第3話 歌舞伎町の聖女
新宿、歌舞伎町。
東洋一の歓楽街と呼ばれるその場所は、欲望と汚濁が煮凝りのように溜まる巨大な沼だ。
ネオンの光は人工的で、行き交う人々の笑顔は張り付き、路地裏には嘔吐物とアルコールの臭気が染み付いている。
そんな掃き溜めのような路地裏の一角に、一輪の白百合が咲いていた。
室外機の熱風が吹き荒れる狭い隙間。
そこに敷かれた古新聞の上に、少女は鎮座していた。
泥に汚れた検査着を纏ってはいるが、その佇まいは、あたかも王宮の玉座に腰掛ける高貴な姫君のようでもあり、あるいは祭壇に座る神像のようでもあった。
純白の髪が、湿った空気の中で淡い燐光を放っている。
銀色の瞳は、濁った街の景色を映しながらも、決してそれには染まらない。
彼女の前には、みかん箱ほどの大きさのダンボールが置かれていた。
そこには、黒い太字でこう書かれている。
『ヒール屋 一回一万円 現金のみ ※なんでも治します』
あまりにもシュールで、あまりにも怪しい光景だった。
「……なぁ、嬢ちゃん。やっぱり無理だって」
ダンボールの横で、ホームレスのゲンが頭を抱えていた。
彼はヒミコに、この場所を提供してやった協力者だ。
「こんな怪しい店、誰も寄り付きゃしねぇよ。警察が来る前にズラかったほうが……」
「来る」
ヒミコは短く、しかし確信に満ちた声で遮った。
その声は、教会の鐘の音のように澄んでいて、ゲンの不安を静かに撫でるような響きを持っていた。
「私の価値は、私が証明する。だから、客は来る」
その予言は、すぐに現実のものとなった。
路地裏の入り口から、ヒールの足音が響いてきたのだ。
「マジだるいんだけど~。てか、動画のネタなくない?」
現れたのは、派手なドレスに身を包んだ若い女だった。
巻き髪に濃いメイク、甘ったるい香水の匂い。
歌舞伎町という生態系における捕食者の一種、キャバクラ嬢だ。彼女はスマートフォンのカメラを自分に向けながら、気だるげに歩いていた。
「あ、見てこれ! 路地裏に変なガキいんだけど! ウケる、何この看板」
女はヒミコたちを見つけると、遠慮なくカメラのレンズを向けた。
フラッシュの光が焚かれる。
しかし、ヒミコは瞬きひとつせず、静謐な瞳でレンズの奥を見つめ返した。
「……いらっしゃいませ」
「え、喋った! ねぇお嬢ちゃん、ヒール屋って何? マッサージ?」
女は源氏名をレイナという、ヒミコの美貌に一瞬息を呑んだが、すぐに興味深そうに近づいてきた。
ヒミコはゆっくりと首を横に振る。
「治療。あなたの痛みを取り除く」
「治療~? ウケる、お医者さんごっこ?」
レイナはケラケラと笑ったが、その笑みはどこか引きつっていた。
彼女は無意識に、自分の左腕をさすった。
そこには、ファンデーションとコンシーラーで隠しきれていない、赤くただれた火傷の痕があった。出勤前のヘアセット中、急ぐあまりに高温のヘアアイロンを押し当ててしまったのだ。
ヒミコの銀の瞳が、その患部を射抜く。
「その腕。痛むんでしょう?」
「……は?」
「隠しても無駄。私の目には、あなたの細胞の悲鳴が見える」
ヒミコの言葉は、詩的でありながら、冷徹な事実を突きつけていた。
レイナの表情から笑いが消える。
今夜は彼女のバースデーイベントだ。指名客が大勢来る。腕にこんな醜い火傷があっては、ドレスも映えないし、何よりプロ意識が問われる。
「……ねぇ、ボク。これ、治せるの?」
レイナは挑発的に、しかし縋るような目で腕を突き出した。
カメラは回ったままだ。
「もし治せたら、神動画確定じゃん? でも嘘だったら、ジュース奢りなよ」
「治したら、一万円。約束できますか?」
「ハッ、治るわけないじゃん。いいよ、治ったら払ってやるよ。一万でも二万でも!」
契約は成立した。
ヒミコは古新聞の上から立ち上がることなく、静かに右手を差し出した。
その仕草は、信徒に祝福を与える聖職者のように優雅だった。
「――『治癒』」
ヒミコの唇が紡いだのは、この世界には存在しない祈りの言葉。
次の瞬間、薄暗い路地裏に奇跡が顕現した。
ヒミコの掌から、清浄な光が溢れ出したのだ。
それはLEDの人工的な光とは違う。月の光を蒸留し、生命の根源的な輝きだけを抽出したような、柔らかく、温かい光。
光の粒子がレイナの腕に舞い降りる。
「え、なに、熱く……ない?」
レイナが目を見開く。
光が肌に吸い込まれていく。
赤く腫れ上がっていた皮膚が、水ぶくれが、まるで逆再生の映像のように収束していく。
死滅していた細胞が歓喜の歌を歌いながら再生し、焦げた組織が剥がれ落ち、その下から生まれたばかりの瑞々しい肌が現れる。
わずか数秒の出来事だった。
光が収まった時、そこには傷一つない、白磁のような腕があった。
いや、ただ治っただけではない。
火傷の痕があった部分だけ、キメが細かく、透き通るような美しさを放っている。
「……嘘」
レイナはスマホを取り落としそうになりながら、自分の腕を凝視した。
指で触れる。痛みはない。つるりとした感触だけがある。
コンシーラーよりも完璧に、修正アプリよりも鮮やかに、現実は書き換えられていた。
「エグい……何これ、CG? いや、触れるし……」
「治りました。代金を」
ヒミコが静かに掌を広げる。
奇跡を起こした後だというのに、彼女は誇ることもなく、ただ淡々と対価を求めた。
その姿は、奇跡すらも日常の些事として扱う、超越者のようだった。
「あ、アンタ何者!? 神様!? ていうか肌、元より綺麗になってるんだけど!」
「一万円」
「払う! 払うよ! つーか安すぎでしょ!」
レイナは興奮した手つきでブランド物の財布を開き、一万円札を取り出した。
それをヒミコの手のひらに乗せる。
聖女の手の中に、俗世の欲望の象徴である紙幣が収まる。
「動画、インスタあげていい!? これ絶対バズるって!」
「……ご自由に」
「ヤバいヤバい、マジでありがとう! また来るから!」
レイナは嵐のように去っていった。
何度も腕をさすり、スマホに向かって興奮気味に喋りながら、ネオンの海へと消えていく。
路地裏に、再び静寂が戻った。
「……おい、嬢ちゃん」
一部始終を見ていたゲンが、干上がった声を出した。
「お前さん、本当に……何なんだ?」
「私はヒミコ。ヒール屋の店主」
ヒミコは、手に入れたばかりの一万円札を、太陽にかざすように見つめた。
そして、ふわりと微笑んだ。
先ほどの神秘的な聖女の顔から、年相応のあどけない少女の顔へと、劇的に変化する。
彼女の瞳が捉えているのは、もはや世界の真理でも人間の細胞でもない。
もっと切実で、もっと魅力的な「何か」だった。
「ゲンさん、店番をお願い」
「あ? どこ行くんだ」
「仕入れ」
ヒミコは脱兎のごとく駆け出した。
検査着の裾をひるがえし、路地裏を抜け、向かった先は――
24時間営業、光のオアシス、コンビニエンスストア。
数分後。
ヒミコは戻ってきた。
その両手には、ビニール袋が食い込むほど握りしめられている。
「……買いすぎだろ」
ゲンの目が点になった。
袋の中身は、すべて「おにぎり」だった。
ツナマヨ、紅鮭、辛子明太子、日高昆布、チャーハン風、赤飯……。
棚にあるおにぎりを端から端まで買い占めたかのような量だ。その数、およそ三十個。
「計算した」
ヒミコはダンボールの上に戦利品を広げ、真剣な表情で言った。
「一個で三時間動けると仮定して、これだけあれば三日は生きられる。一万円は、命の日数に変換された」
「極端なんだよ、お前の計算は……」
呆れるゲンをよそに、ヒミコはツナマヨのパッケージを丁寧に剥いた。
パリッという音。
彼女はその三角形の塊を、聖遺物を扱うかのような手つきで持ち上げ、小さな口で齧り付いた。
「……んッ」
咀嚼する。
その瞬間、ヒミコの周囲に再び、癒やしの光とは違う、幸福のオーラが漂った。
口の端にご飯粒をつけながら、彼女は目を細める。
ゴミと欲望の街、歌舞伎町。
その路地裏で、人類の医学を超越した聖女が、ツナマヨおにぎりを頬張り、至福の表情を浮かべている。
世界を変える力を持った少女の、あまりにもささやかで、平和な夜。
だが、彼女はまだ知らない。
先ほどのキャバ嬢・レイナがアップロードした動画が、この瞬間にもインターネットの海を駆け巡り、静かな爆発を起こし始めていることを。
『【閲覧注意】歌舞伎町の路地裏にいる魔法使い、ガチでヤバい。火傷が一瞬で消えた(証拠あり)』
拡散数、128RT。
512RT。
1024RT……。
数字は加速度的に跳ね上がり、やがて来る「行列」の予兆を告げていた。
ヒミコが二個目の明太子おにぎりに手を伸ばした頃、物語はすでに、彼女の手の届かない場所で動き出していたのである。
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