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第11話 港区の聖女

挿絵(By みてみん)


 港区、某高級住宅街。

 各国の大使館や、著名人の邸宅が立ち並ぶその一角に、昨日まで「幽霊屋敷」と呼ばれていた白亜の洋館がある。

 『ヒミコ治療院』と名を変えたその場所で、新しい朝が始まろうとしていた。


 広々としたダイニングキッチンに、朝日が差し込んでいる。

 床は大理石、キッチンはドイツ製の最高級品。

 そんなモデルルームのような空間に、不釣り合いなほど香ばしい、海苔と炊きたてご飯の匂いが漂っていた。


「……よし。今日は三角に見えるな」


 エプロン姿の源田が、皿に乗せたおにぎりを満足げに見下ろした。

 具はツナマヨ。海苔はパリパリ。

 昨日の「爆弾」に比べれば、幾分か文明的な形状に進化している。


「ヒミコ、朝飯だぞ」


「ん……」


 二階から降りてきたヒミコは、目をこすりながら席についた。

 身につけているのは、レイナが「開店祝いよ!」と送りつけてきた、純白のワンピース。

 清潔に洗濯され、陽の光を浴びた彼女は、どこかの国の深窓の令嬢にしか見えない。中身がおにぎり好きの元実験体であることを除けば。


「いただきます」


 ヒミコはおにぎりを両手で持ち、パクついた。

 モグモグと口を動かし、少しだけ目を見開く。


「……おいしい。塩加減、昨日よりいい」


「だろ? 味噌汁も飲めよ。天導教授から差し入れられた、一杯三千円もする料亭のやつだ」


 源田はコーヒーを啜りながら、タブレット端末で今日の予定を確認した。

 画面には、急ごしらえで作った予約サイトの管理画面が表示されている。


「いいか、ヒミコ。今日からが本番だ」


 源田の表情が引き締まる。

 髭を剃り、イタリア製のスーツを着こなした彼は、もう路地裏のホームレスではない。

 伝説の弁護士、源田壮一郎としての顔だ。


「ここは新宿の路地裏じゃねぇ。日本の富と権力が集まる港区だ。客層も変わる。スマートに、格調高く行くぞ」


「すまーと。……わかった」


 ヒミコは口の周りについた米粒をペロリと舐め取り、力強く頷いた。


 ◇


 午前九時。開店の時間。

 源田は身だしなみを整え、重厚な玄関のドアを開けた。


「さあ、記念すべき初日の幕開けだ……って、なんだこれは!?」


 源田の言葉が、驚愕で止まった。

 後ろにいたヒミコも、きょとんとして目をぱちくりさせる。


 門の前が、カオスだった。


 まず目に飛び込んできたのは、花、花、花だ。

 門の左側には、大人の背丈ほどもある立派な胡蝶蘭のスタンドが十基以上ずらりと並んでいる。


 『祝・御開院 東都大学病院教授 天導重徳』


 『祝・奇跡の復活 一条陸』


 政財界の大物や、有名病院からの花束が放つ威圧感が凄まじい。


 対して、門の右側。

 こちらはピンクや金色の風船で彩られた、ド派手なバルーンアートが鎮座していた。


 『祝・爆誕! 聖女ヒミコ様♡ キャバクラ『ジュリエット』No.1 レイナより』


「……パチンコ屋の新装開店かよ」


 源田が頭を抱える。

 だが、問題は花ではなかった。

 その向こう側にある、人の波だ。


 閑静な高級住宅街の道路を埋め尽くす、数百人の行列。

 路地裏時代の噂を聞きつけた一般人、ネットで情報を特定した野次馬、そして藁をも掴む思いでやってきた重病患者たち。

 彼らが、今か今かと開門を待っていたのだ。


 近隣の豪邸の窓からは、セレブな住民たちが「何事かしら?」と怯えた表情でこちらを覗いている。


「……マズいな。近所迷惑で通報されるぞ」


 源田は瞬時に状況を判断した。

 彼は懐から小型の拡声器(昨日のうちに用意していた)を取り出し、門の外へと踏み出した。


「おはようございます! 院長の代理を務めます、源田です!」


 よく通る、威厳のある声が響き渡る。

 ざわついていた群衆が、一瞬で静まり返った。


「当院は完全予約制ですが、本日に限り、整理券を配布します! ただし! ここは住宅街です。私語、喫煙、ポイ捨て、その他近隣の迷惑になる行為をした者は、即刻治療を拒否し、退去してもらいます! 以上!」


 弁護士時代に培った、相手を萎縮させるほどの「圧」。

 客たちは一斉に背筋を伸ばし、無言で整列した。

 源田は満足げに頷き、門を開放した。


「よし。……ヒミコ、仕事の時間だ」


「ん。一万円、回収する」


 ◇


 かつて華族が客人を迎えたであろう、豪華な応接室。

 そこが、今の診察室だ。

 最高級の革張りソファに、ヒミコはちょこんと座っていた。


「次の方」


 入ってきたのは、酸素ボンベを引きずった老人だった。

 付き添いの家族が、震える手で一万円札を差し出す。

 源田がそれを素早く受け取り、アタッシュケースに収めるのと同時に、ヒミコの手が老人の胸に触れる。


「――『治癒ヒール』」


 カッ、と部屋が白光に包まれる。

 次の瞬間、老人は酸素マスクを自ら外し、「息ができる……!」と涙を流した。


「はい、次」


 余韻に浸る間もなく、ヒミコは次の客を呼ぶ。

 次は、松葉杖をついたサッカー少年。

 その次は、過労で顔色が土気色になったエリートサラリーマン。


 一万円。治癒。感謝。退室。

 一万円。治癒。号泣。退室。


 その光景は、神聖な儀式というよりは、高度に効率化された「奇跡の工場」だった。

 アタッシュケースの中には、見る見るうちに渋沢栄一の山が築かれていく。


 だが、順調に見えた矢先、トラブルは起きた。


「ちょっと! 責任者を出してちょうだい!」


 金切り声と共に、診察室のドアが開かれた。

 入ってきたのは、全身をブランド物で固めた初老の婦人。そして、その後ろには困り顔の警察官が二人。

 地域の自治会長を務める、近所の資産家夫人だった。


「何という騒ぎなの! 静かな住宅街に、こんな得体の知れない人を集めて! 即刻立ち退いていただきましてよ!」


「奥様、落ち着いてください。現在営業許可を確認中でして……」


「警察なんて当てにならないわ! わたくしが直接引導を渡してやります!」


 夫人はヒミコを睨みつけた。


「あなたね、怪しげなカルト宗教を始めた子供というのは! ここは港区よ、新宿の吹き溜まりとは違うの!」


 ヒミコは、キョトンとして夫人を見た。

 そして、夫人の腕の中に抱かれている、老いたトイプードルに視線を移した。

 犬は白内障で目が白く濁り、ぐったりとしている。


「源田、どういうことだ!」


 警官が詰め寄るが、源田は動じずに懐からファイルを取り出した。


「お巡りさん、ご苦労様です。これ、営業許可証と不動産登記簿、あと近隣への事前告知書の写しです。法的には何の問題もありません」


「えっ、あ、はい……完璧ですね……」


「そして奥様。当院への威力業務妨害および名誉毀損に当たる発言は、慎んでいただきたい。訴訟の準備はいつでもできていますよ?」


 源田がニッコリと、しかし目が笑っていない笑顔で牽制する。

 夫人が「な、なによ!」と怯んだ隙に、ヒミコがソファから降りて、トイプードルに歩み寄った。


「……痛そう」


「触らないでちょうだい! この子はシャルル、由緒正しい血統書付きの……」


 ヒミコは夫人の言葉を無視して、犬の頭にそっと触れた。


「――『治癒ヒール』」


 淡い光が、老犬を包み込む。

 瞬間。

 ぐったりしていたシャルルの目に光が戻り、濁っていた瞳が黒く輝き出した。

 犬は夫人の腕から飛び降りると、嬉しそうに尻尾を振って、部屋中を駆け回り始めた。


「ワオォン! キャンッ!」


「えっ……嘘……シャルル? 腰が悪くて歩けなかったはずじゃ……」


 夫人が呆然と立ち尽くす。

 シャルルは元気にヒミコの足元にじゃれつき、それから夫人の元へ走って顔を舐め回した。


「ああ、シャルル! 元気になったのね!」


 夫人は涙ぐんで愛犬を抱きしめた。

 そして、ハッと我に返り、ヒミコを見た。さっきまでの険しい表情は消え失せ、そこには信仰に近い輝きがあった。


「……素晴らしいサロンですわね」


「一万円」


 ヒミコが掌を差し出す。

 夫人は震える手で財布を開き、一万円札を……いや、財布に入っていた全ての万札を鷲掴みにして置いていった。


「お釣りはいらなくてよ! 今度、お友達も連れてきますわね!」


 嵐のように去っていく夫人。

 警官たちは顔を見合わせ、苦笑して敬礼し、帰っていった。

 源田は深くため息をつき、ネクタイを緩めた。


「……港区の洗礼も、どうにかクリアしたか」


「ゲンさん。あのおばあさん、いい人?」


「ああ。今日から最強の宣伝マンだ」


 ◇


 夜。

 狂乱の一日が終わり、洋館に静寂が戻った。

 リビングのテーブルの上には、数え切れないほどの一万円札の束が積まれている。

 路地裏で稼いでいた時とは、桁が違っていた。


「……初日の売上だけで、おにぎりが一生分買えそうだな」


 源田が呆れたように呟く。

 これだけの金があれば、何でもできる。世界一周だって、最高級の宝石だって買える。

 だが、ヒミコはテーブルの上の札束よりも、源田が夜食に作ったおにぎりの方をじっと見ていた。


「一万円は、一万円。紙切れはお腹いっぱいにならない」


「違いない」


 源田は笑い、ヒミコの頭を撫でた。


「でも、これだけあれば美味いものが食えるぞ。明日は何がいい? 寿司か? ステーキか?」


「……いくら」


「ん?」


「いくらのおにぎりが食べたい。プチプチしたやつ」


 源田は吹き出し、大きく頷いた。


「わかった。最高級のいくらを山ほど買ってきてやるよ」


 二人の笑い声が、広い洋館に響く。

 平和な夜。

 だが、二人はまだ気づいていない。


 洋館の門の外。

 街灯の届かない暗がりに、一台の黒いセダンが停まっていることに。

 そのスモークガラスの奥から、冷たいレンズがヒミコの姿を捉えていることに。


 ヒミコ治療院の伝説は始まったばかり。

 そして、それを壊そうとする闇もまた、静かに動き出していた。


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何卒、よろしくお願いいたします!

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