第20話 黄金の愛
港区の空が、轟音に引き裂かれた。
『聖女教』の本部である洋館の上空を、旅客機並みの巨大なプライベートジェットが、規制空域など無視するかのように超低空で旋回していたのだ。
ズズズン……!
地響きと共に、洋館の前に黒塗りの巨大なSUVが十数台、軍隊のような統率で到着した。
掲げられているのは、星条旗。
車から降りてきたのは、屈強なSPたちに囲まれた一人の男。
銀髪をオールバックにし、仕立ての良いスーツを着たその男は、世界経済を牛耳るITの巨人、ハワードだった。
門番をしていた剣崎が、刀に手をかけながら眉をひそめる。
「……何奴だ。ここは静寂を尊ぶ聖域ぞ」
「退け、サムライ。話がある」
ハワードは剣崎を無視し、ズカズカと敷地内へ入っていく。その背後には、銃器で武装したSPたちが壁のように控えていた。
◇
リビングルーム。
純白のドレスを着たヒミコ、事務作業中の源田、そして巫女姿のレイナの前に、ハワードが仁王立ちしていた。
バシッ!
ハワードは一枚の紙切れをテーブルに叩きつけた。
小切手だ。金額欄は空白になっている。
「金額は好きに書け。一億でも百億でも構わん」
ハワードは、まるで商品を品定めするようにヒミコを見下ろした。
「娘の心臓移植が間に合わない。ドナーが見つからないまま、タイムリミットが迫っている。……今すぐ私のプライベートジェットに乗れ。アメリカへ来い」
命令だった。
拒否など許さない、圧倒的な富と権力に裏打ちされた傲慢さ。
ジャリッ。
空気が凍りついた。
剣崎が、鯉口を切ったのだ。
切っ先こそ見せていないが、その全身から放たれる殺気は、SPたちが一斉に銃に手をかけるほどの鋭さだった。
「……俺は、主殿の剣だ」
剣崎の声が、地を這うように響く。
「金で主の意志を買い叩こうとする不届き者め。その無礼、万死に値するぞ」
「剣崎、刀を収めろ」
源田が静かに制した。
彼は眼鏡の位置を直し、テーブルの上の小切手を指先一つで押し返した。
「ハワード氏。あなたの資産が国家予算並みなのは知っていますが……ここでのルールは絶対です」
源田は冷徹に言い放つ。
「当教会の往診料は一律一万円。一兆円積まれようが、ルールは変わりません。それに、我々はあなたの部下ではない。命令される覚えはありません」
「……何だと?」
ハワードのこめかみに青筋が浮かぶ。
これまで金で解決できなかったことなど一度もなかった男の、プライドが傷つけられた瞬間だった。
「いい度胸だ。……ならば、この館ごと買い取って更地にしてやってもいいんだぞ」
ハワードが指を鳴らそうとした、その時だ。
「……待って」
それまで黙っていたレイナが、二人の間に割って入った。
彼女の瞳は、ハワードをじっと見据えていた。
「ゲンさん、剣崎さん。……このおじさん、ただの嫌な金持ちじゃないわ」
レイナの『心眼』には、ハワードの精神状態が色となって見えていた。
全身を覆うのは、強欲と支配欲にまみれた、ドロドロとした不快な「泥色」。
だが、その奥深く。魂の核とも呼べる場所に、一点だけ、眩い光があった。
「……すごい色。こんなに綺麗な『黄金色』、初めて見た」
レイナは呟く。
それは、娘を想うあまりに震え、泣き叫んでいる、純粋無垢な父性愛の色だった。
「あんた、怖いんでしょ? 娘が死ぬのが怖くて、どうしようもなくて……だから、虚勢を張って怒鳴り散らすしかない。……自分の心臓を差し出せるなら、迷わずそうする準備ができてる。そんな色してる」
「ッ……!?」
ハワードの表情が凍りついた。
図星だった。
世界中の富を持っても、たった一人の娘の命を買えない無力感。それが彼をここまで狂わせていたのだ。
「……アリスは、まだ七歳なんだ」
ハワードの声が震えた。
傲慢な仮面が剥がれ落ち、そこには一人の疲れ切った父親の顔があった。
彼はその場に崩れ落ちるように膝をつき、床に手をついた。
「頼む……! 全財産を失ってもいい、私の命を持っていってもいい! だから……娘を、アリスを助けてくれ……!」
大富豪の土下座。
SPたちが動揺する中、ヒミコが動いた。
ドレスの裾を揺らし、ハワードの前に立つ。
「……顔、上げて」
ハワードが顔を上げる。
ヒミコの瞳は、どこまでも透明だった。小切手の金額にも、ハワードの権力にも興味がない目。
「アメリカ、おにぎりある?」
「……は?」
ハワードは涙を浮かべたまま、呆気にとられた。
何を言われたのか理解できなかった。
「おにぎり。……私、お腹空いた」
「あ、いや……米はある。最高のコシヒカリを用意しよう。専属の寿司職人も機内に乗せているが……」
ヒミコの目が輝いた。
「……いくら、ある?」
「い、いくら? キャビアでもトリュフでも、世界中の美食を望むだけ用意する!」
「ゲンさん」
ヒミコは振り返り、満面の笑みで言った。
「私、行く。……アメリカの美味しいもの、食べたい」
源田は深くため息をつき、やれやれと肩をすくめた。
剣崎は刀を収め、苦笑する。レイナは「やっぱりヒミコね」と笑った。
「……商談成立だな、ハワード氏」
源田はハワードに手を差し伸べた。
「ただし、条件があります。往診料は一万円。……その代わり、我々の移動・滞在・食費の全額負担。そして、ヒミコの安全を『アメリカ合衆国大統領と同レベル』で保障すること。……いいですね?」
「ああ……もちろんだ! 約束する!」
ハワードは源田の手を握り返し、涙を拭った。
◇
一時間後。
チーム・ヒミコを乗せた巨大なプライベートジェットは、羽田空港から大空へと飛び立った。
機内は、まるで空飛ぶ宮殿だ。
革張りのソファ、バーカウンター、そして約束通り、寿司職人がカウンターで新鮮なネタを握っている。
「……ん。美味しい」
ヒミコは窓の外の雲海を見下ろしながら、特上のいくら軍艦を頬張っていた。
その横で、剣崎が「雲の上とは……忍術のようだな」と感動し、レイナは「免税店で買い物し放題ね!」とはしゃいでいる。源田だけが、ハワードのSPと警備計画の打ち合わせに追われていた。
「アメリカ、遠い?」
ヒミコが呟く。
彼女にとって、研究室の外の世界は、どこまでも広く、そして美味しいもので溢れている。
物語の舞台は、日本という枠を超えた。
世界の闇と光が渦巻く超大国・アメリカで、聖女の奇跡がどのような嵐を巻き起こすのか。
ヒミコはまだ、おにぎりのことしか考えていなかった。
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