第28話 監視者の胃痛
港区、聖女の洋館から百メートル離れた路肩。
そこに、一日中エンジンをかけたまま停車している黒塗りのセダンがあった。
スモークガラスの奥で、公安調査庁のベテラン調査官、佐藤(52歳)は脂汗を流していた。
「……くっ、うぅ……」
胃が、焼け付くように痛い。
任務は過酷だった。
対象は、アメリカ帰りの超重要人物「ヒミコ」。
ホワイトハウスやペンタゴンすら動かしたとされる彼女の動向を、24時間体制で監視せよとの上層部からの厳命。
プレッシャーと不規則な食生活、そして連日の徹夜。
佐藤の胃壁は、ストレスで限界を超え、無数の穴が開いていた。
(……薬が、ない)
常備していた強力な胃薬の瓶は空だ。
コンビニに買いに行きたいが、今は相棒が仮眠中で車を離れられない。
キリキリとした激痛が走り、佐藤はハンドルに突っ伏した。
(……これが、国家公務員の末路か……)
薄れゆく意識の中で、走馬灯が見えかけた時。
コンコン、と運転席の窓が叩かれた。
「……!?」
不審者か。
佐藤は激痛を堪え、職業本能で身構えて窓を開ける。
そこに立っていたのは、純白のドレスを着た少女――監視対象のヒミコだった。
「……おじさん、顔色悪い」
彼女は、まるで捨て猫を見るような目で佐藤を覗き込んだ。
「……な、何のことだ……私はただの……営業車で……ぐっ!」
否定しようとした瞬間、胃に激震が走り、佐藤は呻き声を上げて崩れ落ちた。
もはや隠蔽工作どころではない。
「……中身、ボロボロ。穴だらけ。痛そう」
ヒミコが淡々と診断を下す。
その後ろから、サングラスをかけた大男――源田壮一郎がぬっと顔を出した。
「やれやれ。家の前で野垂れ死にされては寝覚めが悪い。……おい、あんた」
「……げ、源田……」
「公安か、内調か知らんが。……死にたくなければ、ルールは知っているな?」
源田は懐から領収書とボールペンを取り出し、カチリと鳴らした。
「治療費は一律一万円。……払うか、ここでたれ流して死ぬか。選べ」
佐藤は葛藤した。
対象者と接触し、あまつさえ利益供与(治療)を受けるなど、調査官としてあるまじき行為だ。これは始末書では済まない。
だが。
胃の痛みは、愛国心よりも鋭かった。
「……は、払う……頼む……!」
佐藤は震える手で財布を開き、なけなしの一万円札を抜き出した。
源田はそれをひったくり、手早く領収書に書き込む。
「但し書きは『治療代』でいいな? 経費で落ちるか知らんが」
「……うぐっ……」
源田が頷くと、ヒミコが佐藤の鳩尾に小さな手を当てた。
「……お掃除、するね」
瞬間。
車内が、やわらかな白銀の光に満たされた。
佐藤は目を剥いた。
熱い鉄を流し込まれたようだった胃の痛みが、まるで氷が溶けるように消えていく。
ただの鎮痛ではない。
荒れた粘膜が再生し、細胞が活性化し、新品の臓器へと生まれ変わる感覚。
これは医学ではない。魔法だ。
「……はい、終わり」
ヒミコが手を離す。
佐藤は恐る恐る腹をさすった。
痛くない。それどころか、20代の頃のような空腹感さえ覚える。
「……あ、ありがとう……ございます……」
思わず、敬語で礼を言ってしまった。
国家の敵かもしれない対象者に、頭を下げている自分。
だが、この圧倒的な「救済」の前では、国家のメンツなど些末なことに思えた。
「……ゲンさん。このおじさん、お仕事大変そう」
「ああ。くだらない仕事だがな。……おい、監視を続けるのは勝手だが、倒れるなら他所でやれよ」
源田はそう言い捨て、ヒミコを連れて洋館へと戻っていく。
ヒミコは一度だけ振り返り、無表情に手を振った。
「……おじさん、ご飯、よく噛んで食べて」
◇
数分後。
佐藤は、コンビニで買ったおにぎりを頬張っていた。
美味い。
胃が痛くないだけで、これほど世界が輝いて見えるとは。
相棒が戻ってきた。
「佐藤さん、何かありましたか? 少し寝てしまってすみません」
佐藤は、口元の米粒を拭い、キリッとした顔で無線機を掴んだ。
そして、かつてないほど晴れやかな声で報告を入れた。
『こちら佐藤。……対象に異状なし。今日も、平和に人助けをしているようだ』
懐には、一万円の領収書。
それは、彼にとって始末書の種ではなく、心のお守りとなった。
監視の目は続く。
だがその視線には、昨日までとは違う、どこか温かい色が混じっていた。
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