第88話 理不尽な非難
ヒール屋が、8歳になったばかりの少女アリスを囮とし、完璧な迎撃態勢を敷いてから数日が経過していた――。
港区のヒミコの屋敷内は、春の陽気とは裏腹に、息が詰まるほどの濃密な緊張感に包まれていた。
それもそのはずである。アリスの周囲には、文字通り『世界最強の盾』と呼ぶべき三人の護衛が、片時も離れることなく配置されていたのだ。
空間そのものを断ち斬る白き魔剣を宿し、一切の予備動作なく神速の斬撃を放つ剣崎。
ひとたび魔力を解放すれば、周囲一帯を瞬時に消し炭に変えるほどの異常な熱量を誇る三上。
そして、いかなる物理干渉も、悪意すらも透過させない『絶対防御』の異能を持つ真壁楓!
極限まで計算高く、己の知能に絶対の自信を持つ知能犯だからこそ、遠巻きにその陣容を観察しただけで即座に悟ったのだ。
ヒール屋の護衛を物理的に突破することなど、どれほど綿密な計画を練ろうとも絶対に不可能であると。
その代わり、犯人は警察の警備が手薄な死角を突き、アリス以外の無関係な幼児を立て続けに誘拐した。そして、まるで見せつけるかのように猟奇的な装飾を施し、痛ましい遺体として遺棄したのである。
防犯カメラの死角を縫い、指紋一つ残さない完璧な犯行。
直後、マスコミ各社には新たな犯行声明文が送りつけられた。そこには、無能な警察と、出しゃばった聖女教を完全に出し抜いたという、犯人のひどく歪んだ優越感と嘲笑がこれでもかと綴られていた。
◇
リビングの大型テレビでは、朝から晩まで連日この凄惨な事件が報じられている。
画面の中で、看板番組の大人気女性アナウンサー・水瀬栞が、ひどく沈痛な面持ちで、手元のフリップに書かれた猟奇的な声明文を読み上げていた。
『――天使たちを、汚れた大人たちの世界から解放する。以上が、犯人から新たに送られてきた犯行声明の全文です』
カメラを見つめる水瀬の表情は、痛ましい事件に心を痛める、知的で思いやりに満ちたものだった。眉をわずかに寄せ、潤んだ瞳で被害者への哀悼を捧げるその姿は、視聴者の心を強く打つ。
だが、その慈愛に満ちた完璧なアナウンスが、皮肉にも日本中の恐怖をより一層煽り立てていく。
テレビの前の誰もが、彼女の真摯な言葉に頷き、彼女の悲しみに共感していた。
新たな犠牲者が出たことで、日本中に蔓延していたパニックは、やがて激しい怒りへと変わる。そして、その矛先は捜査に介入したヒール屋へと一斉に向けられた。
連日、テレビのコメンテーターやSNSは声高に叫ぶ。
『聖女教は、自分たちの箱入り娘を守っているだけじゃないか!』
『警察が素人のオカルト集団なんかに頼ったせいで、犯人を刺激して被害が拡大したんだ!』
『今すぐ聖女教は捜査から手を引け!』
その理不尽な怒りは電波を越え、物理的な暴力となってヒール屋の重厚な門の前にも押し寄せていた。
連日、マスコミのフラッシュが瞬き、プラカードを掲げた抗議の群衆が罵声を浴びせている。
「くっ……!」
門の前に立つ真壁楓が、冷徹に『絶対防御』の透明な盾を展開し、暴徒の侵入や投げ込まれる石を完璧に弾き返している。
だが、プロとして無表情を貫く凛とした彼女の横顔にも、守るべき小さな命が理不尽に奪われていくことへの、どうしようもない悔しさが滲み出ていた。
窓の外で渦巻く喧騒をリビングから眺めながら、アリスはぎゅっと小さな唇を噛みしめる。
「私のせいで、他の子が……っ。私がもっと、上手におびき出せていれば……」
気高い黄金の光を宿していた彼女の美しい瞳が、深い自責の念で痛ましげに揺れる。自分が囮として機能しなかったせいで、無関係な子供たちが犠牲になった。8歳の少女が背負うには、あまりにも重すぎる十字架だった。
隣でニュースを見ていたレイナも、苛立たしげにクッションを殴りつける。
「あーもう、ムカつく! テレビや外の連中は勝手なことばっかり言って!」
重苦しい空気がリビングを支配する中。
ヒミコが静かにアリスの隣に座り、その震える小さな手に、そっと自分の手を添えた。
「ん。アリスのせいじゃない」
ヒミコのフラットな声が、アリスの心に直接響く。
「悪いのは、隠れてる汚いお化け。アリスは、何も悪くない」
不器用だが、そこには一切の疑いを挟ませない、絶対的な安心感を持つ聖女の優しさがあった。
ヒミコの温かな手のひらに触れ、アリスの瞳から張り詰めていた涙がポロリとこぼれ落ちる。
◇
同じ頃、ヒール屋最上階の理事長室。
警察庁の幹部が、額に脂汗を浮かべ、青ざめた顔で源田壮一郎に深く頭を下げていた。
「源田理事長、もう世論がもちません! このままでは警察の威信も地に墜ちる! どうか、どうか表向きだけでも捜査から手を引いていただきたい……っ!」
懇願する幹部。しかし、大きな革張りの椅子に深く腰掛けた源田は、無表情のまま手元の資料を見つめ、無意識に自身の右膝をトントン、トントンと軽く叩いていた。
世間の身勝手なバッシングなど、源田にとっては耳障りなノイズですらない。窓の外で騒ぐ群衆も、テレビで騒ぎ立てるコメンテーターも、彼にとっては盤上の無価値な駒に過ぎなかった。
源田の頭脳はすでに、犯人の行動パターンの変化から、そのひ弱な心理状態を完全に読み切っていたのだ。
「……断る」
源田は警察幹部に、絶対零度の声で冷酷に言い放つ。
「犯人は声明文で大層な御託を並べ、マスコミはそれを持ち上げているがな。奴の承認欲求は今、最高潮に達しているだろう。だがその本質は、我々の強固な護衛から逃げ回るだけの、惨めなコンプレックスの塊だ」
源田は資料を机に放り投げ、剥き出しの鋭い眼光で警察幹部を容赦なく射抜いた!
「奴は己を『誰も捕まえられない完璧な存在』だと錯覚している。ならば、その肥大化したプライドを根元からへし折り、自ら死地へと足を踏み出させてやればいい」
「へ、へし折る……? 一体どうやって……」
幹部が震える声で尋ねると、源田の口角が三日月のように吊り上がる。
それは、獲物を確実に仕留める罠を思いついた、冷酷無比な策士の笑みだった。
「奴に、極上の隙を作ってやる。――今夜の全国ネットの報道番組を手配しろ」
世間の非難すらも利用し、安全な地下室で傲慢にふんぞり返る知能犯を自ら引きずり出す。
無敗の弁護士が、反撃の最悪な罠を冷徹に仕掛けた瞬間だった。
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