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第40話 汚れすぎた手

挿絵(By みてみん)


 新宿、ゴールデン街。

 紫煙と安酒の匂いが充満する薄暗いバーの片隅で、一人の男が激しく咳き込んだ。


「……ゴフッ、ガハッ……!」


 吐き出された血が、カウンターを赤く染める。

 男の名は志波しば

 かつて裏社会でその名を知らぬ者はいなかった、伝説の殺し屋だ。

 だが、今の彼はただの死に損ないだった。末期の肺癌。余命はあと数日といったところか。


「……志波さんよ。聞いたか? あの管野の野郎が治ったって話」


 情報屋が囁く。

 管野元警視正。汚職にまみれた悪徳警官。彼もまた末期癌だったはずだが、港区の「聖女」の手によって完治したという噂が、裏社会を駆け巡っていた。


「……聖女、か」


 志波は自嘲気味に笑った。

 俺のような手遅れの罪人が、神に許されるはずがない。

 だが、死への恐怖と、生物としての生存本能が、彼を突き動かした。


 志波は懐から、血と手垢で汚れた一万円札を取り出した。

 これが、彼の命の値段だった。


          ◇


 翌朝。港区の洋館。

 いつものように長い行列ができていたが、その空気は一変していた。


「……なんだ、あの男」


 整理係の三上翔が、指先の魔力を明滅させながら警戒する。

 行列の中ほどに並ぶ、くたびれたコートの男。

 ただ立っているだけなのに、周囲の空気が凍りついている。死の匂い。そして、隠しきれない濃厚な血の気配。


 門番の真壁楓が、反射的に『絶対防御』の構えを取った。


「……殺気だ。それも、尋常じゃないかずを殺ってきた人間の」


「真壁さん、僕が先に撃ちましょうか? あれはヤバいですよ」


「待ちなさい」


 レイナがサングラスをずらし、志波を凝視した。

 その眉が、不快そうに歪む。


「……最悪の色ね。乾いた血が何層もこびりついて、化石みたいになってる。真っ黒な赤色よ」


 レイナは吐き捨てるように言った。


「魂がもう死んでるわ。生きる気力じゃなくて、死ぬ場所を探しに来た亡霊ね」


 騎士団に緊張が走る。

 だが、テラスから見下ろしていた源田は、動じることなくコーヒーを啜った。


「……客だ。武器を抜いていないなら、ただの死に損ないに過ぎない。通せ」


          ◇


 順番が来た。

 志波は、ヒミコの前に立った。

 目の前にいるのは、あどけない少女。おにぎりの米粒を頬につけたまま、不思議そうな目でこちらを見上げている。


「……俺のような、汚れきった人間でも、掃除できるのか?」


 志波は震える手で一万円札を差し出した。

 その手には、無数の「タコ」がある。銃を握り、ナイフを振るい、人の命を奪い続けてきた証だ。


 ヒミコは、その手を見つめた。

 彼女には、志波の過去も、犯した罪も見えない。

 見えるのは、ただ一つ。「不快な汚れ」だけだ。


「……おじさん、死にそう。色が真っ黒」


 ヒミコはおにぎりを置き、志波の手を両手で包み込んだ。


「お掃除、しないとダメ」


 カッ……!!

 白銀の光が迸る。

 それは、これまでのどの治療よりも激しく、そして深かった。

 肉体を蝕む癌細胞が消滅していく。

 だが、それだけではなかった。

 志波の脳裏に焼き付いていた、数百人の断末魔。血の感触。殺しの快楽。罪悪感。

 それら全てを、ヒミコの光は「汚れ(ノイズ)」として認識し、無慈悲に洗い流していく。


「あ、あぁ……アアアア……ッ!?」


 志波の口から、黒い霧のようなものが吐き出され、光に溶けて消えた。

 痛みはない。

 あるのは、自分という存在が根本から洗濯されていくような、恐ろしいほどの喪失感と爽快感だった。


「……はい、おじさん。もう綺麗」


 光が収まる。

 ヒミコは満足げに頷き、次のおにぎりを手に取った。


 志波は、自分の手を見つめた。

 震えが止まっている。

 呼吸が楽だ。

 だが、それ以上に驚愕すべき変化があった。


「……消えた」


 あんなに欲しくてたまらなかった血の匂いが、今は不快でたまらない。

 殺意が、憎悪が、空っぽになっていた。


「……おじさんの手、もう汚くない。次のおじいちゃん、どうぞ」


 ヒミコの一言が、志波の凍りついた人生を終わらせた。


          ◇


 洋館の出口。

 志波は立ち止まり、懐から愛用のバタフライナイフを取り出した。

 何人もの喉を切り裂いてきた凶器だ。

 彼はそれを、燃えるゴミの袋へと無造作に放り込んだ。


「……もう、必要ないな」


 その横顔は、憑き物が落ちたように穏やかだった。


「どこへ行くつもりだ」


 真壁が問いかける。彼女の『絶対防御』はもう解かれていた。

 志波は、どこか遠くを見るような目で答えた。


「……田舎にでも帰るさ。おにぎり屋にでも弟子入りしようかと思ってな」


「おにぎり屋?」


「ああ。あの子に言われた通り、この手を綺麗に保ちたいからな」


 伝説の殺し屋は、寂しげに、しかし確かな足取りで去っていった。


 その一部始終をモニターで見ていた研究室の木島が、背筋を震わせた。


「ひひっ! こりゃあ傑作だ……いや、恐怖だな」


 木島は、志波の脳波データの変化を記録しながら呟く。


「ヒミコの光は、肉体の病巣だけじゃなく、精神にこびりついた『歪み』まで真っ新にお掃除しちまうのか。……人格矯正マインド・ワイプ。下手な洗脳よりタチが悪いぞ」


 罪悪感も、殺意も、トラウマも。

 ヒミコにとっては、等しく「掃除すべき汚れ」でしかない。

 その無邪気な傲慢さに、木島は科学者としての戦慄を覚えた。


「毎度あり」


 源田だけは、何も変わらない。

 彼にとっては、伝説の殺し屋の引退も、一万円の売り上げに過ぎないのだから。


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