今日をちゃんと生きたキミ
その朝、目覚めた僕の部屋には、ほのかに草の匂いが漂っていた。
昨日、師匠からもらった干し草の束を、部屋の隅に置いたからだ。
たったそれだけのことが、どうしてこんなにも落ち着くのか、自分でもよく分からなかった。
けれど、こういう「理由のいらない安心」があることを、今の僕は知っている。
布団を畳み、顔を洗い、外に出る。
朝日が差し込む畑では、すでに師匠が鍬を振るっていた。
その姿を見て、僕も自然と歩き出す。
道具を手に取る動きに迷いはなかった。
「おはようございます」
「おう。…声、しっかり出てるな」
「はい。まだ、たまに詰まりますけど」
「詰まっていいんだよ。詰まっても、ちゃんと届いてる」
その言葉に、僕はふっと笑った。
昼頃、あの子どもがまた畑にやってきた。
昨日よりも少しだけ近くまで来ていて、じっと僕を見ていた。
僕は手を止めて、小さく手を振った。
吃音で、うまく話せるか分からなかったけれど、それでもいいと思えた。
「こんにちは」
少し詰まりながらも、声に出すことができた。
子どもは驚いた顔をしてから、ぺこりと頭を下げた。そして、小走りで帰っていった。
「やったな」と師匠が言う。
「何が、ですか?」
「心が届くと、人は反応する。十分だ、よくできたな。」
僕はうなずいた。
言葉じゃなくても、何かが伝わった気がしていた。
午後、作業の合間に、師匠がぽつりと言った。
「そろそろ、お前に次のことを考えてほしいと思ってな」
「次のこと、ですか?」
「ここでの生活にも慣れてきた。仕事も覚えた。だったら――次は、自分で何かを始めてみたらどうだ」
僕は少し驚いたが、どこかでそれを感じていたのかもしれない。
この場所は、僕にとって“再出発”の地だった。だけど、ずっと居続けることが目的じゃない。
「急ぐ必要はない。だけどな――人は、自分の居場所を作るために、いつか一歩踏み出さなきゃならん」
その言葉を、僕は胸の中で何度も繰り返した。
夜。
自室に戻った僕は、あの紙と筆を手に取る。
今日も、言葉をいくつか綴ってみる。
――こんにちはと言えた。
――草の匂いが、少し好きになった。
――次のことを、考えてみようと思う。
明確な目標があるわけじゃない。
でも、もう前の僕じゃないことは分かっている。
吃音はまだある。過去も消えない。
けれど、恐れに支配されることは、もうない。
静かな夜の中、僕は最後の一文を綴った。
――明日はまだ分からない。でも、今日をちゃんと生きた。
筆を置くと、どこか胸が温かかった。
窓の外には、星が昨日より少し多く瞬いていた。
まるで、これから始まる日々を見守っているかのように。