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第26話 プライスレスな贈り物

挿絵(By みてみん)


 ニューヨーク、JFK国際空港。

 滑走路のフェンスの外には、地平線を埋め尽くさんばかりの群衆が押し寄せていた。


 プラカード、国旗、そしてヒミコの似顔絵。


 『God Bless Saint Himiko!(聖女ヒミコに神の祝福を!)』


 『Don't Go!(行かないで!)』


 彼らの叫びは、ジェットエンジンの轟音さえもかき消すほどの熱量を持っていた。


 だが、厳重な警備に守られたVIP専用ラウンジの中は、静寂そのものだ。


「……やれやれ。人気者はつらいな」


 源田壮一郎が、窓の外の狂乱を一瞥し、コーヒーを置く。

 傍らでは、レイナが免税店で買い込んだ大量のブランドバッグを、魔法のようにコンパクトにパッキングしていた。


「あーあ。もう少し居れば、私が『聖女教・ニューヨーク支部』の代表として一生遊んで暮らせたのに」


「寝言は寝て言え。……それに、お前も日本のコンビニスイーツが恋しい頃だろう」


「……ちっ。バレてる」


 剣崎蒼司は、腕を組んで壁に寄りかかり、目を閉じている。

 その姿は、周囲のSPたちよりも遥かに鋭く、そして静かだった。


「……そろそろ時間か」


 搭乗アナウンスが流れようとした、その時。

 ラウンジの扉が開き、ハワード・マクミランが現れた。

 数日前までのやつれた表情はどこにもない。世界一の富豪としての威厳と、父親としての柔らかな顔つきを取り戻している。


「ミスター・ゲン。……本当に行ってしまうのか?」


 ハワードは、切実な眼差しで源田に歩み寄った。


「君たちの力には、一兆ドルを積んでも足りない。アメリカに残ってくれ。私の財団の顧問になってほしい。専用の島でも、国家予算並みの研究費でも、何でも用意しよう」


 提示された条件は、国家を買えるほどの富。

 だが、源田はいつものように眼鏡の位置を直し、薄く笑っただけだった。


「光栄な話だが、お断りだ。我々の拠点はあくまで港区のボロ屋敷なんでな」


「……金が不足か?」


「いいや。ヒミコの『一万円』という天秤は、あんたの全財産よりも重い。……それに」


 源田は、剣崎の方を顎でしゃくった。


「うちの侍が、そろそろ味噌汁と白米の発作を起こしそうでな」


「……否定はせん。こちらのステーキも悪くはないが、やはり出汁だしの味が恋しい」


 剣崎が苦笑する。

 ハワードは呆気にとられた顔をしたが、やがて観念したように肩をすくめ、小さく笑った。


「……負けたよ。君たちは、本当に自由だ」


 その時。

 ハワードの後ろから、小さな影が飛び出した。


「待って! ヒミコ!」


 アリスだ。

 数日前まで死の淵にいたとは思えないほど、血色の良い頬をして、ヒミコの元へ駆け寄る。

 彼女は両手で何かを強く握りしめていた。


「……アリス。元気になった」


「うん、ヒミコのおかげ。……あのね、これ」


 アリスがおずおずと差し出したのは、手のひらサイズの小さなマスコットだった。

 空港の売店で売られているような、少し安っぽいプラスチック製のキーホルダー。

 奇しくもそれは、「SUSHI」を模した、おにぎりの形をしていた。


「パパのお金じゃなくて……私が貯めてたお小遣いで買ったの。……その、お礼に」


 ハワードが目を細める。

 世界中の名医でも治せなかった娘の命。その対価が、数ドルのキーホルダー。

 だが、ヒミコはそれをじっと見つめ、首を傾げた。


「……これ、食べられない」


「ふふ、食べられないよ。でもね、これを持ってると、いつでも思い出せるの」


 アリスが必死に説明する。

 レイナが、サングラスをずらしてその「色」を見た。

 そこには、ハワードが持っていた黄金の輝きとは違う。

 もっと純粋で、透明で、どこまでも澄み切った「白銀プラチナの感謝」。

 計算も打算もない、ただの「ありがとう」の結晶。


「……ヒミコ。それはアリスちゃんの『心』よ。一兆ドルより、ずっと価値があるわ」


「……心」


 ヒミコはキーホルダーを手に取り、光にかざした。

 チープなプラスチックが、キラキラと輝く。


「……ん。わかった」


 彼女はそれを、純白のドレスの一番目立つ場所――胸元のリボンに丁寧に結びつけた。


「……これ、私の宝物にする」


「! ……うん! ありがとう、ヒミコ!」


 アリスが感極まってヒミコに抱きつく。

 ヒミコは少し驚いたように目をパチパチさせたが、やがてぎこちなく、アリスの背中をポンポンと叩いた。


「……アリス。元気でね。……お肉、たくさん食べて」


          ◇


 数十分後。

 ガルフストリームG650は、滑走路を蹴り、空へと舞い上がった。

 眼下には、遠ざかるマンハッタンの摩天楼。自由の女神が、米粒のように小さくなっていく。


 機内の窓からその景色を眺めながら、ヒミコが呟く。


「……ゲンさん」


「ん? どうした」


 源田がタブレットから顔を上げる。

 ヒミコは、胸元で揺れるおにぎりのキーホルダーを指先で弾いた。


「日本に帰ったら……本物のおにぎり、食べられる?」


「ああ。好きなだけな。港区のいつもの家で、最高級の海苔と塩で握ってやる」


「……ん。楽しみ」


 ヒミコは満足げに微笑み、シートに深く沈み込んだ。

 瞼を閉じれば、もうそこにはいつもの日常が待っている。

 野良猫の声、洋館の匂い、そして温かいご飯の湯気。


 最強の聖女と、その愉快な家族たち。

 アメリカでの大冒険を終え、彼らは帰るべき場所へと帰還する。


 さよなら、自由の国。

 ありがとう、一万円の奇跡。


(アメリカで聖女編 完)

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