シーン2:悪役令嬢の努力が観測される
彼女を観察しようと思ったわけではない。
視界に入るものを、
そのまま受け取っていただけだ。
教室では、常に前列にいる。
板書を写す速度は速く、
質問には即座に答える。
正確で、過不足がない。
成績が良い、というより、
落とさないための配置だった。
礼法の授業では、
動きに迷いがない。
角度も、間も、
教本通りに再現されている。
そこには癖がなく、
個性が入り込む余地もない。
誤差を許さない身体の使い方だった。
社交の場でも同じだ。
会話は常に先を読み、
空気を滞らせない。
相手が望む位置に、
正確に言葉を置く。
楽しんでいる様子はない。
だが、手を抜く気配もない。
そして、王子との距離。
近すぎず、
遠すぎない。
視線を合わせる時間、
言葉を交わす頻度、
すべてが慎重に管理されている。
そこに感情の暴発はなく、
焦りも表に出ない。
私は理解する。
これは敵意の表現ではない。
誰かを押しのけるための
攻撃でもない。
「失敗できない立場」にいる者の、
最適化された振る舞いだ。
同情はしなかった。
努力を称える気も起きない。
ただ、構造として把握する。
彼女が悪役令嬢であるのは、
性格の問題ではない。
選択の結果でもない。
配置だ。
この位置に置かれ、
この役割を期待され、
失敗が許されない条件下で、
彼女は最善を尽くしている。
その事実を理解したとき、
私の中で、
彼女の輪郭が変わった。
役割ではなく、
個人として。
好意でも、連帯でもない。
だが、軽視でもなかった。
それは初めて、
彼女が「物語の駒」ではなく、
「この場所に立つ一人の人間」として
認識された瞬間だった。




