行動で示すんだ
朝の空気は少しひんやりとしていて、夏の始まりを告げる風が肌を撫でていた。
目を覚ました僕は、布団の上でしばらく天井を見つめていた。何か特別な夢を見ていた気がしたが、目覚めとともにその内容は霧のように消えてしまった。
けれど、不思議と心は穏やかだった。
昨日、師匠と共に種を撒いた小麦の畝は、まだ何の変化もないただの土にしか見えなかった。けれど僕には、その下で何かが確かに始まっている気がしてならなかった。
小さな命が静かに息を始めている。そう思うと、土の中がほんの少し温かく感じられた。
「さて、今日は…」
そう呟きながら僕は起き上がった。今日の予定は、畑の水やりと、師匠に頼まれた道具の手入れ。午前は仕事の時間、午後は少し自由があるとのことだった。
食卓には、昨晩のうちに用意されていた黒パンとチーズが置かれていた。まだ温もりが残る素焼きの皿に感謝しながら、それを口に運ぶ。
前の僕なら、味なんてよくわからなかった。だけど今は、塩気の奥に微かな甘みがあることにも気づける。
それだけで、自分が少し変わったような気がした。
外に出ると、師匠がすでに畑にいた。
僕の姿を見つけると、にやりと笑って、言った。
「よく寝た顔してるな。夢でも見たか?」
「……いえ、何か見てた気がしますけど、忘れてしまいました。」
「そうか。昔の人が言ったが、忘れていい夢はだいたい良い夢だ、そうだ。」
その言葉に、僕は小さく笑った。
たぶん、これが“朝の雑談”というやつなのだろう。まだ不慣れだけど、悪くない。
水桶を担いで、昨日撒いた畝に静かに水を注ぐ。土が水を吸い込む音が小さく響き、そのリズムに耳を澄ませると、不思議と心が落ち着く。
ふと、畑の隅にひとりの子どもが立っているのが見えた。
見慣れない顔だ。年の頃は八つくらいだろうか。
髪が風に揺れている。こちらをじっと見ていた。
僕が一歩近づこうとすると、その子はぱたぱたと走って行ってしまった。
何かを言いかけていたような気がした。けれど、何も言葉は聞こえなかった。
「……誰だったんでしょうか」
師匠が振り返る。
「ああ、あれか。あの子はこの近所の子だよ。人見知りだけど、よく見に来るんだ。お前のこと、気になってるんだろうさ」
「僕の…?」
「吃音がある奴に、人は距離を取ることもある。でもな、子どもってのはそうじゃない。興味があれば寄ってくるし、怖ければ逃げる。ただそれだけだ。」
僕は黙ってその言葉を噛み締めた。そういえば、子どもに対しては昔から苦手意識があった。からかわれるんじゃないか、笑われるんじゃないか――そんな恐れが先に立って、まともに目も合わせられなかった。
「お前が黙ってても、ちゃんと何かをやってる姿を見せてやればいいさ。それで十分だ。」
師匠の言葉に、僕は小さく頷いた。
午後。
作業を終えた僕は、村の裏道をゆっくり歩いていた。風が気持ちよく、鳥のさえずりが遠くに聞こえる。
丘の上に立つ一本の木の下に腰を下ろし、ぼんやりと空を見上げた。
ゆっくりと雲が流れていく。
あの雲のように、僕の時間も、少しずつ進んでいけばいい。
「吃音があるからって、人と話せないわけじゃない」
「話すことだけが、伝える手段じゃない」
昨日も今日も、師匠はそういうことを静かに教えてくれていた。
言葉は時に詰まる。でも、行動や表情は嘘をつかない。
僕は、そういう伝え方を覚えていけばいいのかもしれない。
日が暮れかけ、部屋に戻った僕は、机の上に紙と筆を見つけた。
師匠が「余ってたから使え」と置いていったものだろう。
ふと、今日の出来事を少しだけ書き留めたくなった。
――水をやった。
――見知らぬ子どもと目が合った。
――空が綺麗だった。
まるで日記のような、メモのような言葉たち。
でも、そこに綴られたのは、確かに“今日”の僕だった。
「……明日も、ちゃんと生きよう」
小さく呟き、僕は筆を置いた。
窓の外に、星がひとつだけ瞬いていた