小さな歩み
朝陽がまだ柔らかく大地を撫でるころ、僕はいつものように目を覚ました。昨夜は、初めて案内役の――僕は心の中で“師匠”と呼んでいる――あの人と、簡素な食卓を囲んだ。麦粥に添えられた干し果実のほのかな甘みが、何よりのごちそうに感じられたのを覚えている。
今日は畑ではなく、村の市場へ行く日だ。師匠から「種屋に寄って、次の作付けの相談をしてこい」と言われた。畑仕事だけが仕事ではない。種を選び、道具を整え、そして人と交わることで、ようやく「働く」という実感が自分の中に刻まれていくのだと、自分でも少しずつ理解できるようになっていた。
寝床を整え、ガラス窓の隙間から吹き込む朝風を胸いっぱいに吸い込む。淡い青草の香りが肺に沁みて、体の奥からじわりと活力が湧いてくる。僕は軽く頭を掻き、昨日よりはずっとスムーズに言葉を紡げそうだと自分に言い聞かせながら、部屋を後にした。
石畳の小道を踏みしめるたび、かつての僕ならきっと震えていただろう。しかし今の僕は、足取りに少し自信がある。背筋を伸ばし、途切れ途切れながらも、心の中で静かに唱える――「大丈夫、自分のペースで」。
市場の入口には、色とりどりの屋台が並んでいた。野菜や果実、布地や陶器、鍛冶屋の鉄器に至るまで、人々の活気があふれている。就職が決まっただけで胸を張るわけではないが、この場の空気を前にして、胸の鼓動が少し高鳴った。
最初に向かったのは種屋の小さな店だ。木製の看板には「レノウ商店」と彫られている。店先には木箱に入った小麦の種、豆の種、さらには花の種までさまざまに並べられ、かすかな土と古い紙の匂いが混ざり合っている。
扉を押し開けると、奥から中年の店主が顔を出した。眼鏡の奥で目を細め、僕をじっと見つめている。
「おはよう、種屋の者だ。今日は何をお探しだ?」
言葉の前に一度だけ息を整えて、ゆっくりと口を開いた。
「あ、あの…次の作付けに…向けて、小麦の種を…分けてほしくて…」
言葉が震えたが、店主は途中で手を差し伸べるように、「ゆっくりでいい」と微笑んだ。僕は胸の奥がちくりと痛むのを感じた。これまで「話すのが怖い」と思い込んで、扉を開くことすらためらっていた自分がいる。
「小麦の種か。今期は良作が見込めそうだが、数を揃えるには早めに手を打ったほうがよい。どれくらい欲しい?」
店主の問いに、僕は心の中で数をかぞえながら答えた。
「二、二俵ほど…です」
すると店主は頷き、奥に下がって袋を取り出し、丁寧に量りに載せてくれた。箱に詰められた種の重みはずっしりと感じられたが、その重みは不安ではなく、これから芽を出す希望の象徴のようだった。
「これでいいかね?」
「はい、ありがとうございます…!」
言葉を言い終えると同時に、店主がにっこりと笑ってくれた。その笑顔には、畑で褒められたときと同じ暖かさがあった。僕は小さく頷き、代金を手渡す。
おまけに、店主は「次はトマトの種も試してみると面白いぞ」と種の見本を差し出してくれた。僕は驚きつつも、そのひと言がさらなる一歩を背中から押してくれるように感じ、「ぜひお願いします」と答えた。
店を出ると、僕は往路とは逆に、料理屋の前を通りかかった。窓からは香ばしそうなスープの匂いが漂い、店先のベンチでは朝食を楽しむ客たちが笑い声をあげている。つい立ち止まり、スープの一杯を懇願しそうになる自分に気づいたが、今日は種屋の用事だけ――と自分を戒めつつ、一呼吸おいてから再び歩き出した。
帰り道、差し出された種袋を肩に担ぎ、畑へ向かう石畳を足取り軽く進む。市場の雑踏が遠ざかるにつれ、再び畑の風景が目の前に広がった。湿った土の匂いと、さっきより高く昇った太陽が僕を迎える。
家路についた僕を見て、師匠が微笑んだ。
「おお、もう戻ったか。種も手に入れたようだな。」
「はい。今日、市場で…種を…手に入れました。」
緊張しつつも、自分の言葉に無理を感じずに伝えられたことに、僕は心の中で小さくガッツポーズをした。
師匠は袋を受け取ると、「さっそく撒いてみよう」と声をかけた。僕はほっと息を吐き、明日からの播種作業に思いを馳せる。
夕暮れまでまだ時間がある。僕は畑の隅で、一株だけ残しておいた小麦の苗を見つめた。頬をくすぐるそよ風の中で、僕はそっと呟く。
「明日は、もっと上手く話せるかな…」
小さな声だったが、その言葉は確かな希望を含んでいた。僕の新しい一日は、まだ始まったばかりだ。