第29話 壊れた左腕
七月半ば、東京。
アスファルトが溶け出しそうな猛暑日。
港区の洋館の前には、今日も「奇跡」を求める長蛇の列ができていた。
その列の最後尾に、ひときわ異質な少年が立っていた。
高校生だ。
彼は、泥汚れ一つない、眩しいほどに白く洗濯された野球のユニフォームを着ていた。
ただ、その左腕は三角巾で不自然に固定され、右手には使い込まれたグラブが大切そうに抱えられている。
「……次は、お前か」
整理券をチェックしていた源田壮一郎が、サングラス越しに少年を見下ろす。
少年――誠太は、緊張で強張った顔を上げ、震える手でポケットから封筒を取り出した。
「お、お願いします……! 僕を、治してください!」
差し出された封筒の中身は、一枚の諭吉ではなかった。
皺くちゃの千円札、五百円玉、百円玉。
汗と泥にまみれた、不揃いな硬貨と紙幣の山。
「……これは?」
「部員のみんなが……集めてくれたんです。僕の怪我を治すために」
誠太の声が詰まる。
彼は地区予選を控えたエース投手だった。しかし、長年の酷使により肘の靭帯断裂と剥離骨折を併発。医師からは「今の医学では完治不能。二度とボールは握れない」と宣告されていたのだ。
最後の夏。甲子園への夢。
それが、一万円で買えるなら。
「……お願いします。僕に、もう一度だけ投げさせてください。みんなを、甲子園に連れて行きたいんです」
源田は、ジャラジャラと重い封筒を受け取り、その重さを掌で確かめた。
「……金に色はついていないが、重さには差があるようだな」
「え?」
「商談成立だ。入れ」
◇
洋館のリビングは、冷房が効いてひんやりとしていた。
ソファには、白いドレスを着た少女――ヒミコが座り、胸元の「おにぎりのキーホルダー」をいじっている。
「……ヒミコ。客だ」
源田が誠太を促す。
誠太はゴクリと唾を飲み込み、三角巾を外して、赤く腫れ上がった左肘を差し出した。
「……あの、お願いします」
ヒミコは、興味なさそうにその肘を一瞥した。
「……ボロボロ。骨がバラバラで、泣いてる」
「っ……!」
「でも、綺麗」
ヒミコが呟く。
彼女は、誠太が着ている真っ白なユニフォームと、手入れの行き届いたグラブを見た。
そこには、野球に対する誠実さと、仲間への想いが染み付いている。
「……お掃除、必要」
ヒミコが、そっと左肘に手を触れた。
瞬間。
「――『治癒』」
カッ、と白銀の光が弾けた。
誠太は目を閉じた。激痛が走るかと思った。
だが、訪れたのは真逆の感覚だった。
熱く、溶けるような心地よさ。
皮膚の下で、砕けた骨が元の位置に戻り、切れた靭帯が編み込まれていく音が聞こえるようだった。
「……はい、終わり」
光が収まる。
誠太は恐る恐る目を開け、左腕を動かした。
回る。曲がる。伸びる。
痛みなど微塵もない。それどころか、怪我をする前よりも軽く、力が漲ってくる。
「……うそだ……治った……本当に……!」
誠太はその場に膝をつき、嗚咽を漏らした。
絶望していた夏が、戻ってきたのだ。
「……すごい」
傍らで見ていたレイナが、サングラスを外して目を丸くしている。
『心眼』、オン。
「色が……なんて透き通った『青』なの。雲ひとつない、夏の空みたい」
レイナには見えていた。
誠太の心から溢れ出す、純度100%の感謝と希望。
そこには、大人のような打算も、恐怖も、エゴもない。
ただ、白球を追いかけたいという純粋な衝動だけがあった。
「……若駒よ」
柱に寄りかかっていた剣崎蒼司が、静かに口を開く。
「腕は治った。あとはその意志を球に乗せるだけだ」
「……はい! ありがとうございます!」
誠太は涙を拭い、深く、深く頭を下げた。
◇
洋館を出た誠太は、もう腕を吊っていない。
彼は眩しい日差しの中、待っている仲間たちの元へと力強く走り出した。
その背中は、来た時よりも一回り大きく見えた。
窓からその様子を見送りながら、ヒミコは自分の掌を見つめた。
「……ゲンさん」
「ん?」
「……一生懸命な人の『お掃除』は、少しだけ、手が温かくなる」
ヒミコは、微かに残る体温を握りしめた。
「そうか。……なら、次はもう少し高いおにぎりでも買ってやるか」
源田が珍しく、優しい声で応える。
洋館には、穏やかな空気が流れていた。
――だが。
その頃、霞が関。
厚生労働省の一室で、冷ややかな音が響いていた。
『承認』の判子が、書類に押し付けられる音だ。
「……無許可での医療行為、及び医師法違反。これ以上、野放しにはできませんね」
エリート官僚の男が、眼鏡の位置を直し、薄い笑みを浮かべる。
モニターには、ヒミコの洋館の写真が映し出されていた。
聖女の奇跡。
その代償として、国家の管理という名の「魔手」が、すぐそこまで迫っていた。
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