中に救うモノ
水が耳の中に入ったような感覚と、妙な浮遊感をニヒルは体感していた。だが、体の神経はズタボロなのか、痛みも冷たさも温かさも感じない。目を開いているのか、閉じていのか。それすらも。
ただニヒルが今、分かるのは暗いと言うことだけ。
あのよく分からない聞き覚えもない声も、あれ以来聞こえてもこない。このまま三途の川と言われる場所を渡るのだろうか。ただただ、無意味に考える事しか出来ずに、体感で数十分が過ぎた頃だった。
その赤白い閃光は刹那に走る。
ニヒルは自分の瞼が閉じていると理解し、自由の効かない中で瞼に神経を集中させた。
「君は……誰?」
周りの景色に対する驚きより先に、ニヒルはそう口走る。が、問い掛けても、瞬き一つしない。この状況に不気味さを感じながらも、自由の効かない体が現状の打破を拒む。
「……えっと……」
目と鼻の先で彼女は屈み、頬杖をついてジッとニヒルを紫紺の瞳で見つめていた。
彼女は一体何者なのだろうか。ただ一つ分かるのは、人間ではないということぐらいだ。顔は小さく、屈んで余計に目立つ体の細さ。あどけなさが残る体躯と、それを掻き消す鋭い爪に伸びた八重歯、コメカミから生えた禍々しい角に竜のような双眸。
その対比が異様な雰囲気をだしていた。
「……哀れな子よな? ニヒル」
その声は、あの時聞いたものだった。
「家族に見放され、仲間だと思っていたものに裏切られ。うぬは、哀れよな」
「な、なんだよ。嫌味を言う為にわざわざ、死ぬ間際に現れたのかよ。何も知らないくせに」
確かに哀れだろうさ。だが、それを今しがた出会った奴に言われる筋合いはない。この苦しみは。この憎しみは、ニヒル本人にしか分からないのだから。
「何も知らない? 朕は、うぬの事なら何でも知っている」
少女は立ち上がると、黒いドレスをヒラリと踊らせてニヒルの周りをゆっくりと歩き始めた。
「そんな出まかせ、誰が信じるか」と、目で追いかけて言うと少女は鼻で笑う。
「別に信じなくてもよい。だとしても、知っていると言う事実は変わらん。朕は、この世の誰よりも、うぬを知っているし、知りゆく者じゃ」
「知りゆくもの……ねぇ。残念ながら、それは無理なはなしだよ」
「無理?」
「ああ、残念ながら俺はもう死ぬんだ」
きっとこの幻想が溶けた頃、目を覚ます事はないのだろう。そんな想いを込めた重苦し声音を、少女は「ははは」と、一蹴した。
「うぬは死なんよ。他の誰でもない、朕がそうさせぬ」
「死なせないって……どうやって??」
少女は真正面で止まると、小さい両手をニヒルの両頬に添えた。少女の目に疑心の目を向けるニヒルの瞳を見つめて口を開く。
「朕に一時、体を授けよ」
「授け? って、どうやって」
「朕の血をうぬに。うぬの血を朕に。これで契約は完了じゃ」
ニヒルに迷いの言葉はなかった。だからといって別に彼女の言葉を信じた訳でもない。どうせ死ぬのなら、そんな諦め。あるいは、投げやりにも似た感情が間髪を入れずに、ニヒルの口を動かさせた。
「わかった。俺からも一ついいかな?」
「なんじゃ?」
「君の名前を教えてくれないか?」
少女は手を離すと、腕を組み頷いた。
「そんな事か。朕は──朕の名はゼ=アウルク」
ニヒルはその名を知っていた。──否、この世に住む人間ならば彼女の名を知らない者はいないだろう。永遠に語り継がれるべき、最悪で災厄の権化。死を司り、終幕を齎す怪物。体現された畏怖であり、この世の最強であり、そして、父と母達に打ち倒された魔王・ジゼ=アウルク。
「まさか、魔王と同じ名前だなんて。そりゃ、逃げたくもなるよね」
ニヒルなりに考察をすると、多分彼女は魔王と同じ名を持つ事により、命を狙われる事を恐れたのだ。だから、身を捨てて精神内に寄生し、生き延びていた。
まだ死にたくない少女が、力を貸すと言うのは必然だろう。魔族が体内に居たと言うのは、些か思うところもあるが、今となればどうだっていい事だ。
彼女も彼女なりに辛かったのだろう。
「何を言っておる? 朕こそが、この世を総べるべく産まれた王・ジゼ=アウルクぞ」
「そうかそうか」
こんな少女が魔王の筈なんかない。ニヒルの知っている魔王は、全身を強靭な鱗で覆われ、竜翼を生やした化物。体長は三メーターを有に超えていると記されていた。
どう転んでも、こんな小さくはないし、幼くもない。
「で、早く契約を」
「……じゃな。では、始めようかの」