第79話 聖女の礼装と、永田町の陥落
深夜の首相官邸。執務室の重厚な扉は閉ざされ、息の詰まるような沈黙が落ちていた。
日本初の女性内閣総理大臣である市ヶ谷百合子は、眉間を深く揉み込んだ。才色兼備の鉄の女と謳われた彼女の顔には、かつてないほどの濃い疲労と焦燥が刻まれている。
「……間違いありません。クローバー大統領を乗せたエアフォースワンは羽田に到着後、官邸には立ち寄らず、港区にあるヒミコの屋敷へ直行するとのことです」
秘書官の報告に、市ヶ谷はギリッと奥歯を噛み締めた。
超大国のトップが日本を訪れながら、政府を完全に素通りして一民間人の屋敷へ向かう。これが意味することは一つ――日本政府の完全なる無力化であり、国際社会における政治的死だ。明日になれば、市ヶ谷政権は崩壊するだろう。
プライドを粉砕された市ヶ谷は、震える手で自ら受話器を取った。かける相手は、アメリカ大統領ではない。今の世界の中心に座る、ただ一人の男だ。
コール音が数回鳴り、無機質な声が響く。
『……何用ですか、総理』
「源田代表……。お願い、大統領との会談場所を官邸へ変えてちょうだい。これ以上、日本政府を蚊帳の外に置いて笑い者にしないで」
悲鳴に近い懇願だった。しかし、電話越しの源田の声は、氷のように冷徹だった。
『魔法の利権をアメリカに売り渡そうとした過去を、俺が忘れたとでも?』
「っ……それは……」
『だが、いいだろう。場所は官邸にしてやる』
予想外の譲歩に市ヶ谷が息を呑むと、源田は不敵に言葉を継いだ。
『その代わり、この「貸し」は高くつくぞ。今後、日本政府はヒール屋および建設中の魔法学院の運営に関し、一切の干渉を禁ずる。完全な自治権……実質的な治外法権を認める一筆を、今すぐ書け』
それは、国家の主権の一部を割譲しろというに等しい要求だった。しかし、市ヶ谷にはもう頷く以外の道は残されていなかった。
「……わかったわ。約束する」
国家が、一人の男の軍門に降った瞬間だった。
◇
数時間後。行き先が急遽変更されたことで、世界中のメディアが港区から永田町へと大移動し、官邸周辺は異常な熱気に包まれていた。
無数のフラッシュが瞬く中、一台の黒塗りの車が官邸の車寄せに滑り込む。
後部座席から降り立ったのは、汚れ一つない真っ白なワンピースに身を包んだヒミコだった。
いつも通りの無邪気な足取りだが、その純白の礼装は彼女が『奇跡を司る聖女』であることを視覚的に強烈に印象付け、殺気立っていた報道陣すらも思わず息を呑んで静まり返る。
ただ一つ、彼女が胸の前に大事そうに抱えている大きな風呂敷包みを除いては。
背後に静かな威圧感を放つ源田を従え、ヒミコは堂々と官邸の正面玄関へ足を踏み入れた。
◇
格式高い特別応接室。国賓を迎えるためのその部屋で、市ヶ谷総理は極度の緊張の中で二人を待ち構えていた。
扉が開き、真っ白なワンピースの少女が現れる。
「こんにちは、綺麗なおばさま! ここ、すっごく広いおうちだね!」
一国の総理大臣に対する、あまりにも屈託のない第一声。
しかし、すっかり定着してしまったその呼ばれ方に、市ヶ谷はもはや怒る気も起きず、むしろ張り詰めていた糸がふっと緩むのを感じて小さくため息をついた。
ヒミコにとって、自分が背負う権力など何の意味も持たない。ただの『少し疲れた顔をした綺麗なおばさま』でしかないのだ。
「ええ、いらっしゃい、ヒミコちゃん。……相変わらずね」
苦笑いを浮かべる市ヶ谷をよそに、ヒミコは最高級のテーブルの上にどっこいしょと風呂敷を広げた。中から現れたのは、山のようなおにぎりである。
「おばさまも、夜遅くまで起きててお腹空いてるでしょ? はい、ツナマヨ!」
「……ふふ、ありがとう。いただくわ」
「遠慮しないで食べて! アメリカのおじさんの分もいっぱいあるから!」
国家の存亡を懸けたピリつく応接室に、庶民的な海苔とツナマヨの香りがふわりと広がっていく。
緊張を解かれ、素直におにぎりを受け取った市ヶ谷の横で、源田は不敵に鋭い目を細めていた。
世界最強の二人――アメリカ大統領と源田の会談の舞台は、聖女の果てしなくマイペースな空気によって、完璧に整えられたのだった。
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