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第2話 一万円の価値

挿絵(By みてみん)

 

 光の暴力。

 それが、初めて「東京」という街を見たヒミコの感想だった。


 雨はいつの間にか上がっていた。

 しかし、彼女の目の前に広がる世界は、雨粒の冷たさよりも遥かに過酷な情報の洪水で溢れかえっていた。

 極彩色のネオンサインが網膜を焼き、ビルの壁面に張り付いた巨大なスクリーンからは、けたたましい音楽と男女の哄笑が垂れ流されている。

 行き交う人々は皆、何かに追われるように早足で、あるいは何かに酔ったように千鳥足で、ヒミコの小さな体を突き飛ばさんばかりの勢いで通り過ぎていく。


「……うぅ」


 ヒミコは思わず呻き、両手で耳を塞いだ。

 研究所の、あの静謐で無機質な白だけの世界とはあまりに違う。

 色は多すぎて混ざり合いドブ色に見えるし、音は重なり合ってただのノイズにしか聞こえない。

 匂いも酷い。排気ガス、香水、アルコール、そして残飯の腐臭。


 逃げなければ。

 本能がそう警鐘を鳴らした。

 ヒミコは人の波を避け、光の届かない場所を求めて、路地裏のさらに奥へと足を向けた。


 ビルの隙間。室外機の排熱がこもる狭い通路。

 そこは表通りの喧騒が嘘のように遠く、薄暗い静寂があった。

 ヒミコは湿ったアスファルトの上に膝をつき、大きく息を吐き出した。


「……ここなら、だれもいない」


 そう呟いた直後、足元のダンボールがガサリと揺れた。

 ヒミコは身構える。

 追手か。それとも、この街に巣食う別の怪物か。


 だが、そこから覗いたのは、黄金色の丸い瞳だった。

 黒猫だ。

 しかし、その姿はあまりに痛々しかった。

 泥と油にまみれた毛並みはボロボロで、後ろ足は不自然な方向に曲がっている。おそらく車に轢かれたのだろう。浅い呼吸をするたびに、肋骨が浮き出るほど痩せた体が痙攣している。


「……おまえも、いらないって言われたの?」


 ヒミコは無意識にそう問いかけていた。

 研究所で「廃棄」が決まった時の自分と同じ目をしている。

 諦念と、わずかな未練。


「……ニャ、ァ……」


 掠れた鳴き声が、ヒミコの胸の奥にあるスイッチを押した。

 父様は言った。「その力は、お前自身のために使え」と。

 でも、今のヒミコにとっての「自分のため」とは、この小さな命が消えるのを見過ごさないことだった。


 ヒミコは迷わず、右手を差し出した。

 汚れた黒猫の体に、透き通るような白い指先が触れる。


「――『治癒ヒール』」


 瞬間、路地裏の闇を、柔らかな光が満たした。

 それはヒミコの掌から溢れ出し、黒猫の体を優しく包み込む。

 バキ、ボキ、という骨が動く音が微かに響き、裂けた皮膚がジッパーを閉じるように塞がっていく。


 数秒後。

 光が収まると、そこには艶やかな毛並みを取り戻した黒猫が座っていた。

 猫は自分の体を不思議そうに舐めた後、金色の瞳でヒミコを見上げ、「ニャアン!」と力強く鳴いた。

 そして、ヒミコの冷たい頬に、温かい頭を擦り付けてくる。


「……あったかい」


 ヒミコが初めて触れた、他者からの純粋な好意。

 思わず頬が緩む。

 だが、その安らぎは唐突に破られた。


 ぐぅぅぅぅぅぅぅぅ――。


 盛大な音が、ヒミコの腹の底から鳴り響いたのだ。

 同時に、強烈な目眩が襲ってきた。視界が白黒に明滅し、手足の力が抜ける。

 魔法によるカロリー消費。

 研究所では高栄養の点滴で補われていたエネルギーが、今の彼女には欠落している。


「あ……おなか、すいた……」


 ヒミコがその場にへたり込んだ、その時だ。


「おいおい、たまげたな。今のは手品か? それとも最新のプロジェクションマッピングってやつか?」


 背後から、しわがれた声が掛かった。

 ヒミコは弾かれたように振り返る。

 そこには、一人の老人が立っていた。

 ボサボサの白髪に、薄汚れたジャンパー。片手には空き缶の入ったビニール袋を持ち、右足を引きずるようにして立っている。この辺りをねぐらにしているホームレスだろう。


「……だれ」


「俺はゲン。ただの通りすがりだが……嬢ちゃん、顔色が真っ白だぞ。死人みてぇだ」


 ゲンと呼ばれた男は、ヒミコの警戒心を解くように、ゆっくりと腰を下ろした。

 そして、懐からコンビニのおにぎりを取り出した。包装フィルムの賞味期限シールには「半額」の赤札が貼られている。


「食うか? ツナマヨだ。ちょっと期限が切れてるが、腹に入りゃ一緒だろ」


 おにぎり。

 データでしか見たことのない、三角形の食べ物。

 包装越しでも分かる微かな海苔の香りが、ヒミコの理性を揺さぶった。


「……ほしい」


「ほらよ」


 ゲンさんが放り投げたおにぎりを、ヒミコは空中でキャッチした。

 すぐに齧り付こうとして、手が止まる。

 父様の教えが蘇る。『対価のない報酬は、罠だと思え』。


 ヒミコは、おにぎりを抱えたまま、懐からあの一万円札を取り出した。

 父様がくれた、大切な一枚。


「これ、あげる。だから、それと交換」


 一万円札を差し出されたゲンさんは、目を丸くし、次の瞬間には吹き出した。


「ぶっ! お前、馬鹿か!? いや、大馬鹿野郎か!」


「……? 足りない?」


「足りないわけあるか! そのおにぎりは百円もしねぇんだよ! 一万もありゃ、そんなもん百個は買えるぞ!」


 ヒミコは小首を傾げた。

 この紙切れ一枚で、この素晴らしい食べ物が百個も?

 一万円の価値に対する認識が、ガラガラと音を立てて修正されていく。


「じゃあ、これはあげられない」


 ヒミコは一万円札を大事そうに懐にしまった。

 これは父様の形見だ。おにぎり一個で手放していいものではないらしい。

 でも、おにぎりは食べたい。今すぐ食べないと、倒れてしまいそうだ。

 ヒミコは、じっとゲンさんを見た。

 そして、彼が不自然に引きずっている右足に視線を落とす。


「おじいさん、足、痛いの?」


「ん? ああ、こいつは古傷だ。もう十年もこのままだ。雨の日は特に疼く」


「じゃあ、それ、治す。それでおにぎりと交換」


「あぁ? 何言ってんだお前、医者でも治せなかったもんを……」


 ゲンさんが呆れたように手を振ろうとした瞬間、ヒミコは距離を詰めた。

 猫を治した時と同じように、無造作にその右膝へと手を伸ばす。


「――『治癒ヒール』」


 再び、路地裏が淡い光に包まれた。

 ゲンさんの目が限界まで見開かれる。

 膝の奥から、温かい何かが流れ込んでくる感覚。十年もの間、錆びついた蝶番のように軋んでいた関節が、熱を持って組み変わっていく。

 痛みというノイズが消え、代わりに力の奔流が蘇る。


 光が消えた時、ゲンさんは呆然と自分の足を見下ろしていた。


「……おい、嘘だろ……」


 恐る恐る立ち上がる。

 杖代わりのビニール傘に頼らなくても、地面をしっかりと踏みしめられる。

 屈伸をしても、痛みがない。

 十年ぶりに、大地を自分の足で掴んでいる感覚があった。


「な、なんだこれ……魔法か? お前、一体……」


 震える声で問うゲンさんをよそに、ヒミコはすでにおにぎりの包装を剥がしていた。

 三角形の頂点を、小さな口で齧る。

 パリッとした海苔の食感。ふっくらとした米の甘み。そして、濃厚なマヨネーズとツナの塩気。


「……んッ!」


 美味しい。

 研究所の、味気ないチューブ入りの流動食とは比べ物にならない。

 脳髄が痺れるような旨味が、空っぽの胃袋に染み渡っていく。

 ヒミコは夢中で貪り食った。米粒一つ残さず、指についた海苔まで舐め取った。


「ふぅ……」


 満足げに息を吐き、ヒミコは驚愕で固まっている老人に向かって問いかけた。

 その顔は、無垢な天使のようであり、同時に獲物を見定めた捕食者のようでもあった。


「ねえ、おじいさん」


「……あ、ああ」


「これ(治癒)、一万円くらいの価値、ある?」


 ゲンさんは、自分の右足と、目の前の不可解な少女を交互に見た。

 十年苦しんだ激痛が消えたのだ。

 病院に行っても、手術をしても治らなかったものが、たった数秒で。

 一万円?

 そんなはした金で済む話ではない。億万長者が全財産を投げ出してでも欲しがる奇跡が、今ここにある。


 背筋に冷たいものが走った。

 この少女は、自分が何を持っているのか理解していない。

 この新宿という欲望の街に、核爆弾を素手で持ち込んだようなものだ。


「……嬢ちゃん。一万どころじゃねえよ」


 ゲンさんは、乾いた笑いを漏らした。


「そんな力がバレたら、世界中の金持ちが土下座して並ぶぞ」


 それを聞いたヒミコの銀色の瞳が、妖しく輝いた。

 彼女の中で、父様の言葉と、今の経験が繋がり、一つの「解」が導き出される。


 生きるためには、お金が必要。

 お金を得るためには、価値を提供すればいい。

 私の価値は、この力。


「そっか。……じゃあ、決まり」


 ヒミコは立ち上がり、スカートの埃を払った。

 そして、路地裏に捨てられていた綺麗なダンボールとマジックペンを拾い上げる。


「私、お店やる」


「は? 店?」


「ヒール屋。一回、一万円」


 キュッ、キュッ、とマジックが走る音が、静かな路地裏に響いた。

 それが、伝説の始まりだった。


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― 新着の感想 ―
テンポが良くてすごく読みやすいです! 五感の描写が上手くて、なんだかツナマヨが食べたくなってきました(笑)
面白いです。おにぎり一個でここまで情景を描けるのは凄いです。1万円というのも良い設定ですね。ヒール屋儲かりそうです(笑)ブクマしました。
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