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第16話 読みすぎる女王様

挿絵(By みてみん)


 港区の白亜の洋館に、穏やかな午後が流れていた。

 リビングのソファでは、剣崎蒼司が手に入れたばかりの愛刀『白雪しらゆき』を、まるで恋人を扱うような手つきで手入れしている。

 ポン、ポン、と打ち粉を叩く音だけが響く、静謐な時間。


 ピンポーン!


 突然、静寂を切り裂くチャイムが鳴り響いた。

 モニターを確認する間もなく、玄関のドアが勢いよく開く。


「ヒミコー! 遊びに来たわよー! あとゲンさん、生きてるー?」


 嵐のようなハイテンションと共に現れたのは、新宿No.1キャバクラ嬢、レイナだった。

 両手には高級ブランドの紙袋と、有名パティスリーのケーキ箱を抱えている。


「……げっ、レイナか」


 源田が書類から顔を上げ、露骨に嫌そうな顔をする。

 レイナはヒールをカツカツと鳴らしてリビングに入ってくると、そこで刀を構えている大男――剣崎と鉢合わせた。


「……む?」


 剣崎が眉をひそめ、鋭い眼光を向ける。

 身長190センチ近い巨体に、古風な着流し姿(源田の趣味)、そして抜き身の日本刀。どう見てもカタギではない。

 普通の女子なら悲鳴を上げて逃げ出す光景だ。


 だが、歌舞伎町で修羅場をくぐってきたレイナは違った。


「あら、新しいスタッフ? ……随分とコワモテねぇ。用心棒ってより、ヒットマンじゃない?」


「……俺は、主殿の剣。剣崎蒼司という」


「へぇ、ケンザキさんね! 私レイナ! よろしくね、マッチョマン!」


 レイナは物怖じするどころか、剣崎の鍛え上げられた上腕二頭筋を指先でツンツンとつついた。


「な、なな……! ふ、婦女子が軽々しく触れるな!」


 剣崎が顔を真っ赤にして飛び退く。

 剣の道には通じていても、女性への耐性は皆無だったらしい。


「あはは、可愛い反応! ねえ見てヒミコ、この人ウブよ!」


「……レイナ、うるさい。お土産、なに?」


 二階から降りてきたヒミコが、剣崎のことなど素通りしてケーキ箱に食いつく。

 剣崎は「……理解できん」と呟き、刀を鞘に収めて小さくなっていた。最強の剣豪も、新宿の女王には形無しだった。


          ◇


 ティータイム。

 テーブルには色とりどりのマカロンと紅茶が並ぶ。

 レイナはマカロンを齧りながら、弾丸のように喋り続けていた。最近の客の愚痴、流行りのコスメ、ヒミコに似合いそうな服の話。


「……でね、その客が本当にしつこくてさー。あ、ゲンさん、紅茶のおかわりいる?」


 レイナが笑顔でポットを持ち上げる。

 源田はパソコンに向かったまま、背中で答えた。


「いや、いい。それよりレイナ、例の件はどうなった?」


 ……反応がない。

 レイナはポットを持ったまま、ニコニコとヒミコの方を見ている。


「おい、レイナ?」


 源田が振り返り、少し大きめの声で呼ぶ。

 それでもレイナは気づかない。

 源田が怪訝に思い、立ち上がって彼女の肩をポンと叩いた。


「ッ!?」


 レイナがビクリと肩を震わせ、驚いたように振り返った。


「な、なによゲンさん! 急に触らないでよ、ビックリするじゃない」


「……いや、呼んだだろ。聞こえてなかったのか?」


「え? あ、ああ……ごめんごめん! ちょっと考えごとしててさ!」


 レイナは「アハハ」と明るく笑って誤魔化した。

 だが、ヒミコの手が止まった。

 マカロンを持つ手が空中で静止し、じっとレイナの顔を見つめる。


(……変)


 ヒミコは気づいていた。

 さっきから、レイナの視線が不自然だ。

 会話をする時、彼女は相手の目ではなく、口元を凝視している。

 そして、背後からの物音には一切反応しない。


 レイナは、聞こえていないのだ。

 かつて、信じていた男に裏切られ、巨額の借金を背負わされた時の過度なストレス。それが原因で発症した心因性難聴。

 彼女は、聴力のほとんどを失っていた。


 それでも彼女がNo.1であり続けられる理由。

 それは、異常なまでの「観察眼」にあった。

 相手の唇の動き、表情筋の僅かな収縮、瞳孔の開き具合。それらを視覚情報として脳に叩き込み、相手が何を言っているか、何を考えているかを「推測」して会話を成立させているのだ。

 それは血の滲むような努力の結晶であり、同時に彼女の脳を焼き切るほどの負荷をかける行為だった。


 ピンポーン。


 再びチャイムが鳴った。

 配送業者だ。


「俺が出る」


 剣崎が立ち上がり、玄関へ向かう。

 レイナも「私も帰る準備しなきゃ」と立ち上がった。


 玄関先で、業者の男が荷物を渡している。

 愛想の良い笑顔を浮かべた中年男性だ。

 リビングからその様子が見えた時、レイナの足が止まった。


「ここにサインをお願いします。……へへ、立派なお屋敷ですねぇ」


 男は笑顔でそう言った。

 だが、レイナの目には、全く別の情報が飛び込んできた。

 男の口角の引きつり。目の奥の冷たい光。小刻みに震える指先。


 ――金持ちが。どうせ悪いことして稼いだんだろ。死ねよ。俺はこんなに働いてるのに。


 声には出されていない「悪意」の叫び。

 視覚情報から再構築された「本音」が、ノイズとなってレイナの脳内に直接響き渡った。


「う、ぁ……」


 レイナが頭を押さえた。

 世界が歪む。

 笑顔の仮面の下にある、ドス黒いヘドロのような感情が、視界を埋め尽くす。

 笑顔で「ありがとうございます」と言う男の顔が、悪鬼のように見えた。


「レイナさん?」


 剣崎が異変に気づいて声をかけるが、その声すらレイナには遠い。

 聞こえないはずの「音」が、頭の中でガンガンと鳴り響く。

 嘘。嫉妬。悪意。

 見たくない。聞きたくない。


「……うるさい……ッ!」


 レイナはその場に崩れ落ち、嘔吐した。


「レイナ!」


 源田が駆け寄り、彼女の身体を支える。

 レイナは真っ青な顔で、源田の腕を掴んだ。震えが止まらない。


「ゲン、さん……聞こえるの……嘘が、真っ黒な音が……頭の中で、割れるみたいに……」


「落ち着け! どうしたんだ、急に!」


 パニックに陥るレイナ。

 その前に、ヒミコが静かに立った。

 彼女は、レイナの濡れた瞳を覗き込んだ。


「……レイナ。目、使いすぎ」


 ヒミコの銀色の瞳には、はっきりと見えていた。

 レイナの脳。視覚野から前頭葉にかけての神経回路が、異常な熱を持って発光しているのを。

 聴覚を失った代償として、視覚による情報処理能力を限界以上に引き上げた結果、脳がオーバーヒートを起こしている。

 「見えすぎて」しまっているのだ。


「ヒミコ……私、もう……」


「脳みその配線、焦げてる。……このままだと、壊れる」


 ヒミコは、レイナの頬に手を添えた。

 その手は、冷たくて心地よかった。


「一万円」


 ヒミコは短く告げた。

 レイナは、霞む視界でヒミコを見た。いつもの、感情の読めない無表情。

 けれど、その瞳の奥にある「心配」の色だけは、はっきりと分かった。


「……お友達価格で、治してあげる。……見たくないものは、見なくていいように」


 レイナは震える手で、ブランドバッグを探った。

 財布から、皺くちゃになった一万円札を取り出す。


「……お願い。静かにして……」


 ヒミコがお札を受け取り、ポケットにねじ込む。

 そして、両手でレイナのこめかみを押さえた。


「――『治癒ヒール』」


 カッ、と白銀の光が弾けた。

 脳内で焼き切れていた神経が修復され、そして「再構築」されていく。

 単に耳を治すだけではない。

 彼女が生きるために進化させてしまった「過剰な観察眼」を、脳が正しく処理できるように、回路そのものをアップグレードする。


 熱い奔流が脳を駆け巡り、やがてスーッと潮が引くように静寂が訪れた。


「……あ……」


 レイナが目を開けた。

 耳に届くのは、源田の荒い息遣いと、剣崎の衣擦れの音。

 そして、窓の外で小鳥が鳴く声。

 クリアな音。

 そして何より、視界から「ノイズ」が消えていた。


「……聞こえる。……静か」


 レイナが涙を流して呟く。

 ヒミコは「ん、終わり」と言って手を離した。


「配線、繋ぎ直した。……耳も治したけど、目も強くしといた。これからは、見たい時だけ『スイッチ』入れればいい」


「スイッチ……?」


 レイナは瞬きをした。

 世界が、鮮やかに見えた。

 源田の心配そうな顔。その奥にある、「こいつが無事でよかった」という安堵の感情が、まるで「色」のようにふわりと見えた気がした。


 それは、ヒミコの『治癒』によって覚醒した、新たな力(魔法)の萌芽だった。

 だが、今はただ、戻ってきた静寂と友人の温もりに、レイナは声を上げて泣いた。


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