第10章:役割を持たない出会い シーン1:通過者としての滞在
小都市の外縁にあるその宿は、通過者を迎えることに慣れていた。
主人公が扉を押し開けたときも、宿の主人は顔を上げ、必要な分だけ視線を向けただけだった。
「部屋は空いていますか」
その問いに、主人は帳面を確かめ、短くうなずく。
部屋の位置、食事の時間、代金。確認されるのはそれだけだ。
出身地は聞かれない。
なぜこの街に来たのかも問われない。
何日滞在するのかについても、「決まったら教えてください」とだけ言われる。
主人公は、それを不親切だとは感じなかった。
むしろ、必要な応対が過不足なく与えられていると理解する。
部屋に案内され、簡素な寝台と机を確認する。
窓の外には、特別でも象徴的でもない街並みが広がっている。
数日滞在する、と自分で決めたが、その決定に重みはない。
宿が空いていたから。
天候が落ち着かないから。
それ以上の理由は、存在しない。
この場所で、彼女は「客」ではあるが、「意味のある客」ではない。
通りすがりの一人であり、記憶される必要もない存在だ。
そして、それがここでは自然だった。
期待される役割はない。
果たすべき物語もない。
宿の主人も、街も、彼女に何かを求めていない。
主人公は荷を下ろし、椅子に腰をかける。
この街に滞在する理由が曖昧であることを、否定しようとは思わなかった。
ここでは、それで十分だった。




