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第34話 謝罪の値段

挿絵(By みてみん)


 その日、港区の一角は物々しい空気に包まれていた。

 路地という路地に制服警官が立ち、上空には警視庁のヘリが旋回している。

 近隣住民が遠巻きに見守る中、一台の黒塗りのセンチュリーが、古びた洋館の前に滑り込んだ。


 SPたちが慌ただしく展開し、後部座席のドアが開かれる。

 降り立ったのは、グレーのスーツに身を包んだ女性。

 日本国内閣総理大臣、市ヶいちがや百合子だ。


 失言問題で支持率を落としていた彼女だが、その足取りは力強く、一国のリーダーとしての威厳を纏っていた。

 だが、その表情には隠しきれない疲労の色が滲んでいる。


「……ようこそ、総理。むさ苦しい場所ですが」


 出迎えたのは、珍しくジャケットを着用した源田壮一郎だ。

 彼は慇懃無礼に頭を下げ、市ヶ谷を館内へと招き入れた。


          ◇


 案内されたのは、洋館で最も日当たりの良い応接室――通称「貴賓室」。

 重厚な革張りのソファに腰を下ろした市ヶ谷は、まず深く頭を下げた。


「この度は、突然の訪問を受け入れていただき、感謝します。源田代表」


「いえいえ。一見さんお断りというわけではありませんから」


 源田が薄く笑う。

 市ヶ谷は顔を上げ、真摯な眼差しを向けた。


「まずは、謝罪をさせてください。これまでの厚生労働省による数々の非礼……そして、貴団体の活動に対する不当な干渉について、政府を代表して心よりお詫び申し上げます」


 プライドの高い彼女が、一介の宗教法人代表に頭を下げる。

 それは政治的なパフォーマンスかもしれないが、声色には確かな誠実さがあった。


「そして……感謝を。我が国を資源の首輪から解き放っていただいたこと、一人の日本人として御礼申し上げます」


 市ヶ谷はSPに目配せし、一つの桐箱をテーブルに置いた。

 最高級の白木で作られた箱には、老舗料亭の焼印が押されている。


「これは?」


「お口に合うかわかりませんが……私のツテで、一番良いものを用意させました」


 市ヶ谷が恭しく蓋を開ける。

 ふわり、と芳醇な海苔と炊きたての米の香りが広がった。

 そこに鎮座していたのは、宝石のように艶やかな米粒が整列した、極上の塩むすびと、最高級具材を使ったおにぎりの詰め合わせだった。


「……ん。いい匂い」


 その香りに釣られるように、衝立の奥からヒミコが姿を現した。

 いつもの白いワンピース。胸元には安っぽいアリスのキーホルダー。

 SPたちが緊張するが、市ヶ谷は手で制した。


「……はじめまして、ヒミコさん」


「……はじめまして。おばさま」


 ヒミコの言葉に、室内が静まり返った。


 「おばさん」ではない。「おばさま」。


 ほんの少しの違いだが、そこにはヒミコなりの敬意と、相手の品格を感じ取ったニュアンスが含まれていた。


「……ふふっ、おばさま、ですか。総理と呼ばれないのは久しぶりです」


 市ヶ谷の表情が、ふっと緩んだ。

 政治家としての「鉄の仮面」が剥がれ、疲れ果てた一人の女性の顔が覗く。


「……これ、お米が光ってる。食べていい?」


「ええ、どうぞ。あなたのために持ってきたのですから」


 ヒミコは嬉しそうに塩むすびを手に取った。

 一口、頬張る。


「……ん! 美味しい。お米が甘い」


「それは良かったです。……新潟の特別栽培米を、土鍋で炊き上げたものですから」


 幸せそうに咀嚼するヒミコを見て、市ヶ谷は肩の力が抜けていくのを感じた。

 連日の激務、野党からの追求、支持率の低下。

 それらの重圧が、少女の無垢な笑顔の前では些細なことに思えてくる。


 だが、彼女は総理大臣だ。

 感傷に浸るわけにはいかない。


「……源田代表。本題に入らせてください」


 市ヶ谷は姿勢を正し、切り出した。


「政府は、貴団体『聖女教』を、国家戦略特区法に基づく『特別保護法人』に指定したいと考えています」


「ほう?」


「認定されれば、当面の活動資金として年間百億円規模の予算を計上します。税制面での優遇、警察による警備体制の強化……あらゆる便宜を図りましょう」


 破格の条件だ。

 だが、その裏にある意図は明確だった。


「その代わり……ヒミコさんの能力と魔石の管理について、政府と情報を共有していただきたい。これは安全保障上の問題でもあります」


 国家による管理。

 柔らかい言葉で包んでいるが、要は「政府の傘下に入れ」という要求だ。

 源田は茶を啜り、カップを置いた。


「……魅力的な話ですね。ですが」


 源田はニヤリと笑った。


「お断りします」


「……理由は?」


「総理。うちは最初から明朗会計ですよ。……どんな国家危機を掃除しようと、どんな重病を治そうと、対価は一律一万円。それは首相あんた相手でも変わりません」


 源田は一万円札をひらりと指先で弄んだ。


「我々は、誰の傘下にも入りません。予算も要らない。欲しいのは、満足した客からの『お布施』だけだ」


 市ヶ谷は源田の目をじっと見つめ返した。

 そこにあるのは、強欲なようでいて、決して権力には屈しない独立独歩の精神。

 彼女は小さく溜息をつき、そして苦笑した。


「……負けました。頑固な経営者ですね」


「最高の褒め言葉です」


 市ヶ谷は、私物のハンドバッグから財布を取り出した。

 中から新紙幣の一万円札を一枚抜き出し、テーブルに置く。


「では、これは『日本のお掃除代』として。……これなら、受け取っていただけますか?」


「ええ、喜んで」


 源田は素早く紙幣を懐に入れた。


「毎度あり。……領収書の但し書きは『国家清掃代』でいいですか?」


「ふふっ、ええ。経費で落ちるかしら」


 市ヶ谷は立ち上がった。

 来た時よりも、その背中は幾分か軽そうに見えた。

 ヒミコが、口の端にご飯粒をつけたまま手を振る。


「……おばさま。これ、美味しかった。また持ってきて」


「ええ、約束します。……お元気で、小さな聖女様」


          ◇


 総理の車列が去り、再び静寂が戻った洋館。

 源田の顔から、営業用の笑みが消えた。


「……剣崎」


「は」


 影から音もなく剣崎が現れる。

 その袴の裾には、微かに土汚れが付着していた。


「外の羽虫ネズミどもの気配はどうだ?」


「会談中に侵入を試みた数名……既に庭の肥やしにいたしました。共和国製の最新装備を持っておりましたが、所詮は玩具です」


 剣崎は淡々と報告する。

 総理訪問という一大イベントの裏で、暗殺者たちの襲撃は既に始まっていたのだ。


「だが……次はさらに大きな『汚れ』が来るでしょう。総理が頭を下げたという事実は、奴らの焦燥を加速させたはずです」


「だろうな」


 源田は、市ヶ谷が置いていった一万円札を見つめ、冷たく目を細めた。


「一万円分の仕事はきっちりこなすさ。……来るなら来い。全員まとめて、地獄へお掃除してやる」


 聖女の守護者たちは、忍び寄る国家規模の殺意に対し、静かに牙を研いでいた。


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