。
「ううん、エルヴィン様は助けに来てくれました。
だってあの時、力尽きて倒れた瞬間……エルヴィン様の香りがしたから、安心して眠っちゃったんです。
だから、エルヴィン様は私のヒーローです」
フィリアは震えるエルヴィンの頭を、ゆっくりと撫でた。
柔らかくてクセのない髪が、指の間をすっと滑る。
何度も撫でているうちに、震えが少しずつ収まっていく。
そして、
エルヴィンが耳元で息を吸う。
「フィリアは、美味しそうな桃の匂いがするんだね」
イタズラを含んだ甘い声。
「!?」
恥ずかしさと驚きで、エルヴィンを押し返す。
「じゅっ……授業が始まっちゃいますよ!」
むぅっと頬を膨らませるフィリアに、エルヴィンはくすりと笑った。
「そうだね。また後で会いに来るよ。
ヴェルナ嬢にも、起きたことを伝えておくね」
「! ヴェルナは! ヴェルナは元気なんですか?」
「フィリアのおかげで、大きな怪我はないよ」
フィリアは大きく息を吐き、安堵の笑みを浮かべた。
「まだ起きたばかりだから、ゆっくり休んでね」
優しく言い残し、エルヴィンは部屋を後にした。
◆
お昼過ぎ。
コンコンと控えめなノック。
「どうぞ、お入りください」
入ってきたのは、保健医のクラウス先生だった。
「体の調子は?」
「えぇ、もう元気です!」
そう答えると、先生は小さく安堵の息を漏らした。
「早速だが、魔獣討伐訓練中に起こったこと、ヴェルナ君から聞いた。
君の能力について、確かめたいことがある」
そう言いながら、流れるようにフィリアの手を握る。
「今から私の魔力を送る。
なるべく体に貯めるイメージを持ちなさい」
触れた手のひらから、ひんやりとした水のような感覚が流れ込む。
それは身体を巡り、腹の奥へと集まっていく。
「失礼」
先生は片手をお腹に当てた。
「ひゃっ!」
突然の感触に体が跳ねる。
先生は真剣な表情で魔力の流れを探っている。
「次はこちらから魔力の供給を止める。
繋いだ手から、魔力を吸い上げてみなさい。」
魔力を吸い上げる……。
イメージすると、再び魔力が流れ込んでくる。
お腹の奥に、とぷん、とぷんと染みるように。
手を繋がれ、お腹を触られている状況に、
顔がみるみる熱くなる。
集中できないよぉ……。
「では、今度は自分に溜まっている魔力を流す感覚で」
体の奥から、注ぐように。
とく、とく、と。
魔力が先生へ移る。
力が抜けるような感覚に身体がふわっとする。
さっきまで満たされていたものがなくなる。
『……切ない。
もっと、埋めてほしい。
そんな、はしたない衝動に体が疼きそうになる』
これは…ダメかも…。
恥ずかしさの限界が近づいた瞬間、先生が口を開いた。
「なるほど。これは非常に興味深い能力だ」
興味深そうに微笑む。
「今なら、魔法を発動できるかもしれない。
何か試してくれないか?」
――!
確かに、お腹にまだひんやりとした魔力が残っている。
「ウォーター!」
唱えると、水の球が掌に浮かんだ。
「先生!すごいです!!指輪なしで、魔法が……!」
喜びに目を輝かせるフィリアに、先生は静かに説明を始めた。
「君は非常に稀な『魔力媒介者』の素質を持っている。
他者の魔力を受け入れ、相手の属性に合わせて変換し、渡すことができる。
さらに、相手が受け入れていれば魔力を吸い取ることも可能だ。
ただし、今のところ、身体のどこかで接触していることが条件のようだ」
そして、少し間を置いて続ける。
「課題は、もらった魔力を『貯めておく』ことか。
私が渡した魔力が、すぐにどこかへ流れていってしまう」
「落ち着いた時に、貯める練習をしよう」
先生は背を向け、呟くように言った。
「魔物が増えている今、いざという時のために……魔力共有の授業が必要かもしれないな……」
何か考えがまとまったようで
「では、また学院で」
静かに去っていった。
◆
夕刻。
朝と同じ足音が近づいてくる。
「フィリア!」
扉を開けたエルヴィンが、凍りついたような顔をした。
「どうしたの?」
フィリアが周りを見回すが、何もない。
エルヴィンはフィリアをじっと見つめる。
いつもの控えめなピンクブロンドを基調としたオーロラ色の髪。
その中に、水色が少し強めに煌めいている。
灰青の瞳にも、淡い青が薄く宿っていた。
その色には見覚えがある。
「……クラウス先生か」
低い声で呟く。
「あ、そうなんです。先程いらっしゃって――」
答えを口にした瞬間、エルヴィンの表情が一変した。
瞳から光が消え、翡翠色がどす黒く濁った。
怒りに震え、我を失ったようにフィリアに近づく。
両肩を強く掴む。
「フィリア、何をされたの?
魔力でも渡されたの?
ねぇ、答えて!」
ぎりりと力がこもる。
「いたっ!」
痛みに顔を歪めるフィリア。
エルヴィンははっと手を離した。
目の前には、怯えたフィリア。
エルヴィンの喉が震える。
「……ごめん」
思わず目を逸らす。
「僕以外の魔力が、君の中にあるのが」
言葉が詰まる。
「……嫌、だったんだ」
子供のような、独占。
そして、しばらくの沈黙。
エルヴィンはそっと尋ねる。
「クラウス先生の魔力を、身体に通したの?」
フィリアは静かに頷く。
「どうやって?」
「手を繋いで……」
言葉を遮るように、エルヴィンがそっと両手を繋いだ。
手の甲をそっと撫でた後、
そっと口づけた。
「上書きさせて?」
低く、甘く、切なげに囁く。
エルヴィンのその鋭く、熱い視線に、
フィリアは頷くことしかできなかった。
暖かくて柔らかい魔力が、
ゆっくりと流れ込んでくる。
一つ一つ奥まで確かめるように。
胸が春風に撫でられるようにくすぐったい。
優しく身体を包まれ、ゆっくりと深く馴染んでいく。
……気持ちいい
胸が熱く、顔が火照る。
チラリとエルヴィンを見ると、
愛しいものを見るような、深い瞳。
恥ずかしくて目を逸らすと、
逃がさないと言うように、指先が絡む。
「ダメ。こっちを見て」
静かに、でも強く言われる。
水色の残滓を包み込み、溶かし、染め替えるように。
髪の淡い青が消え、翡翠が深く滲む。
瞳が、翠色に満ちていく。
エルヴィンは息を吐いた。
「……これでいい」
恍惚にも似た安堵が、エルヴィンの瞳に宿った。
「もう、僕以外に魔力を満たしちゃダメだよ」
優しい声。
でも、どこかすがるような、震える響き。
フィリアは、その声の奥にある深い思いに――
まだ、気づいていなかった。




