第51話 敵意の浄化
クライ国の冬は、寒さだけが敵ではない。
雪解けと戦車のキャタピラによって攪拌された大地は、底なしの泥沼と化していた。
ズズズ……。
次の救援先へ向かっていた装甲バスが、泥にタイヤを取られて停車した。
「……動かないな。三上、どうなってる」
「ダメですゲンさん。完全にスタックしました。前のトラックも詰まってるみたいで……うわ」
運転席の三上が顔をしかめた。
バスの隣には、古びた軍用トラックが停車していた。
その荷台は鉄格子で囲われた檻のようになっており、中には泥と血にまみれた男たちがすし詰めにされていた。
連邦国軍の捕虜たちだ。
彼らの目は落ち窪み、恐怖と、強烈な不信感、そして「これから何をされるかわからない」という絶望に濁っていた。
家畜のように運ばれる彼らと、暖房の効いたバスで快適に過ごすヒミコたち。
窓ガラス一枚を隔てた天国と地獄だった。
◇
「……うわぁ」
レイナがサングラスを少しずらし、隣のトラックを見て息を呑んだ。
「お嬢。あれは酷いな」
「……ん?」
おにぎり(おかか)を食べていたヒミコが顔を上げる。
「市民の人たちの煤は『悲しみの灰』だったけど……あいつらのは違うわ」
レイナの心眼には、捕虜たちの体から立ち上るものが、ドロドロとした黒い重油のように見えていた。
「粘り気のある、真っ黒な油。……嘘と憎しみで塗り固められてる。グロモフの野郎、とんでもない洗脳教育をしてやがるわね」
彼らの魂にこびりついているのは、愛国心ではない。
「降伏すれば拷問されて殺される」「敵は人間ではない、悪魔だ」という、徹底的に植え付けられた虚偽の恐怖だった。
その恐怖が、彼らを死ぬまで引き金を引き続ける「生きた兵器」に変えていたのだ。
「……あれじゃあ、死ぬまで戦うしかないわね。可哀想に」
◇
「……ふん」
源田は鼻を鳴らすと、おもむろにバスのドアを開けた。
「おい、そこの運転手。その荷台の荷物、まとめてウチで受注するぞ。ここへ降ろせ」
突然の提案に、捕虜を護送していたクライ国兵士たちが色めき立った。
銃口が向けられる。
「な、何を言っている! こいつらは侵略者だぞ! 俺たちの家族を殺した連中を助ける気か!?」
「落ち着け。俺たちは日本政府と契約している」
源田は動じることなく、タブレットの契約書画面を見せた。
「ここには『負傷した人間を治療する』としか書いていない。国籍も、所属も、善悪も問わん。一万円の価値は平等だ」
「だが……!」
「それに、だ。……心を洗われた兵士は、もう弾を撃つ機械には戻れん。殺すよりも効率的な『敵軍解体』だと思わんか?」
源田の冷徹な論理に、兵士たちは言葉を詰まらせた。
渋々、檻の鍵が開けられる。
泥だらけの捕虜たちが、怯えながら雪の上に引きずり出された。
◇
捕虜の中に、一人の少年兵がいた。
まだ10代半ば。支給された軍服はサイズが合っておらず、ブカブカだ。
彼はガタガタと震えながら、ヒミコを睨みつけていた。
「魔女だ」「魂を食われる」と教え込まれているのだろう。
「……ん」
ヒミコが少年の前に立った。
手には、茶色いおかかのおにぎり。
「……しょっぱい」
ヒミコは指についた鰹節を舐めると、少年の泥だらけの頬に手を伸ばした。
少年がビクリと身を竦める。
「……ん。ここ、真っ黒。嘘がいっぱいだね」
ヒミコは悲しげに眉を寄せた。
「お掃除、するよ」
カッ……!!
雪原に、白銀の光が弾けた。
それは傷ついた肉体を治すだけの光ではない。
少年の脳裏に焼き付けられていた「敵への憎悪」「植え付けられた恐怖」「偽りの正義」――それらすべての「煤」を、根本から洗い流す浄化の光だった。
ドロドロとした黒い油が、光に焼かれて消えていく。
「あ……あぁ……?」
光が収まった時、少年の瞳から濁りが消えていた。
彼は自分の手を見つめ、そして目の前にいるヒミコを見た。
そこにいるのは悪魔でも敵でもない。ただおにぎりを持った、自分と同じ人間だった。
「……僕は……どうして……」
少年は膝から崩れ落ちた。
張り詰めていた糸が切れ、堰を切ったように感情が溢れ出す。
「お母さん……! 帰りたい……家に帰りたいよぉぉ……ッ!!」
それは兵士の叫びではなかった。
ただの子供の、痛切な泣き声だった。
◇
その光景は、他の捕虜たちにも連鎖した。
次々とヒミコに触れられ、光に包まれるたびに、彼らは武器を捨てた理由を思い出し、涙を流して地面にひれ伏した。
戦意喪失ではない。人間性の回復だった。
「すっげえ……これ、バズるぞー」
三上がスマホを構え、その一部始終を撮影していた。
「日本の聖女、敵兵の洗脳を解く」というタイトルでDチャンネルにアップロードされた動画は、瞬く間に世界中へ、そして情報統制されているはずの連邦国内へも拡散されていった。
カチリ。
源田が無機質な音を立てた。
「捕虜30名。しめて三十万円。……おい三上、今の動画に『一万円で人間性が戻ります』ってテロップを入れておけ。連邦軍内部への良い宣伝になる」
源田は満足げに頷いた。
三十万円で小隊一つを無力化し、さらに敵国への精神攻撃まで行う。
これほどコストパフォーマンスの良い兵器は存在しない。
◇
連邦国首都、クレムリノ大宮殿。
その執務室で、グロモフ大統領はモニターを睨みつけ、拳をデスクに叩きつけた。
「おのれ……ッ!!」
画面の中では、自国の兵士たちがヒミコに抱きつき、感謝の涙を流している。
それは彼が最も恐れていた事態だった。
「恐怖」による支配が、「愛」と「一万円」によって無効化されているのだ。
「魔法による精神汚染だ! あの小娘は、兵士の脳を書き換えているに違いない!」
グロモフは血走った目で叫んだ。
「殺せ! あの治療屋を最優先で排除しろ! あれを生かしておけば、我が軍は内部から崩壊するぞ!」
ヒミコの「お掃除」は、ついに独裁者の喉元に刃を突きつけ始めていた。
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