第1話 ナンバー135を捨てた夜
2026/03/01
第一話の冒頭という一番大事なツカミの部分への的確なご指摘、本当にありがたいです。「サイレン=音」という読者の自然な認識と、「赤色で染め上げる=視覚」という描写が混線してしまっていたという分析、おっしゃる通りだと思います。
「鼓膜を突き破るような赤色のサイレンが、無機質なコンクリートの回廊をどす黒く染め上げていた。」→「鼓膜を突き破るようなサイレンが鳴り響く中、激しく点滅する赤色灯が、無機質なコンクリートの回廊をどす黒く染め上げていた。」に改稿。
警告音が鳴り響いている。
鼓膜を突き破るようなサイレンが鳴り響く中、激しく点滅する赤色灯が、無機質なコンクリートの回廊をどす黒く染め上げていた。
少女は走っていた。ただ、走らされていた。
裸足の裏が冷たく硬い床を叩くたび、未発達な肺が焼きつくような痛みを訴える。
だが、彼女の細い手首を掴んで引いていく男の背中は、決して止まろうとはしなかった。
「こっちだ、135(イチサンゴ)! 振り返るな!」
男の声が、サイレンの音を裂いて響く。
白衣を血で汚し、呼吸を荒げているその男を、少女は「父様」と呼んでいた。
男の手首を握る力は、少女の骨がきしむほど強く、そして痛いほどに熱かった。
「隔壁が閉じるぞ! 急げ!」
背後から、重厚なシャッターが落下する轟音が迫る。
まるで巨大な鉄の獣が、逃げ出した獲物を咀嚼しようと牙を鳴らしているようだ。
少女にはまだ「恐怖」という感情の定義が曖昧だった。
ただ、絶対的な存在である父様が焦っている。その事実だけが、もつれそうになる足を前へと動かしていた。
ダンッ、と男が床を蹴り、少女の体を放り投げるようにして、閉まりかけたシャッターの下を滑り抜ける。
その直後、ドォンという衝撃音とともに、背後で世界が閉ざされた。
一瞬の静寂。
そして、肌を刺すような冷気。
「……はぁ、はぁ、……抜けたか」
男が膝に手をつき、荒い息を吐き出す。
少女は、ゆっくりと顔を上げた。
そこは、天井のない部屋だった。
いいや、データにあった「外」という場所だ。
空からは、絶え間なく冷たい水が落ちてきていた。雨だ。
それは少女の頬を打ち、薄い検査着を瞬く間に濡らし、体温を奪っていく。
「寒いか、135」
男が少女の肩を抱き寄せた。
その体温に触れた瞬間、少女は自分の体が震えていることに気づく。
「……さむい。これが、そと?」
少女の声は、雨音にかき消されそうなほど細く、掠れていた。
喉が渇いているわけではない。誰かと会話をする機能があまり使われてこなかったため、発声器官が未熟なのだ。
男は何も言わず、少女を抱えたまま歩き出した。
コンクリートの壁を越え、フェンスを破り、泥にまみれた斜面を滑り降りる。
遠くで、研究所のサーチライトが夜空を切り裂いているのが見えた。
二人は、人気のない高架下へと身を隠した。
頭上を、凄まじい速度で何かが通り過ぎていく音がする。自動車という乗り物だろうか。
湿ったコンクリートの壁に背を預け、男はずるずると座り込んだ。
その顔色は、研究所の壁よりも白かった。脇腹の白衣が、赤黒く染まっている。
「父様、血」
少女が指差すと、男は力なく笑った。
「ああ……かすり傷だ。それより、お前の顔を見せてくれ」
男の大きな手が、少女の頬を包み込む。
雨と泥で汚れたその手は、ひどく温かかった。
薄暗い高架下の闇の中で、少女の姿はあまりにも異質だった。
少女の髪は、色素を持たない純白だ。
雨に濡れ、重たく背中に張り付いているそれは、街灯の乏しいこの場所でも、自らが発光しているかのように白く浮かび上がっている。
肌もまた、血管が透けて見えるほどに薄く、白い。
研究所の無影灯の下では「検体として観察しやすい」と評価されたその特質は、この薄汚れた外の世界では、神秘的なまでに美しく、そしてあまりにも脆く見えた。
男は、少女の瞳を覗き込んだ。
虹彩の色素さえも欠落した、銀色の瞳。
そこには、夜空の月がそのまま映り込んでいるようだった。
「綺麗だ……」
男が、うわ言のように呟く。
「研究室の中に閉じ込めておくには、惜しいほどにな」
「……わたしは、検体ナンバー135」
「違う」
男が、強い口調で否定した。
その指が、少女の濡れた前髪を優しく梳く。
「お前はもう、135なんて番号じゃない。今日から、お前は人間として生きるんだ」
「にんげん」
「そうだ。だから、名前が必要だ」
男は苦しげに息を吐きながら、空を見上げた。
分厚い雨雲の隙間から、わずかに月明かりが漏れている。
いや、彼が見ていたのは月ではないのかもしれない。もっと遠くにある、あるいはかつてそこにあった、何か温かいものを見ている目だった。
「135……ヒミコ」
男の唇が、震えながらその音を紡いだ。
「ヒミコ、だ」
「ヒ、ミ、コ……?」
慣れない音の羅列を、少女は口の中で転がしてみる。
ヒミコ。ヒミコ。
それは無機質な番号よりもずっと柔らかく、そして温かい響きを持っていた。
「陽の光のように、誰かを照らす子になれ。……例えその姿が、月の光のように白くても」
男はそう言って、懐から何かを取り出した。
クシャクシャになった、一枚の紙切れだ。
端のほうが少し赤く汚れている。
彼はそれを、少女の小さな掌に押し付け、指を握らせた。
「これは?」
「一万円だ」
「イチマンエン」
「この世界で生きるための、力だ。……すまない、これしか持ってこれなかった」
男は、少女の手を両手で包み込み、拝むようにして額を押し付けた。
彼の肩が震えている。
少女の手には、彼の涙なのか、雨なのか、あるいは血なのか分からない熱い雫が落ちた。
「いいか、ヒミコ。よく聞け」
顔を上げた男の表情は、今まで見たどの表情よりも厳しく、そして優しかった。
「私は囮になって、奴らを東へ引きつける。お前は逆へ行け。人が多いところへ。東京の光の中へ紛れ込むんだ」
「父様は、こないの?」
「……私は、戻らなきゃいけない場所がある。だが、お前は違う。お前は自由だ」
男が立ち上がる。
ふらつく足取りで、高架下の出口へと向かう。
待って、と言おうとして、少女は声を飲み込んだ。
男の背中が「来るな」と叫んでいたからだ。
「生きろ、ヒミコ! その力は、お前自身のために使え!」
それが、最後の言葉だった。
男は一度も振り返ることなく、雨の闇の中へと走り去っていった。
遠くで、男を追う怒号とブレーキ音が聞こえる。
少女――ヒミコはそれを背に、反対方向へと歩き出した。
アスファルトは冷たく、小石が裸足の裏に食い込んで痛い。
けれど、彼女は歩いた。
一歩、また一歩。
泥だらけの足が、地面を踏みしめる。
ふと、彼女の足元で小さな変化が起きた。
コンクリートの割れ目から、踏み潰されそうな雑草が生えていた場所。
ヒミコの足がその横を通った瞬間、しおれていた葉が、ふわりと持ち上がり、青々とした光を帯びたのだ。
彼女の体の中には、研究所が恐れ、父が隠そうとした「ナニカ」が流れている。
科学では解明しきれなかった、奇跡と呼ぶにはあまりに不確かな力。
ヒミコは、右手に握りしめた紙切れ――一万円札を、胸元に抱き寄せた。
これが、父がくれた「力」。
これが、彼女の「価値」。
雨はまだ降り止まない。
前方には、東京の街の明かりが、まるで深海の底から見上げる海面のように、ぼんやりと輝いていた。
白い髪を雨に濡らしながら、少女はその光の海へと足を踏み入れる。
名前はヒミコ。年齢は12歳。
所持金、一万円。
身につけているのは、薄汚れた検査着と、世界を敵に回しても生き残るための「魔法」だけ。
こうして、少女の逃亡生活は幕を開けた。
それがやがて、この国中を巻き込む大騒動になるとは、この時の彼女はまだ知る由もなかった。
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