表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/7

行動で示すんだ

朝の空気は少しひんやりとしていて、夏の始まりを告げる風が肌を撫でていた。

目を覚ました僕は、布団の上でしばらく天井を見つめていた。何か特別な夢を見ていた気がしたが、目覚めとともにその内容は霧のように消えてしまった。


けれど、不思議と心は穏やかだった。


昨日、師匠と共に種を撒いた小麦の畝は、まだ何の変化もないただの土にしか見えなかった。けれど僕には、その下で何かが確かに始まっている気がしてならなかった。

小さな命が静かに息を始めている。そう思うと、土の中がほんの少し温かく感じられた。


「さて、今日は…」


そう呟きながら僕は起き上がった。今日の予定は、畑の水やりと、師匠に頼まれた道具の手入れ。午前は仕事の時間、午後は少し自由があるとのことだった。


食卓には、昨晩のうちに用意されていた黒パンとチーズが置かれていた。まだ温もりが残る素焼きの皿に感謝しながら、それを口に運ぶ。

前の僕なら、味なんてよくわからなかった。だけど今は、塩気の奥に微かな甘みがあることにも気づける。


それだけで、自分が少し変わったような気がした。


外に出ると、師匠がすでに畑にいた。

僕の姿を見つけると、にやりと笑って、言った。


「よく寝た顔してるな。夢でも見たか?」


「……いえ、何か見てた気がしますけど、忘れてしまいました。」


「そうか。昔の人が言ったが、忘れていい夢はだいたい良い夢だ、そうだ。」


その言葉に、僕は小さく笑った。

たぶん、これが“朝の雑談”というやつなのだろう。まだ不慣れだけど、悪くない。


水桶を担いで、昨日撒いた畝に静かに水を注ぐ。土が水を吸い込む音が小さく響き、そのリズムに耳を澄ませると、不思議と心が落ち着く。


ふと、畑の隅にひとりの子どもが立っているのが見えた。

見慣れない顔だ。年の頃は八つくらいだろうか。

髪が風に揺れている。こちらをじっと見ていた。


僕が一歩近づこうとすると、その子はぱたぱたと走って行ってしまった。


何かを言いかけていたような気がした。けれど、何も言葉は聞こえなかった。


「……誰だったんでしょうか」


師匠が振り返る。


「ああ、あれか。あの子はこの近所の子だよ。人見知りだけど、よく見に来るんだ。お前のこと、気になってるんだろうさ」


「僕の…?」


「吃音がある奴に、人は距離を取ることもある。でもな、子どもってのはそうじゃない。興味があれば寄ってくるし、怖ければ逃げる。ただそれだけだ。」


僕は黙ってその言葉を噛み締めた。そういえば、子どもに対しては昔から苦手意識があった。からかわれるんじゃないか、笑われるんじゃないか――そんな恐れが先に立って、まともに目も合わせられなかった。


「お前が黙ってても、ちゃんと何かをやってる姿を見せてやればいいさ。それで十分だ。」


師匠の言葉に、僕は小さく頷いた。


午後。

作業を終えた僕は、村の裏道をゆっくり歩いていた。風が気持ちよく、鳥のさえずりが遠くに聞こえる。


丘の上に立つ一本の木の下に腰を下ろし、ぼんやりと空を見上げた。

ゆっくりと雲が流れていく。

あの雲のように、僕の時間も、少しずつ進んでいけばいい。


「吃音があるからって、人と話せないわけじゃない」


「話すことだけが、伝える手段じゃない」


昨日も今日も、師匠はそういうことを静かに教えてくれていた。


言葉は時に詰まる。でも、行動や表情は嘘をつかない。

僕は、そういう伝え方を覚えていけばいいのかもしれない。


日が暮れかけ、部屋に戻った僕は、机の上に紙と筆を見つけた。

師匠が「余ってたから使え」と置いていったものだろう。


ふと、今日の出来事を少しだけ書き留めたくなった。


 ――水をやった。

 ――見知らぬ子どもと目が合った。

 ――空が綺麗だった。


まるで日記のような、メモのような言葉たち。

でも、そこに綴られたのは、確かに“今日”の僕だった。


「……明日も、ちゃんと生きよう」


小さく呟き、僕は筆を置いた。


窓の外に、星がひとつだけ瞬いていた

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ