偽小判
「速水先生、早く始めてよ」
「分かったよ。太郎坊」
江戸深川で素浪人の速水京四郎は、寺子屋の先生をしている。
ここは、きっぷの良い深川芸者や熱い材木問屋の若衆たちで賑わう町だ。
片田舎の道場では鋭い大刀筋だけが自慢だったが、江戸に出てもう十年。四十にもなって仕官の口はない。
何とか一旗揚げようと思っていたのだが、お世辞にも金儲けの才覚は無かった。
「誠という字はな、こう書くのだ」
子供たちの手を取って字の練習をしている。「いろは」から始めて一年でここまで来た。その中でも商家の太郎は、幼いながらも、すこぶる優秀であった。
「誠とは、どういう意味ですか?」
「うそのないことだよ」
速水は太郎坊の純真な目に向かって、そう答えた。
「鳥居様、いつもの茶菓子です」
大身旗本の鳥居摂津守は、伊勢屋多兵衛から小判の入った箱を渡された。江戸城作事方のお役目で、伊勢屋の材木を優先して買ったことの返礼であった。
ずしりと重い菓子箱を供に持たせて、あくびを一つ。
「伊勢屋、最近は面白い話もないな。何か余興はないか?」
「では、芸者衆をお呼びいたしましょう」
いま、伊勢屋の別宅は人払いしてある。伊勢屋が腰を上げると、鳥居はおもむろに扇子を投げた。
「まてまて、酒も女ももう飽きた。次は男共をからかってみたいものだ」
ちょっとした気まぐれだった。
小首を傾げた伊勢屋が、にぃと悪い顔をする。
「こういうのは如何でしょう。近所に浪人で速水という男がおります。この浪人男に鉛の偽小判を持たせて、どこぞに使いに出すというのは?」
「先方で偽物だと分かって揉めるのだな。面白い話だ」
鳥居は伊勢屋の悪戯に飛び付いた。
速水は旗本の鳥居様がお呼びということで、小僧さんに連れられて伊勢屋別宅までやって来た。何でも仕官の話があるとかないとか、はっきりしない。
「ご足労いただきまして大変申し訳ございません。速水様、こちらは作事奉行の旗本、鳥居摂津守権之丞様でございます」
伊勢屋が頭を低くして速水に紹介した。
「奥州浪人、速水京四郎です」
「鳥居である。伊勢屋から聞いたが、速水殿は真っ正直なお方だとか。本日は内々の頼みがあってお呼び申した」
この鳥居という奉行、贅沢な着物を身に付けている。かなり羽振りが良いのであろう。
「頼みとは何ですか?」
速水は、話の先を訊ねた。
「京の近衛家にこの密書と百両を届けて欲しい。これは密事にて誰にも知られぬよう、速水殿だけにお頼み申したい」
宛名のない密書と白い紙に包まれた金二十五両が四つ、黒漆の台に乗せて速水の前に置かれた。大金である。
「しかしながら、それがしには寺子屋がありますし……」
速水は用心した。変な事件に巻き込まれそうな匂いがした。
「失礼ですが、これは路銀であります」
金色の小判が五枚、伊勢屋から差し出された。五両(現在の五十万円)の輝きは貧乏暮らしにはまぶしかった。
「無事に近衛家へ届けてくれたら、後日おりをみて幕府に仕官させる。ワシが約束する」
旗本の鳥居が、畳に額が付きそうになるくらい頭を下げた。
「これは御公儀の密命ですかな?」
「何も聞くな」
危ない橋だとは感じたものの速水は剣術に覚えあり。火中の栗を拾う気持ちで、この話に乗ることにした。
翌朝、うまい仕事に有り付いた速水は、しばらく寺子屋を休みにして、京に向かった。
さすがに腹に巻いた百両は重い。
仕事を終えて御公儀徳川幕府の家臣ともなれば鼻が高い。もっと良い暮らしだって出来るだろう。夢見心地で、足取りも軽かった。
大金を運んでいるので夜は宿場に泊まる。最初の夜は品川宿に取った。
夕げを食し、早めに床に就いたのだが、旅の初日の緊張で上手く寝付けなかった。
深夜うとうとした頃、我が荷物をあさる盗人が現れた。
あっ、あの百両を狙っているのだ。
「何ヤツ!」
速水は脇差で盗人の手元を切り払った。その時、二十五両の包みの一つが畳に落ちてバラバラとなる。
傷をうけた盗人は、驚いて一目散に逃げて行った。
行灯の明かりを寄せて、金を拾おうとした速水は驚いた。
しかしそれは金の小判ではなく、鈍い色の鉛板であった。
もしや盗人が差し替えたのだろうか。
ためしに他の三つの包みを広げてみた。確かに預かったままの二十五両包みだが、すべて中身は同じ、鉛板であった。
「これは偽小判。騙された」
預かった密書を開くと「へのへのもへじ」であった。
「何じゃ、こりゃあ。おのれーっ、鳥居と伊勢屋ダマしたな」
速水は腹の底から頭へと、怒りが湧いて昇った。
「たたき斬ってやる」
夜明けを待たずに宿を飛び出し、朝には江戸へと駆け戻った。
「どうしたの、先生?」
汗まみれ泥まみれになって走る速水に、店前をホウキで掃いていた太郎が、驚く声をあげた。
「太郎坊、あっ」
ここで速水は我に帰った。
怒りに任せて、自分は死地への道を走っていた。自分を見失って斬り合いをしても勝てるわけがない。
死にに行くのと同じだ。
しかし、正義感やら悔しさでこの件、うやむやには出来なかった。
地面をどしんと踏み鳴らして、怒りをこらえ、そこからは静かに歩いた。
一度長屋に戻り、鉄の鉢巻に手甲を付け、白いたすきを掛けてから、改めて伊勢屋別宅の門扉を押した。
庭に入ってから大きく呼吸をして、大音声を上げた。
「出て来い、鳥居!」
明け方まで酒を飲んでいたのであろう。
居候の鳥居は、取巻き連中と部屋から出て来て、刀を抜いた。
「速水か。路銀の五両は呉れてやるから帰れ。間抜けめ。ふははは」
庭に立つ速水を鳥居が見降ろしながら笑った。
「よくもダマしたな」
速水も大刀を抜いた。
「おお、曲者じゃ。斬れ、斬れ」
鳥居の号令で、四対一で睨み合う。
背後を取られないように、速水から先に動いた。
速水は自慢の鋭い太刀筋で、次々と敵を峰打ちにし、昏倒させる。
地面に這いつくばった鳥居の首筋に刃を当てて、低く叫んだ。
「次は命がないぞ!」
「助けてくれ。済まなかった」
青い顔をした鳥居は、両手を地面に付いて詫びた。
「この世に悪が栄えたためしなし。いつでも掛かって来い」
速水は大刀をくるりと納めて、堂々と別邸を後にした。
「敬とはこう書くのだよ」
今日も速水は、寺子屋の先生として子供たちに読み書きを教えている。
みんな可愛い。速水にとって生徒は我が子も同然である。
生き方は人それぞれ在るだろう。たとえ刀を振らなくても、人生は愉快だ。
「敬とはどういう意味ですか」
「うやまう、つつしむということだよ」
速水は、太郎坊の純真な目にそう答えた。